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第2章〜クラウンへの道〜
探求⑧
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夕方から始まったテント設営は深夜に終わった。
ルーファスは疲れてるとこ悪いが少しだけ時間をくれと断って、私を暗闇のテントの中に連れて行った。
リングに照明を灯し、真ん中に立ったルーファスは私に語りかけた。深夜の無人のサーカスリングは、覚醒する前の冷たい静寂に包まれている。
「これがお前が立つリングだ。基本的なことだが今立っている場所がリングセンターで、自分から見て右側がリング右、左側がリング左、リングの周りをリングカーブという。この後ろのアーチ型の登場口がエントランス、舞台裏はオフ・ステージだ。実際に立ってみた方が動きをイメージしやすいだろう」
「そうだね。こうして立ってみると何というか……本格的な感じがするよ」
「語彙力」とルーファスに突っ込まれ、実践的という言葉の方が的確だったなと気づいた。
「これから登場の時の動きと、ハローの練習、退場の動きをやってみるからな」
ルーファスの指示に従い私はオフ・ステージに引っ込んだ。
「クラウンになったつもりで歩いてこい」
エントランスの奥にはいつもより薄暗くて静かなリングが横たわっている。ここでショーをするのかと想像するとすこし緊張する。
地面を踏み締めて足跡を残すように、曲線的な動きを意識しながら、俯かずに目的だけを見てーー。全身に神経を集中し、習ったことを反芻しながら歩を進める。
中央まで来ると立ち止まって右手をあげたあと、腰のあたりまで下ろして礼をした。
「それがハローだ。それだとちょっと控えめだがな、つまりは、登場のあと、観客に対してする挨拶込みの自己アピールだな」
ルーファスはちょっと見ていろと言って客席から観てエントランスの奥に引っ込んだあと、慣れた所作で真っ直ぐリングの中央まで歩いてくると、くるっと身体を反転させて客席の方を見て、観客に向かって手を振った。
「こういうやり方もあるし……」
次にルーファスは笑顔を作って右手を挙げた。
「こういうのもある。最初は自分の動きを確認するために、登場、観客の方を見る、ハローをするという動作を一つ一つ区切ってやった方がいいな」
ルーファスの真似をして歩いてきて、同じポーズを取る。これだけでクラウンになったみたいな気持ちになる。
「特にどんなハローをしないといけないという決まりはない。大事なのは自分がどんなクラウンか紹介して、観客の注意を引くことだ」
「なるほど。じゃあ、怒りながら出てきてもいいの?」
「それもアリだな。まぁ、お前が演じるクラウンキャラクターがどんな奴かと、これからどんなパフォーマンスをやるかにも左右されるが」
ルーファスは今度は退場の例として、手を振るパターン、追いかけられて退場するパターン、トイレに行きたくてそわそわしながら退場するパターンなどをやって見せた。
「キャラに関してもう少し詰めて考える必要があるな。ちょっと即興劇をやるぞ。俺はセラピストだ。お前はクラウンの詩になったつもりで答えろ」
「分かった」
ルーファスが椅子を2脚持って来て並べて座った。
「初めまして、セラピストのルーファスです」
「よろしくお願いします」
「そこはもっと詩っぽく答えろ」
詩っぽくーー。詩ならおどおどしたりしないはずだ。
「よろしく」とつんと澄ましながら答えた。
「さて、さっそく詩さんにお伺いします。今日は初日なので、まずはあなたのことを教えてください。犬派ですか? 猫派ですか?」
私は猫が好きだけど、詩は多分こう答える。
「どっちも好きじゃありません」
「なるほど。ちなみに私は犬派です。飼ったことないけど、前に近所にいたブラックというハスキー犬と仲良しだったんですよ」
「へー」
「凄い塩対応ですね。次の質問。紅茶派ですか、コーヒー派ですか?」
ここは日本の飲み物を答えておこう。
「緑茶。あと、麦茶や蕎麦茶も好きですね」
「渋いな。あなたは何故クラウンに?」
「目立ちたいからです」
「ほう。あなたの好きなことは?」
「楽器演奏。それと、羽子板と将棋です」
「強いんですか? 将棋」
「ええ、まぁ。負けると頭にきますが」
「苦手なものは?」
「子どもとうるさい人、馬鹿な人は苦手です」
「一億円当たったらどうしますか?」
「すごく派手な服を買います。目立つために。あと、トイレをリフォームしますね」
「ほう、それはどのように?」
「音姫に『さくらさくら』のメロディを入れます」
「斬新ですな」
「大のときは第九が流れます」
「分かりやすいですね。子どもの頃の思い出は?」
「両親と巴里に旅行に行ったことです。あのときは楽しかったですね。フランスパンで背中をかいたり」
「辛かったことは?」
