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しおりを挟む※ リューイチ視点
一生懸命してきたことが無駄になる言葉がある。
「もういいわ。貴方には何も期待しない」
母だ。
元プリマドンナの母は俺を一流のバレェダンサーにするべく厳しく育てた。しかし、海外トップ集団についていけず、さらに海外遠征中に靭帯損傷して日本に戻されたのだ。
母の見限ったその言葉にガッカリした。
自分でも実力の限界を感じていた。やるせない気持ちで適当な酒屋に入り、やけくそに酒を飲みまくって、そして気持ち悪くなった。
深夜の暗い路地、コンビニの灯りに吸い込まれるように入り、吐くためにトイレに向かった。
トイレの白い便座を汚いと思う事もなく、そこにうつ伏せになった。
頭痛がする。目が回り空間が歪んで見える。
込み上げる気持ち悪さ。でも吐けない。
吐き方が分からない。
「失礼します」
その時になって背中を擦る手に気づいた。
コンビニの制服が目に入る。
店員?
店員が俺の口の中に指を突っ込んだ。奥まで。
すると、吐けなかったものが一気に吐けた。
「はぁはぁ……」
手を汚してしまった。汚い。
汚くしてしまって、申し訳なくて謝った。
母は神経質に俺を育てた。だから、他人を汚して強い罪悪感でさらに気持ちが悪くなった。
「気にしないでいいです」
浴びるように酒を飲んで挙句に人に迷惑をかけた。惨めで何もかもが申し訳ない。だから、何度も謝った。
「しんどかったですね」
「……」
そして、店員は俺に暫くトイレを使わせてくれた。水までくれた。
物心ついた頃からバレェを踊り続け、ポキッとやる気が折れた俺に待ち受けたのは無気力だけだった。
次にやりたい事はなかった。
高校の時にスカウトされたモデルのバイトだけは続けていたが、いつでも辞めてよかった。
何にも興味が湧かない。
ただ、気が付けばあの店員のいるコンビニに足が向かっていた。
「いらっしゃいませ」
「……」
その次の日も。
「いらっしゃいませ」
「……」
その次の日は。
「……」
いなかった。休み。
無性に淋しいような気分になった。
その次の日。
「いらっしゃいませ」
「……」
いた。よかった。
彼の顔を見てホッとする自分がいた。
「いつも、ありがとうございます」
「……」
ありがとうございます。に“いつも”がついた。
何か、返事をと思っていると後ろの客が並び始めたので、何も言えずレジから離れコンビニを出た。
何か、返事をしたかった。
また引き返そうと思ったけれど、流石に日に何度も会いに行くのはどうかと止めた。
毎日、コンビニに行った。店員の制服についたネームプレートを見て“市谷”君と心の中で呼んでいた。
市谷ナニ君だろうかと思った時に、たまたま店員同士で話しているのを聞いた。
「さくらって可愛い名前ですよね」「女みたいな名前だから恥ずかしいけど」
市谷さくら。可愛い名前……。
そう思って口元が緩んだ。笑えたのは、バレェを辞めて初めてだった。
モデルの仕事は運よく続いていた。
俺は、トップモデルよりキレイに歩くことが出来る。バレェで創られた身体は皮肉にも服を着せるのに丁度よかったのだ。
「君、本当にキレイな顔をしているね。動画の方も撮ってみたい」
何故だが、空っぽの自分を撮りたがる人間は多かった。
求められていることは分かるが無気力は続いていた。
「好きな人を想い浮かべて」
「……」
「その好きな人を抱くように女の子に寄りかかって」
「……」
好きな……
好きな人なんて今までいたことがなかった。
だけど、そう言われて、市谷さくらを思い浮かべた。
市谷さくら。
知らなかった。
市谷さくらしか思い浮かばない。
好きだなんて知らなかった。
「好きな人に笑いかけて」
笑う……。市谷さくらに。
目の前のモデルの女を市谷さくらだと思えば、どんな表情でも出来る気がした。
腰を抱いて、腕を絡んで、これは……市谷さくら。
「いらっしゃいませ。お弁当温めますか?」
「……はい」
その撮影後、コンビニに向かった。
本当に俺は市谷さくらが好きなんだろうか。ちゃんと話したこともないのに。
「今日は、寒いですね」
市谷さくらが声をかけてきた。柔らかい声。
「……あ」
「雪が降って滑りやすいので気を付けてください」
レジ袋に商品を入れる指の爪が丸い。どうぞと差し出しながら微笑む彼。
丸い輪郭、人の良さそうな垂れた眉、一重の目、高くない鼻、小さな歯がきれいに並ぶ口…………。
彼の情報が頭に多く入ってくる。その分だけ俺は彼を見つめていたんだ。
「………………はい」
ちゃんと気付いた。
この人が好き。
「おつりです。ありがとうございます」
「……はい」
ちょんと弁当を手渡す手が触れた。
顔が火照るのが分かった。
コンビニにいる俺の好きな人。
レジに並ぶ、その間だけは彼を眺めても不自然ではない。
だけど、それだけでは物足りなくなった。彼のことをもっと知りたい。そう思って市谷さくらが仕事を終えた後、後をつけて住まいを知った。
コンビニバイトが休みの時は、マンションの外で彼を待機した。
何も罪悪感はなかった。だって、彼を見ているだけ。
彼を見れば癒される。
バレェの練習漬けだった頃も何も感じて生きてこなかった。求められたから言われた通りに生きて来た。
だから、これは初めて自分がしたいことだった。
モデルの仕事が上手くいくと、他の仕事も紹介してもらえるようになった。
演技の仕事だった。やりたいわけではなかったが、スカウトしてきた演出家がこう言った。
「貴方、好きな人いるでしょう。分かるわ。しかも片想い」
「……」
「貴方が活躍すれば、その人の目にも留まるかも」
市谷さくらの目に自分が映る。
ただのコンビニ客ではなくて……、知ってもらえるかもしれない。
たったその一言でやる気になった。
単純だった。知ってもらいたい。市谷さくらに知ってもらえるくらい有名になりたい。
「華生さんって、俳優されているんですか?」
ようやく市谷さくらに知ってもらえた。
市谷さくらの中に自分がいる気が少しした。
嬉しい。だけど、その頃にはそれだけでは足りなくなっていた。
市谷さくらが欲しい。
唾液が口の中で溢れだした。
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