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第3章〜新たな出発〜
第51話 裏切り
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タネルが戻って来ないことに気づいたのは、30分経ってからだった。
カウンターの奥にいる中年の髭を生やした男性店員に男が会計に来たかと訊いてみても、覚えていないと言う。
参った。一体どこに行ってしまったんだろう? 買い物だろうか? それとも手洗い? こんなに長く?
父親が以前家のトイレの個室で寝ていたことがあった。念の為男子トイレを見てほしいと店員に頼むといかにも嫌々という体で手洗いに向かい、数分して帰ってきて首を振った。
外に出ようとしたら店員に腕を掴まれお金を払えと言われた。車に鞄があると言ったら食い逃げされるといけないから付いてくると言う。人を探しているだけなのに、犯罪者扱いなのは心外だ。
車は店の反対側の路肩に停められていたはずだった。だが、あるべき場所にない。タネルが何も言わずにいなくなるはずがない。どこか買い物に行ったのかもしれない。
疑いもせず、私は店内で待つことにした。だが、3時間が経過して店内のテレビでトルコ語のワイドショーが始まっても彼は戻ってこなかった。
ーー嘘だ。
そんなはずがない。
でも、まさかーー。
あの車には現金とショーに使う道具が入ったリュックが置いてある。タネルが奢ってくれると言うので使うことはないだろうと置いてきたのだ。だが迂闊だった。置き引きにあったり、誰かにーーもしくは運転手に車ごと持ち去られる可能性もあったのだ。
首を振って悪い憶測を振り払う。
彼がそんなことをするはずがない。怪我をして私を介抱し今まで世話を焼いてくれ、食事を与え毎晩パントマイムを教えてくれた彼が。
店員の目がだんだんと不審の色を帯びてくる。一部始終を見て長居していた客の数人がコソコソと私を哀れむような目で見て話をしている気がするのは、気のせいではないはずだ。彼らにとって私は旅の相棒にまさかの置いてきぼりを喰らい、金も持ち去られて途方に暮れる1人の愚かな女だ。
タネルはきっと帰ってくる。間違えているのは彼らの方だ。もうすぐ男が戻ってきて、「ガソリンを入れてきたんだ」などと言うに違いない。
だが時間が経ち、日が暮れるにつれその確信は胸騒ぎに変わった。
明らかにおかしい。もう店内の時計は19時を回っている。タネルは一体どこに行ってしまったのか?
「あなた置いてかれたね。ドンマイ」
片言の英語で先ほどの髭店員が声をかけてきた。これはドンマイとかそういうレベルの事案じゃない。今の私には何もない。お金もそれに代えられるものも。ポケットに入っているのは紙風船とクラウンの赤い鼻だけだ。
店員に紙風船を渡し、会計をツケにしてほしいと頼んだらそれまで険しい顔をしていた店員はあっさりOKしてくれた。トルコは親日国だということを思い出したのは店を出てからだった。
一番の気掛かりは車のコンポに入ったままになっているCDのことだ。オーロラに渡すつもりのCDがないときては、2年近くをかけてここまで来た意味の半分以上が泡と化す。こんな残酷な茶番があっていいはずがない。
市場やあちこちの店や路地を駆けずり回ってタネルを探した。だが暗いうえ地理にも疎い私に捜索活動がスムーズに進められるはずはない。そのうえ道に迷ってしまい元いた店の場所がどこかすら分からない。深夜になるころにはすっかり疲弊し切って路肩に蹲った。
お金やショーに使う道具のこと以上に頭にあるのはCDのことだ。あのCDは絶対に失くしてはならないものだったし、一時たりとも手放してはいけなかった。悔しさのあまり車道の真ん中でのたうち回りたかった。4tトラックに轢かれて死のうが可笑しな奴と後ろ指を指されようがもうどうだって構わない。
これまで何度オーロラの顔を想像しただろう。ひょっこり現れた私からCDを受け取り涙ぐむ彼女の姿を。久しぶりと笑う彼女の声と、私を見つめる優しい紫色の瞳を。
あのCDが今現在私とオーロラを繋ぐ世界に一つしかないものである以上、何が何でも返してもらわなければならない。
もう一度男の姿を探し回ったあと、再び路肩に腰を下ろす。薄汚れて歪んたガードレールと走り去る車、私には目もくれずに行き交う厚着をした人々の波、どこかから聞こえる電車の音ーー。全てが私と切り離された、白々しい別の世界のもののように感じる。
やがて雨が残酷に身体を打ちつけ始める。手は悴み濡れた身体が震える。
今日どこを寝ぐらにしたらいいかという現実的な問題が立ちはだかる。おまけにお腹もぺこぺこだ。財布には結構な額の現金が入っていたはずだ。これまでタネルが当たり前のように食べ物を奢ってくれた。食費を払うといってもいらないと頑として受け取らなかった。今思えば彼に甘えすぎていた。
それにしたってこんな仕打ちはあんまりだ。なぜ彼はこんなことを? 私はイスタンブールに置き去りにされ、馴染みのない街角で1人雨に打たれているというのに。
雨に濡れたまま闇雲に歩き回っていたら、1人の老婦人が傘をくれた。
「大丈夫? そんな薄着で寒いでしょう。よかったら家に来ない?」
彼女の言葉を信じていいかということよりも、今はとにかくどこかで暖を取りたかった。私が頷くと老婦人は優しく微笑んだ。こんなとき人の優しさが胸に沁みる。
カウンターの奥にいる中年の髭を生やした男性店員に男が会計に来たかと訊いてみても、覚えていないと言う。
参った。一体どこに行ってしまったんだろう? 買い物だろうか? それとも手洗い? こんなに長く?
