ライオンガール

たらこ飴

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第3章〜新たな出発〜

第52話 母と子

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 老婦人はメルテムさんといった。トルコ語で海風という意味らしい。ふくよかで笑顔の優しい人だった。

 メルテムさんと住居に向かいながら、私は声を失った経緯とお金を盗まれたことを手短に話した。彼女は「大変だったわね、すごく困っているみたいだったから、声をかけてみてよかったわ」と微笑んだ。

 メルテムさんは小さなアパートの2階の部屋に1匹の年取ったヨークシャーテリアと住んでいた。植物が好きなのかベランダには多肉植物や薔薇、シクラメンなどの花のプランターが置かれている。

「今お風呂を沸かすから、それまで寛いでいてね」

 老婦人は私にタオルを渡し、リビングのエアコンをつけて部屋を出て行った。

 間もなく部屋が暖気を帯びた風で満たされていく。タオルで濡れた頭を拭いた。

 熱いシャワーを浴びたあと、沸かしてくれたお風呂に浸かる。全身が心地よい熱に包まれて、天国に来たかのような至福のときを味わう。

 壁のタイルを落ちていく水滴を眺め、現実に引き戻される。

 私は騙された。今まで味方だと何の疑いもなく思っていた相手に知らない国に置き去りにされた挙句リュックごと盗まれた。大切なものばかり入っていたというのに万が一のことを考えず、車に置いてきてしまった私も私だが。

 旅仲間に裏切られ一文なしになり、びしょ濡れで街を彷徨った私は正に道化だ。道化を地で行くなんてかえって潔いじゃないかと自分を奮い立たせようとしたが、無様な状況から無理に立ち直ろうとしていること自体が情けなくなって落ち込んだ。

 現実が受け入れられない。受け入れたらどうにかなってしまいそうだ。こんな残酷なやり方で最後の最後に私を傷つけるのならば、これまで家族のように一緒に過ごした日々と交わした会話の数々、彼から教えてもらった多くの技術は一体何だったのか。

 もしかしたら私は彼に父親に対するのと同じような愛着を感じていたのかもしれない。だからこそ彼の仕打ちにこれほどまでに激しく打ちのめされているのだ。

 暗い気持ちのまま風呂から上がり、用意されていた夕飯をご馳走になった。

 メルテムさんはよく喋る人だった。私に昨日の夕飯の残りだというサーモンと野菜のシチューを出している間も、自分の家族のことについてひっきりなしに喋り続けていた。だがそれがかえって有難かった。彼女は去年夫を亡くし一人暮らしなのだそうだ。娘は3人とも外国人と結婚し異国に行ってしまったという。

「一番末の娘はメキシコに嫁いだの。一番目の子どもは女の子で、3歳でね。あまり治安のいい国じゃないと聞いていたから心配だったんだけど……。でも何度か行ってみると印象が変わるわね。メキシコはいい国よ、特に娘が住んでる田舎町は平和で人も親切で。もちろんトルコもいい国だけどね。アイスクリームも美味しいし……あの伸びるやつとか。前に娘が帰省したとき孫と一緒にかれこれ違う味のを5回くらいは食べたわね。孫がアイスの食べ過ぎでお腹を壊さないか心配だったわ。それにしても、何でトルコのアイスってあんなにゴムみたいににゅ~んって伸びるのかしらね?」

 しばらくの間メルテムさんはアイスクリームの話をしていた。確かにあの伸びるアイスに関してはどんな成分が入っているのか謎だ。

 温かい料理をスプーンで掬って口に運ぶうち、母親のシチューの味を懐かしく思い出した。

 母は料理は得意じゃないけれどシチューを作るのだけは得意だった。たまに焦がすし、オクラとかインゲンなど絶対スープと相性の悪いような野菜を入れたりするのが玉に瑕だったが。美味しいと褒められると母はすごく喜んだ。母が私にしてくれた数えきれないことを当たり前だと思い込んでいたけれど、今思えばもっと母に感謝を伝え沢山褒めてあげればよかった。いつも母は家事や自分の身の回りのことが上手くできない自分に苛立っているみたいだった。もっと私や父や周りの人が彼女の良い部分を認めてあげていたら、あんなに卑屈になることもなかったかもしれない。

 そのことを打ち明けたら、老婦人は目を細め頷いた。

「母親っていうのは自分の食べる分はどうでも、子どもたちには美味しいものを食べさせたい、幸せになってほしいと願ってるものなの。自分が家族にしていることに対して見返りが欲しいと思っているわけではないけれど、ありがとうとか美味しいとか、その言葉ひとつで全て報われる気がするのよ。愛する娘から褒めてもらえるのは特に嬉しいことね」

『今考えると、ママともっといろんなことを話しておけばよかったと思うの。お互いに本音でぶつかれればよかったって。ずっとモヤモヤしてて……だけど言えなかった。ママは私を産んで幸せだったのかとか、本当は後悔してるんじゃないかって』

「お母さんはそんなふうには思っていないはずよ。私も最初は未婚の母でね。子どもを産む前は仕事を辞めなければいけないことに悩んだり、将来のことお金のこといろんな心配ごとがあった。でも娘を産んで彼女を初めて抱いた時全ての迷いはどこかに消え去って、ただこの子を守らないとって思ったわ。母親っていうのはそういうものよ。あなたのお母さんだってきっと誰よりもあなたを大切に思ってるわ」

 ふと壁にかけられたカレンダーを見てハッとした。今日は1月23日ーー母の誕生日だ。目の前のことにかかりきりで忘れていたことが恥ずかしかった。

 母に電話でおめでとうと伝えたかった。今まで公衆電話から何度も話そうと試みたけれど、留守電につながりかからなかった。しかも幾度となく送った手紙の返事がないのを鑑みると、オーロラの手紙と一緒にピアジェに捨てられたようだし。またあの男に対する憎しみが再燃しそうになり奴の下卑た顔を頭から追い払う。

 だが電話をかけたところで私は喋れないのだ。心の中に伝えたい想いがひしめいているのに、伝えられないもどかしさが頂点に達した。パントマイムはこんなとき全く役に立たない。ルーファスと練習したスキットで演じた宇宙人みたいにテレパシーが使えたらよかった。

 私の代わりに母親に伝えて欲しい言葉をノートに書き、メルテムさんに渡した。イスラエルで怪我をしたこと、声が出なくなったこと、手持ちのお金がないことは言わないでほしいと伝えた。母に余計な心配をかけたくなかったからだ。
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