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第2章〜クラウンへの道〜
消えた手紙とマフィン④
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「ケニー、すごくカッコ良かったわ」
「そんなことないさ。でもスッキリしたよ」
「辞めるって本当?」
「ああ」
ケニーの顔は晴れやかだった。
「実はさ、高校時代の友達がゲーム会社を立ち上げたんだ。何年か前に誘われたんだけど、当時僕はまだ引きこもりでさ。断ったんだ。でも思ったんだ。サーカスも好きだけど、僕の本当に好きなことはゲームなんだって。僕が作ったゲームで、前の僕のような引きこもりの子どもや大人が救われてくれたらいいって思う」
ケニーが辞めてしまうのは寂しいし悲しい。でも彼が夢を見つけられたのなら応援してあげたい。ここにいるよりも別の道に行く方が幸せなのだと彼が心から思えるのなら、止める理由などどこにもない。
「あなたの夢を応援する。あなたならきっと世界中の人を夢中にさせる凄いゲームが作れるわ。いなくなるのは寂しいけど……また会えるしね」
「ありがとう。僕も寂しいよ。君には沢山支えてもらったからね。でも、うん。また会えるよ」
ケニーは少年のように笑った。私も笑った。オーロラがまたお菓子を作って送ってくれるのが、ケニーが夢を叶えることと同じくらい楽しみだった。
ケニーが辞める日の前日の夜、盛大に列車内で送別会が開かれた。皆が作ってくれた料理、シャンパン、ワイン、ケーキがテーブルに並ぶ。
「せっかくだからシンディと話したら?」と訊くとケニーははにかんで、「そうだね、そのうちね」と答えた。
「そのうちじゃなくて今話してきなって、ほら早く!」
「どうせなら気持ちを伝えてしまえばいいんじゃ」とトムが冷やかし、「そうだそうだ、人生短いからな。後悔のないようにやれ」とルーファスも続いた。
ケニーは最初躊躇っていたが、ジャンたちと話しているシンディのところに行って輪に混じって談笑し始めた。最初きたばかりのときは人に酔い固まっていた彼がここまで変わったこと、そして夢を見つけたことは大きな財産だ。
「寂しくなるわね、ケニーがいなくなって」とジュリエッタに言われた。
「うん。でも、彼がやりたいことを見つけられたんならそれでいいんだ。それにまた会えるしね」
「そうね、また会えるわね」とジュリエッタは頷いた。
「ケニーは変わったよ、あんなに人と話すのを怖がってたのに」
「人は未知のものに対して恐怖を抱くというけど、逆に本質を知ったことで怖くなることもあるわ。人間の嫌なところ、汚いところを知ったことで怖くなることもある。心の傷はなかなか消えないけど、別の一面をーー人間の面白い部分、温かさなんかを見る機会さえあれば、するっと抜けられたりもする」
ジュリエッタと話していて、あの日ケニーとスラムで銃撃戦に巻き込まれたのは運命だったんじゃないかと思った。神様は私とケニーに試練を与えることで、無理やり方向転換をさせようとしたんじゃないか。あまりにワンパターンで刺激のない人生に区切りをつけて、一歩踏み出させるために。
ケニーがシンディのところから戻ってきた。
「手紙を書くよと伝えたら、『待ってる』って言ってくれたよ」
ケニーは完全に浮かれている。
「ねぇケニー、さっき考えてたの。あなたと私がこの列車に乗ったのは運命だったんじゃないかって」
「僕もそう思うよ」ケニーは頷いた。
「ここに来てなければ、僕は嫌な思いをしないで済んだ代わりに人といる楽しさも、サーカスっていう素晴らしいものがこの世界にあるってことすら知らなかった。でも僕が思っていたより世界はずっと広かった。君はもっと広い世界を見てくるといい。そして、自分と向き合うといい」
「そうね……」
私はクラウンを演じるようになってからというもの感じていた苦しみについてケニーに話そうと思った。
「クラウンを演じるのはすごく新鮮で楽しいわ。だけど、演じれば演じるほど元の自分が分からなくなっていったの。リングから降りても自分に戻れなくて、自分の感情や考えや話し方、そういう諸々のことを忘れそうになることがある。一体どれが本当の自分なのか? って。前は普通にできてたのに……」
「今もできてるよ」
ケニーはにこりと笑った。
