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2. 弟
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病室でエヴァンは同じ病室の子ども達と遊んでいた。小児科病棟で一番年上の彼はこんな時大人びた顔をしているが、僕たちの姿を見た瞬間無邪気に顔を輝かせた。
両親が女性の主治医と話すために病室を出たあと、買ってきた彼の好物のm&m'sのミルクチョコレートの袋を渡すと、弟は大喜びで他の子どもたちにも分けて食べ始めた。僕の前での彼は幼い弟の顔をしている。
「脚の痛みはどうだ?」と訊くとエヴァンは「眠れない位痛い。痛くて痛くて何回も叫んだよ、頓服も効かなくて昨日の夜は倍飲んだ」と答えた。髪は抜け、すっかり痩せたエヴァンはチョコレートの丸いピンク色の粒を高く放り投げたあと口でキャッチしそこね、舌を出して笑った。ベッドに落ちたそれを僕は素早く拾って食べた。「ああっ」とエヴァンが残念そうな声を出す。
健康な身体なら害にならない菌でも彼にとっては毒になる。万が一のことを考えると、安易に落ちたものを食べさせられない。僕は過敏になっていた。
エヴァンはそういえば、と前置きをし、明るい笑顔を作って話しだした。
「昨日先生とこれからの治療をどうするか話したんだ。先生は抗癌剤をこれ以上使っても体力を奪われて命を縮めるだけだから、かえって緩和ケアに移行して家で過ごした方がいいんじゃないかって」
この事実が何を意味するか僕は知っている。弟の病気のことなら嫌になるほどインターネットや専門書を使って調べた。エヴァンがいなくなってしまうことはもちろん嫌だ。抗がん剤や放射線で治療していた頃のエヴァンは、激しい吐き気や倦怠感、下痢と闘っていた。あんなに頑張って辛い治療を乗り越えたのに、もう治療法が残されていないと言われたみたいで、出口を閉ざされたみたいで悔しかった。だけどここで諦めるな、重い副作用が出ても治療を続けろなんて僕の口から言えるはずがない。彼がどれほどの苦痛を伴う治療を耐え抜いてきたか知っているから余計に。
「帰って家で過ごした方がリラックスできるかもしれないな。どんな選択であれ俺はお前が生きるって信じてるよ、メンタルって大切だって先生も言ってたろ?」
「そうだね、一緒に入院してた友達も、家に帰ってから調子いいって言ってたよ。もしかしたら治ったりしてね」
弟が僕に心配をかけないように笑って見せるのに、また胸が苦しくなった。優しすぎる彼は、いつもこんなふうに笑うのだ。彼から本当の笑顔を奪う病気が心底憎かった。
「家に帰ったらまたゲームで対戦しよう!」と弟が言った。
「そうだな、負けないぞ! また一緒にオーツの番組も観ような! そうそう、知ってたか? セントラルパークからオーツが逃げ出したの」
弟を喜ばせたい、ただその一心だった。僕はそのとき初めてエヴァンに嘘をついた。
「本当?」
弟が目を輝かせて訊くものだから、「騙されたな、エイプリルフールだ!」とネタばらしするタイミングを失い、はからずしも僕は嘘を重ねることになってしまった。
「本当だ、さっき来るとき見たんだよ! オーツは、タイムズスクエアの上空を悠々と飛び回ってたよ!」
「そいつは凄くクールだね! オーツは元々野生だから人が思うよりずっと強い。鋭い嘴で鼠や虫を捕って生き抜くさ」
「ああ、そうだな」
「僕も早くこの病院を出るぞ。病気を治してオーツのように飛び立つんだ!」
「きっと叶うさ」
突き出した拳に弟の小さな拳が触れる。弟を騙していることに胸が痛んだけれど、こんな嘘でも彼の心の拠り所になればいい、闘う力を与えてくれる希望になればいいとこのときの僕は思っていた。
誰か嘘でもいいからエヴァンは助かると、癌はきれいさっぱり消えたと言って欲しかった。なぜ弟じゃなければいけなかったのか、他の誰かじゃなくて、なぜよりにもよってこんなに優しくて兄想いの彼がこんな過酷な運命に選ばれたんだろう。
