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第3章〜新たな出発〜
キッズサーカス②
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カリームがすぐ近くにあるという家に帰宅したあと、アンジェラはホールの隅にあるグランドピアノで『銀河の塵』を演奏してくれた。湖面を揺らす風のように繊細で透き通った旋律に耳を澄ませる。静かな感動に心が揺れる。
不意に彼女は手を止めてピアノの蓋を閉じた。
「最初は幸せだった。サーカス列車での生活は私の心を満たしてくれた。衣装を作ったり作詞をしたり、ピアノで作曲をしたりね。
あの男は……ピアジェは私が彼から逃げようとするたびに、息子と娘のことを引き合いに出して私を脅した。『もう2人に会わせないようにする』『2人は渡さない』『彼らはお前のことを一生憎むだろう』などと言ってね。
彼は恐ろしく狡猾でプライドが高い、悪人の中の悪人よ。本当は子どもたちを連れて逃げたかった。だけど私ができることには限界があった。
私をあの牢獄のような列車から助け出してくれたのは、ミハイルだった。ミハイルはロシア公演のときにこっそり私を迎えに来てくれたの。私の変わり果てた姿を見て彼は涙を流して、今まで助けに来られなかったことを謝ったわ。
彼は私の手首に嵌められた鎖を外してくれた。私たちはひたすら逃げたわ。もう二度とあの男に捕まらないように。
2人で色んな国を渡り歩いた。その日暮らしは大変だったけど、それまで見てきた地獄よりずっと良かったわ。
私たちはやがて日本の東北の田舎町で暮らし始めた。小さな島国での生活はささやかだけど楽しかったわ。
子どもたちのことはいつも頭にあった。あの父親の元で暮らす彼らのことが心配でならなかったけれど、彼らが無事で生きていることを祈ることしかできなかった。
ミハイルはピアジェに見つからないように人前に出ることを辞めて、一般企業で働き始めた。でも長く続かなかった。サーカスの中で長い間過ごしていた彼は、外界の暮らしに馴染めなかったの。私も福祉関係の仕事をしながら彼を支えようとした。でも、彼はどの仕事もすぐに辞めてしまう。その度に自信をなくしてお酒の量が増えて、内面が荒んでいった。
私は彼の豊かな心に惹かれていたの。人を笑わせることを生きがいにして、人を敬い労わることのできる優しさを持った彼のことが。
でも彼は変わってしまった。彼が彼としていられるためには、クラウンの仕事をしていなければならなかったんだわ。人に使われて働くことが彼には合わなかった。
段々彼は飲み歩くことが増えて喧嘩も増えた。私はそれでも彼がいつか立ち直ってくれると信じていた。
だけどある日彼は私の前から忽然と姿を消したの。私は絶望した。異国で1人きりで生きていくしかないのかと。
そんなとき、サーカス団で仲のよかった友人の女性から連絡があった。イスラエルのキッズサーカス団でスタッフを募集してる、良かったら一緒に働かないかって。彼女はここのキッズサーカスで講師をしていたの。不安もあったけど他にできることもないから、二つ返事で引き受けたわ。
そしてイスラエルにやってきた。紛争の絶えない場所で練習や公演を続けるのは大変なことだけれど、子どもたちの頑張る姿を見ていると力が湧いてくる。ここに来て良かったと感じるの」
アンジェラは身を滅ぼすような困難と葛藤をくぐり抜け、またサーカスのある場所に戻ってきた。子どもたちのために献身的に尽くす彼女の姿が容易に目に浮かぶ。彼女にとってサーカスはかけがえのない居場所であり、生きる場所なのだろう。
『もしも勇気が出たら、ルチアとミラーに会いに行ってあげてください。そして彼らのショーを観てください、ぜひ』
私の言葉にアンジェラは涙を流しながら頷いた。