「僕と話しているときは君は君のままだ。オーロラと電話で話してるときもね」
ハッとした。確かにそうだ。列車の中で完全に偽りのない私自身でいられるのは、ケニーの前でだけだった。今こうしてケニーと話している自分が私自身だ。オーロラの声を聴いた瞬間に溢れてきた感情だってそうだ。他の誰でもない、アヴリルという生身の人間から溢れ出した真実の奔流だった。
「君の演じているクラウン、僕は好きだよ。だけどさ、幼い頃から君を知っている僕からしたら、生身の君が一番素敵だと思うんだ。例えば一万人のメイクをしたクラウンがいたとして、その中に素顔のままの君がいたら、皆の視線は君に向く。君はそれだけでオンリーワンになれるってことだ」
「ノーメイクのクラウンか……」
考えたこともなかった。ルーファスが言っていた。私のままで演じたければそれでいいと。これまでステージの上では詩でいることが当たり前だった。皆の熱い視線と大きな歓声を浴びることに快感をおぼえていたけれど、いつからか重荷になっていた。リングに立つのは義務のようになり、時々リングの外から道化としての自分を客観視して嘲笑いたくなることすらあった。
だがそれがクラウンなのだとしたら、そう生きるしかないのだと思っていた。他人に求められる姿で笑いを提供する存在のままで。
だけど、それは以前の私と全く同じじゃないのか? これは違うとずっと思っていた感覚の正体がようやく掴めた。変わったと思っていただけで、根本は変われていなかったのだ。
「なぁオッサン、辞めないでくれよ~。ようやく仲良くなれたのにさ~」
酔っ払ったジャンがケニーに絡み始め、ジュリエッタは「そうよ~、いつでも遊びに来なさいよね! 待ってるから」とケニーの脇腹をつついた。
シンディが大皿のチキンをトングで取ってケニーの皿に載せてやった。「ありがとう」と微笑むケニー。
「何なに? いい感じじゃない?」とジュリエッタが2人を指差す。
「青春じゃのう」とトムがしみじみ言い、「遅れてきた青春ってのもいいわよね」とジュリエッタも続く。
こうして皆でいる時間がずっと続けばいいと思った。明日にはケニーはアルゼンチンに帰ってしまう。私の一番の理解者である彼がいなくなる実感がまだない。
列車に賑やかな笑い声が響き、夜は更けていった。
「そんなことないさ。でもスッキリしたよ」
「辞めるって本当?」
「ああ」
ケニーの顔は晴れやかだった。
「実はさ、高校時代の友達がゲーム会社を立ち上げたんだ。何年か前に誘われたんだけど、当時僕はまだ引きこもりでさ。断ったんだ。でも思ったんだ。サーカスも好きだけど、僕の本当に好きなことはゲームなんだって。僕が作ったゲームで、前の僕のような引きこもりの子どもや大人が救われてくれたらいいって思う」
ケニーが辞めてしまうのは寂しいし悲しい。でも彼が夢を見つけられたのなら応援してあげたい。ここにいるよりも別の道に行く方が幸せなのだと彼が心から思えるのなら、止める理由などどこにもない。
「あなたの夢を応援する。あなたならきっと世界中の人を夢中にさせる凄いゲームが作れるわ。いなくなるのは寂しいけど……また会えるしね」
「ありがとう。僕も寂しいよ。君には沢山支えてもらったからね。でも、うん。また会えるよ」
ケニーは少年のように笑った。私も笑った。オーロラがまたお菓子を作って送ってくれるのが、ケニーが夢を叶えることと同じくらい楽しみだった。
ケニーが辞める日の前日の夜、盛大に列車内で送別会が開かれた。皆が作ってくれた料理、シャンパン、ワイン、ケーキがテーブルに並ぶ。
「せっかくだからシンディと話したら?」と訊くとケニーははにかんで、「そうだね、そのうちね」と答えた。
「そのうちじゃなくて今話してきなって、ほら早く!」
「どうせなら気持ちを伝えてしまえばいいんじゃ」とトムが冷やかし、「そうだそうだ、人生短いからな。後悔のないようにやれ」とルーファスも続いた。
ケニーは最初躊躇っていたが、ジャンたちと話しているシンディのところに行って輪に混じって談笑し始めた。最初きたばかりのときは人に酔い固まっていた彼がここまで変わったこと、そして夢を見つけたことは大きな財産だ。
「寂しくなるわね、ケニーがいなくなって」とジュリエッタに言われた。
「うん。でも、彼がやりたいことを見つけられたんならそれでいいんだ。それにまた会えるしね」