父親が以前家のトイレの個室で寝ていたことがあった。念の為男子トイレを見てほしいと店員に頼むといかにも嫌々という体で手洗いに向かい、数分して帰ってきて首を振った。
外に出ようとしたら店員に腕を掴まれお金を払えと言われた。車に鞄があると言ったら食い逃げされるといけないから付いてくると言う。人を探しているだけなのに、犯罪者扱いなのは心外だ。
車は店の反対側の路肩に停められていたはずだった。だが、あるべき場所にない。タネルが何も言わずにいなくなるはずがない。どこか買い物に行ったのかもしれない。
疑いもせず、私は店内で待つことにした。だが、3時間が経過して店内のテレビでトルコ語のワイドショーが始まっても彼は戻ってこなかった。
ーー嘘だ。
そんなはずがない。
でも、まさかーー。
あの車には現金とショーに使う道具が入ったリュックが置いてある。タネルが奢ってくれると言うので使うことはないだろうと置いてきたのだ。だが迂闊だった。置き引きにあったり、誰かにーーもしくは運転手に車ごと持ち去られる可能性もあったのだ。
首を振って悪い憶測を振り払う。
彼がそんなことをするはずがない。怪我をして私を介抱し今まで世話を焼いてくれ、食事を与え毎晩パントマイムを教えてくれた彼が。
店員の目がだんだんと不審の色を帯びてくる。一部始終を見て長居していた客の数人がコソコソと私を哀れむような目で見て話をしている気がするのは、気のせいではないはずだ。彼らにとって私は旅の相棒にまさかの置いてきぼりを喰らい、金も持ち去られて途方に暮れる1人の愚かな女だ。
タネルはきっと帰ってくる。間違えているのは彼らの方だ。もうすぐ男が戻ってきて、「ガソリンを入れてきたんだ」などと言うに違いない。
だが時間が経ち、日が暮れるにつれその確信は胸騒ぎに変わった。
明らかにおかしい。もう店内の時計は19時を回っている。タネルは一体どこに行ってしまったのか?
「あなた置いてかれたね。ドンマイ」
片言の英語で先ほどの髭店員が声をかけてきた。これはドンマイとかそういうレベルの事案じゃない。今の私には何もない。お金もそれに代えられるものも。ポケットに入っているのは紙風船とクラウンの赤い鼻だけだ。
店員に紙風船を渡し、会計をツケにしてほしいと頼んだらそれまで険しい顔をしていた店員はあっさりOKしてくれた。トルコは親日国だということを思い出したのは店を出てからだった。
一番の気掛かりは車のコンポに入ったままになっているCDのことだ。オーロラに渡すつもりのCDがないときては、2年近くをかけてここまで来た意味の半分以上が泡と化す。こんな残酷な茶番があっていいはずがない。
市場やあちこちの店や路地を駆けずり回ってタネルを探した。だが暗いうえ地理にも疎い私に捜索活動がスムーズに進められるはずはない。そのうえ道に迷ってしまい元いた店の場所がどこかすら分からない。深夜になるころにはすっかり疲弊し切って路肩に蹲った。
お金やショーに使う道具のこと以上に頭にあるのはCDのことだ。あのCDは絶対に失くしてはならないものだったし、一時たりとも手放してはいけなかった。悔しさのあまり車道の真ん中でのたうち回りたかった。4tトラックに轢かれて死のうが可笑しな奴と後ろ指を指されようがもうどうだって構わない。
これまで何度オーロラの顔を想像しただろう。ひょっこり現れた私からCDを受け取り涙ぐむ彼女の姿を。久しぶりと笑う彼女の声と、私を見つめる優しい紫色の瞳を。
あのCDが今現在私とオーロラを繋ぐ世界に一つしかないものである以上、何が何でも返してもらわなければならない。
もう一度男の姿を探し回ったあと、再び路肩に腰を下ろす。薄汚れて歪んたガードレールと走り去る車、私には目もくれずに行き交う厚着をした人々の波、どこかから聞こえる電車の音ーー。全てが私と切り離された、白々しい別の世界のもののように感じる。
やがて雨が残酷に身体を打ちつけ始める。手は悴み濡れた身体が震える。
今日どこを寝ぐらにしたらいいかという現実的な問題が立ちはだかる。おまけにお腹もぺこぺこだ。財布には結構な額の現金が入っていたはずだ。これまでタネルが当たり前のように食べ物を奢ってくれた。食費を払うといってもいらないと頑として受け取らなかった。今思えば彼に甘えすぎていた。
それにしたってこんな仕打ちはあんまりだ。なぜ彼はこんなことを? 私はイスタンブールに置き去りにされ、馴染みのない街角で1人雨に打たれているというのに。
雨に濡れたまま闇雲に歩き回っていたら、1人の老婦人が傘をくれた。
「大丈夫? そんな薄着で寒いでしょう。よかったら家に来ない?」
彼女の言葉を信じていいかということよりも、今はとにかくどこかで暖を取りたかった。私が頷くと老婦人は優しく微笑んだ。こんなとき人の優しさが胸に沁みる。
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