ライオンガール

たらこ飴

文字の大きさ
上 下
149 / 193
第3章〜新たな出発〜

キッズサーカス②

しおりを挟む
 カリームがすぐ近くにあるという家に帰宅したあと、アンジェラはホールの隅にあるグランドピアノで『銀河の塵』を演奏してくれた。湖面を揺らす風のように繊細で透き通った旋律に耳を澄ませる。静かな感動に心が揺れる。

 不意に彼女は手を止めてピアノの蓋を閉じた。

「最初は幸せだった。サーカス列車での生活は私の心を満たしてくれた。衣装を作ったり作詞をしたり、ピアノで作曲をしたりね。

 あの男は……ピアジェは私が彼から逃げようとするたびに、息子と娘のことを引き合いに出して私を脅した。『もう2人に会わせないようにする』『2人は渡さない』『彼らはお前のことを一生憎むだろう』などと言ってね。

 彼は恐ろしく狡猾でプライドが高い、悪人の中の悪人よ。本当は子どもたちを連れて逃げたかった。だけど私ができることには限界があった。

 私をあの牢獄のような列車から助け出してくれたのは、ミハイルだった。ミハイルはロシア公演のときにこっそり私を迎えに来てくれたの。私の変わり果てた姿を見て彼は涙を流して、今まで助けに来られなかったことを謝ったわ。

 彼は私の手首に嵌められた鎖を外してくれた。私たちはひたすら逃げたわ。もう二度とあの男に捕まらないように。

 2人で色んな国を渡り歩いた。その日暮らしは大変だったけど、それまで見てきた地獄よりずっと良かったわ。

 私たちはやがて日本の東北の田舎町で暮らし始めた。小さな島国での生活はささやかだけど楽しかったわ。

 子どもたちのことはいつも頭にあった。あの父親の元で暮らす彼らのことが心配でならなかったけれど、彼らが無事で生きていることを祈ることしかできなかった。

 ミハイルはピアジェに見つからないように人前に出ることを辞めて、一般企業で働き始めた。でも長く続かなかった。サーカスの中で長い間過ごしていた彼は、外界の暮らしに馴染めなかったの。私も福祉関係の仕事をしながら彼を支えようとした。でも、彼はどの仕事もすぐに辞めてしまう。その度に自信をなくしてお酒の量が増えて、内面が荒んでいった。

 私は彼の豊かな心に惹かれていたの。人を笑わせることを生きがいにして、人を敬い労わることのできる優しさを持った彼のことが。

 でも彼は変わってしまった。彼が彼としていられるためには、クラウンの仕事をしていなければならなかったんだわ。人に使われて働くことが彼には合わなかった。

 段々彼は飲み歩くことが増えて喧嘩も増えた。私はそれでも彼がいつか立ち直ってくれると信じていた。

 だけどある日彼は私の前から忽然と姿を消したの。私は絶望した。異国で1人きりで生きていくしかないのかと。

 そんなとき、サーカス団で仲のよかった友人の女性から連絡があった。イスラエルのキッズサーカス団でスタッフを募集してる、良かったら一緒に働かないかって。彼女はここのキッズサーカスで講師をしていたの。不安もあったけど他にできることもないから、二つ返事で引き受けたわ。

 そしてイスラエルにやってきた。紛争の絶えない場所で練習や公演を続けるのは大変なことだけれど、子どもたちの頑張る姿を見ていると力が湧いてくる。ここに来て良かったと感じるの」

 アンジェラは身を滅ぼすような困難と葛藤をくぐり抜け、またサーカスのある場所に戻ってきた。子どもたちのために献身的に尽くす彼女の姿が容易に目に浮かぶ。彼女にとってサーカスはかけがえのない居場所であり、生きる場所なのだろう。

『もしも勇気が出たら、ルチアとミラーに会いに行ってあげてください。そして彼らのショーを観てください、ぜひ』

 私の言葉にアンジェラは涙を流しながら頷いた。

 タネルは車の外で煙草を吸いながらぼんやりと景色を眺めていた。私が声をかけると、ハッとしたように振り向いた。

『遅くなってごめん。用事は済んだわ』

 ノートを見た彼は「じゃあ行くか」とどこか悲しげに言った。
しおりを挟む
感想 9

あなたにおすすめの小説

噛ませのプライド

コブシ
現代文学
負け続けの噛ませ犬ボクサー弘。 思いがけない女性との出会い。 神様のいたずら。 そして運命のゴングが鳴る。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

隣人の女性がDVされてたから助けてみたら、なぜかその人(年下の女子大生)と同棲することになった(なんで?)

チドリ正明@不労所得発売中!!
青春
マンションの隣の部屋から女性の悲鳴と男性の怒鳴り声が聞こえた。 主人公 時田宗利(ときたむねとし)の判断は早かった。迷わず訪問し時間を稼ぎ、確証が取れた段階で警察に通報。DV男を現行犯でとっちめることに成功した。 ちっぽけな勇気と小心者が持つ単なる親切心でやった宗利は日常に戻る。 しかし、しばらくして宗時は見覚えのある女性が部屋の前にしゃがみ込んでいる姿を発見した。 その女性はDVを受けていたあの時の隣人だった。 「頼れる人がいないんです……私と一緒に暮らしてくれませんか?」 これはDVから女性を守ったことで始まる新たな恋物語。

天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】

田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。 俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。 「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」 そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。 「あの...相手の人の名前は?」 「...汐崎真凛様...という方ですね」 その名前には心当たりがあった。 天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。 こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

日本酒バー「はなやぎ」のおみちびき

山いい奈
ライト文芸
★お知らせ いつもありがとうございます。 当作品、3月末にて非公開にさせていただきます。再公開の日時は未定です。 ご迷惑をお掛けいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。 小柳世都が切り盛りする大阪の日本酒バー「はなやぎ」。 世都はときおり、サービスでタロットカードでお客さまを占い、悩みを聞いたり、ほんの少し背中を押したりする。 恋愛体質のお客さま、未来の姑と巧く行かないお客さま、辞令が出て転職を悩むお客さま、などなど。 店員の坂道龍平、そしてご常連の高階さんに見守られ、世都は今日も奮闘する。 世都と龍平の関係は。 高階さんの思惑は。 そして家族とは。 優しく、暖かく、そして少し切ない物語。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話

桜井正宗
青春
 ――結婚しています!  それは二人だけの秘密。  高校二年の遙と遥は結婚した。  近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。  キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。  ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。 *結婚要素あり *ヤンデレ要素あり

処理中です...