「そうね、また会えるわね」とジュリエッタは頷いた。
「ケニーは変わったよ、あんなに人と話すのを怖がってたのに」
「人は未知のものに対して恐怖を抱くというけど、逆に本質を知ったことで怖くなることもあるわ。人間の嫌なところ、汚いところを知ったことで怖くなることもある。心の傷はなかなか消えないけど、別の一面をーー人間の面白い部分、温かさなんかを見る機会さえあれば、するっと抜けられたりもする」
ジュリエッタと話していて、あの日ケニーとスラムで銃撃戦に巻き込まれたのは運命だったんじゃないかと思った。神様は私とケニーに試練を与えることで、無理やり方向転換をさせようとしたんじゃないか。あまりにワンパターンで刺激のない人生に区切りをつけて、一歩踏み出させるために。
ケニーがシンディのところから戻ってきた。
「手紙を書くよと伝えたら、『待ってる』って言ってくれたよ」
ケニーは完全に浮かれている。
「ねぇケニー、さっき考えてたの。あなたと私がこの列車に乗ったのは運命だったんじゃないかって」
「僕もそう思うよ」ケニーは頷いた。
「ここに来てなければ、僕は嫌な思いをしないで済んだ代わりに人といる楽しさも、サーカスっていう素晴らしいものがこの世界にあるってことすら知らなかった。でも僕が思っていたより世界はずっと広かった。君はもっと広い世界を見てくるといい。そして、自分と向き合うといい」
「そうね……」
私はクラウンを演じるようになってからというもの感じていた苦しみについてケニーに話そうと思った。
「クラウンを演じるのはすごく新鮮で楽しいわ。だけど、演じれば演じるほど元の自分が分からなくなっていったの。リングから降りても自分に戻れなくて、自分の感情や考えや話し方、そういう諸々のことを忘れそうになることがある。一体どれが本当の自分なのか? って。前は普通にできてたのに……」
「今もできてるよ」
ケニーはにこりと笑った。
「僕と話しているときは君は君のままだ。オーロラと電話で話してるときもね」
ハッとした。確かにそうだ。列車の中で完全に偽りのない私自身でいられるのは、ケニーの前でだけだった。今こうしてケニーと話している自分が私自身だ。オーロラの声を聴いた瞬間に溢れてきた感情だってそうだ。他の誰でもない、アヴリルという生身の人間から溢れ出した真実の奔流だった。
「君の演じているクラウン、僕は好きだよ。だけどさ、幼い頃から君を知っている僕からしたら、生身の君が一番素敵だと思うんだ。例えば一万人のメイクをしたクラウンがいたとして、その中に素顔のままの君がいたら、皆の視線は君に向く。君はそれだけでオンリーワンになれるってことだ」
「ノーメイクのクラウンか……」
考えたこともなかった。ルーファスが言っていた。私のままで演じたければそれでいいと。これまでステージの上では詩でいることが当たり前だった。皆の熱い視線と大きな歓声を浴びることに快感をおぼえていたけれど、いつからか重荷になっていた。リングに立つのは義務のようになり、時々リングの外から道化としての自分を客観視して嘲笑いたくなることすらあった。
だがそれがクラウンなのだとしたら、そう生きるしかないのだと思っていた。他人に求められる姿で笑いを提供する存在のままで。
だけど、それは以前の私と全く同じじゃないのか? これは違うとずっと思っていた感覚の正体がようやく掴めた。変わったと思っていただけで、根本は変われていなかったのだ。
「なぁオッサン、辞めないでくれよ~。ようやく仲良くなれたのにさ~」
酔っ払ったジャンがケニーに絡み始め、ジュリエッタは「そうよ~、いつでも遊びに来なさいよね! 待ってるから」とケニーの脇腹をつついた。
シンディが大皿のチキンをトングで取ってケニーの皿に載せてやった。「ありがとう」と微笑むケニー。
「何なに? いい感じじゃない?」とジュリエッタが2人を指差す。
「青春じゃのう」とトムがしみじみ言い、「遅れてきた青春ってのもいいわよね」とジュリエッタも続く。
こうして皆でいる時間がずっと続けばいいと思った。明日にはケニーはアルゼンチンに帰ってしまう。私の一番の理解者である彼がいなくなる実感がまだない。
列車に賑やかな笑い声が響き、夜は更けていった。
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