彼が空を飛べる日はいつ来るのだろうか。
両親が女性の主治医と話すために病室を出たあと、買ってきた彼の好物のm&m'sのミルクチョコレートの袋を渡すと、弟は大喜びで他の子どもたちにも分けて食べ始めた。僕の前での彼は幼い弟の顔をしている。
「脚の痛みはどうだ?」と訊くとエヴァンは「眠れない位痛い。痛くて痛くて何回も叫んだよ、頓服も効かなくて昨日の夜は倍飲んだ」と答えた。髪は抜け、すっかり痩せたエヴァンはチョコレートの丸いピンク色の粒を高く放り投げたあと口でキャッチしそこね、舌を出して笑った。ベッドに落ちたそれを僕は素早く拾って食べた。「ああっ」とエヴァンが残念そうな声を出す。
健康な身体なら害にならない菌でも彼にとっては毒になる。万が一のことを考えると、安易に落ちたものを食べさせられない。僕は過敏になっていた。
エヴァンはそういえば、と前置きをし、明るい笑顔を作って話しだした。
「昨日先生とこれからの治療をどうするか話したんだ。先生は抗癌剤をこれ以上使っても体力を奪われて命を縮めるだけだから、かえって緩和ケアに移行して家で過ごした方がいいんじゃないかって」
この事実が何を意味するか僕は知っている。弟の病気のことなら嫌になるほどインターネットや専門書を使って調べた。エヴァンがいなくなってしまうことはもちろん嫌だ。抗がん剤や放射線で治療していた頃のエヴァンは、激しい吐き気や倦怠感、下痢と闘っていた。あんなに頑張って辛い治療を乗り越えたのに、もう治療法が残されていないと言われたみたいで、出口を閉ざされたみたいで悔しかった。だけどここで諦めるな、重い副作用が出ても治療を続けろなんて僕の口から言えるはずがない。彼がどれほどの苦痛を伴う治療を耐え抜いてきたか知っているから余計に。
「帰って家で過ごした方がリラックスできるかもしれないな。どんな選択であれ俺はお前が生きるって信じてるよ、メンタルって大切だって先生も言ってたろ?」
「そうだね、一緒に入院してた友達も、家に帰ってから調子いいって言ってたよ。もしかしたら治ったりしてね」
弟が僕に心配をかけないように笑って見せるのに、また胸が苦しくなった。優しすぎる彼は、いつもこんなふうに笑うのだ。彼から本当の笑顔を奪う病気が心底憎かった。
「家に帰ったらまたゲームで対戦しよう!」と弟が言った。
「そうだな、負けないぞ! また一緒にオーツの番組も観ような! そうそう、知ってたか? セントラルパークからオーツが逃げ出したの」
弟を喜ばせたい、ただその一心だった。僕はそのとき初めてエヴァンに嘘をついた。
「本当?」
弟が目を輝かせて訊くものだから、「騙されたな、エイプリルフールだ!」とネタばらしするタイミングを失い、はからずしも僕は嘘を重ねることになってしまった。
「本当だ、さっき来るとき見たんだよ! オーツは、タイムズスクエアの上空を悠々と飛び回ってたよ!」
「そいつは凄くクールだね! オーツは元々野生だから人が思うよりずっと強い。鋭い嘴で鼠や虫を捕って生き抜くさ」
「ああ、そうだな」
「僕も早くこの病院を出るぞ。病気を治してオーツのように飛び立つんだ!」
「きっと叶うさ」
突き出した拳に弟の小さな拳が触れる。弟を騙していることに胸が痛んだけれど、こんな嘘でも彼の心の拠り所になればいい、闘う力を与えてくれる希望になればいいとこのときの僕は思っていた。
誰か嘘でもいいからエヴァンは助かると、癌はきれいさっぱり消えたと言って欲しかった。なぜ弟じゃなければいけなかったのか、他の誰かじゃなくて、なぜよりにもよってこんなに優しくて兄想いの彼がこんな過酷な運命に選ばれたんだろう。
彼が空を飛べる日はいつ来るのだろうか。
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