タネルは車の外で煙草を吸いながらぼんやりと景色を眺めていた。私が声をかけると、ハッとしたように振り向いた。
『遅くなってごめん。用事は済んだわ』
ノートを見た彼は「じゃあ行くか」とどこか悲しげに言った。
不意に彼女は手を止めてピアノの蓋を閉じた。
「最初は幸せだった。サーカス列車での生活は私の心を満たしてくれた。衣装を作ったり作詞をしたり、ピアノで作曲をしたりね。
あの男は……ピアジェは私が彼から逃げようとするたびに、息子と娘のことを引き合いに出して私を脅した。『もう2人に会わせないようにする』『2人は渡さない』『彼らはお前のことを一生憎むだろう』などと言ってね。
彼は恐ろしく狡猾でプライドが高い、悪人の中の悪人よ。本当は子どもたちを連れて逃げたかった。だけど私ができることには限界があった。
私をあの牢獄のような列車から助け出してくれたのは、ミハイルだった。ミハイルはロシア公演のときにこっそり私を迎えに来てくれたの。私の変わり果てた姿を見て彼は涙を流して、今まで助けに来られなかったことを謝ったわ。
彼は私の手首に嵌められた鎖を外してくれた。私たちはひたすら逃げたわ。もう二度とあの男に捕まらないように。
2人で色んな国を渡り歩いた。その日暮らしは大変だったけど、それまで見てきた地獄よりずっと良かったわ。
私たちはやがて日本の東北の田舎町で暮らし始めた。小さな島国での生活はささやかだけど楽しかったわ。
子どもたちのことはいつも頭にあった。あの父親の元で暮らす彼らのことが心配でならなかったけれど、彼らが無事で生きていることを祈ることしかできなかった。
ミハイルはピアジェに見つからないように人前に出ることを辞めて、一般企業で働き始めた。でも長く続かなかった。サーカスの中で長い間過ごしていた彼は、外界の暮らしに馴染めなかったの。私も福祉関係の仕事をしながら彼を支えようとした。でも、彼はどの仕事もすぐに辞めてしまう。その度に自信をなくしてお酒の量が増えて、内面が荒んでいった。
私は彼の豊かな心に惹かれていたの。人を笑わせることを生きがいにして、人を敬い労わることのできる優しさを持った彼のことが。
でも彼は変わってしまった。彼が彼としていられるためには、クラウンの仕事をしていなければならなかったんだわ。人に使われて働くことが彼には合わなかった。
段々彼は飲み歩くことが増えて喧嘩も増えた。私はそれでも彼がいつか立ち直ってくれると信じていた。
だけどある日彼は私の前から忽然と姿を消したの。私は絶望した。異国で1人きりで生きていくしかないのかと。
そんなとき、サーカス団で仲のよかった友人の女性から連絡があった。イスラエルのキッズサーカス団でスタッフを募集してる、良かったら一緒に働かないかって。彼女はここのキッズサーカスで講師をしていたの。不安もあったけど他にできることもないから、二つ返事で引き受けたわ。
そしてイスラエルにやってきた。紛争の絶えない場所で練習や公演を続けるのは大変なことだけれど、子どもたちの頑張る姿を見ていると力が湧いてくる。ここに来て良かったと感じるの」
アンジェラは身を滅ぼすような困難と葛藤をくぐり抜け、またサーカスのある場所に戻ってきた。子どもたちのために献身的に尽くす彼女の姿が容易に目に浮かぶ。彼女にとってサーカスはかけがえのない居場所であり、生きる場所なのだろう。
『もしも勇気が出たら、ルチアとミラーに会いに行ってあげてください。そして彼らのショーを観てください、ぜひ』
私の言葉にアンジェラは涙を流しながら頷いた。
タネルは車の外で煙草を吸いながらぼんやりと景色を眺めていた。私が声をかけると、ハッとしたように振り向いた。
『遅くなってごめん。用事は済んだわ』
ノートを見た彼は「じゃあ行くか」とどこか悲しげに言った。
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