「両親が離婚し、父が失踪したことです」
ここは私の話を混ぜておいた。
「あなたのこれまでの人生で、一番印象的だったことは?」
「成人してから、父と野球を観に行ったことでしょうか。ホームランボールを取り損ねて、父が指を骨折しました。なので、野球ボールにはトラウマがあります」
これも実話だ。詩を演じるつもりが、いつの間にか私ーーアヴリルの話が混じってきている。完全に別人になるというのは難しい。
「大変でしたね。最近困っていることは何ですか?」
「近所の家からよくカレーライスの匂いがすることです。空腹を刺激されます」
一通り質問が終わるとルーファスは「とまあ、今日教えたかったのはこんな感じだ。今日は遅いから、また後で考えよう。キャラクターが固定されて、衣装を着てからやる方が雰囲気が出ていいだろう」と声をかけた。
ずっと列車内での練習のみだったから、リングに立ってみたことで動きや感覚のイメージが少し掴めた。
ルーファスは疲れてるとこ悪いが少しだけ時間をくれと断って、私を暗闇のテントの中に連れて行った。
リングに照明を灯し、真ん中に立ったルーファスは私に語りかけた。深夜の無人のサーカスリングは、覚醒する前の冷たい静寂に包まれている。
「これがお前が立つリングだ。基本的なことだが今立っている場所がリングセンターで、自分から見て右側がリング右、左側がリング左、リングの周りをリングカーブという。この後ろのアーチ型の登場口がエントランス、舞台裏はオフ・ステージだ。実際に立ってみた方が動きをイメージしやすいだろう」
「そうだね。こうして立ってみると何というか……本格的な感じがするよ」
「語彙力」とルーファスに突っ込まれ、実践的という言葉の方が的確だったなと気づいた。
「これから登場の時の動きと、ハローの練習、退場の動きをやってみるからな」
ルーファスの指示に従い私はオフ・ステージに引っ込んだ。
「クラウンになったつもりで歩いてこい」
エントランスの奥にはいつもより薄暗くて静かなリングが横たわっている。ここでショーをするのかと想像するとすこし緊張する。
地面を踏み締めて足跡を残すように、曲線的な動きを意識しながら、俯かずに目的だけを見てーー。全身に神経を集中し、習ったことを反芻しながら歩を進める。
中央まで来ると立ち止まって右手をあげたあと、腰のあたりまで下ろして礼をした。
「それがハローだ。それだとちょっと控えめだがな、つまりは、登場のあと、観客に対してする挨拶込みの自己アピールだな」
ルーファスはちょっと見ていろと言って客席から観てエントランスの奥に引っ込んだあと、慣れた所作で真っ直ぐリングの中央まで歩いてくると、くるっと身体を反転させて客席の方を見て、観客に向かって手を振った。
「こういうやり方もあるし……」
次にルーファスは笑顔を作って右手を挙げた。
「こういうのもある。最初は自分の動きを確認するために、登場、観客の方を見る、ハローをするという動作を一つ一つ区切ってやった方がいいな」
ルーファスの真似をして歩いてきて、同じポーズを取る。これだけでクラウンになったみたいな気持ちになる。
「特にどんなハローをしないといけないという決まりはない。大事なのは自分がどんなクラウンか紹介して、観客の注意を引くことだ」
「なるほど。じゃあ、怒りながら出てきてもいいの?」
「それもアリだな。まぁ、お前が演じるクラウンキャラクターがどんな奴かと、これからどんなパフォーマンスをやるかにも左右されるが」
ルーファスは今度は退場の例として、手を振るパターン、追いかけられて退場するパターン、トイレに行きたくてそわそわしながら退場するパターンなどをやって見せた。
「キャラに関してもう少し詰めて考える必要があるな。ちょっと即興劇をやるぞ。俺はセラピストだ。お前はクラウンの詩になったつもりで答えろ」
「分かった」
ルーファスが椅子を2脚持って来て並べて座った。
「初めまして、セラピストのルーファスです」
「よろしくお願いします」
「そこはもっと詩っぽく答えろ」
詩っぽくーー。詩ならおどおどしたりしないはずだ。
「よろしく」とつんと澄ましながら答えた。
「さて、さっそく詩さんにお伺いします。今日は初日なので、まずはあなたのことを教えてください。犬派ですか? 猫派ですか?」
私は猫が好きだけど、詩は多分こう答える。
「どっちも好きじゃありません」
「なるほど。ちなみに私は犬派です。飼ったことないけど、前に近所にいたブラックというハスキー犬と仲良しだったんですよ」
「へー」
「凄い塩対応ですね。次の質問。紅茶派ですか、コーヒー派ですか?」
ここは日本の飲み物を答えておこう。
「緑茶。あと、麦茶や蕎麦茶も好きですね」
「渋いな。あなたは何故クラウンに?」
「目立ちたいからです」
「ほう。あなたの好きなことは?」
「楽器演奏。それと、羽子板と将棋です」
「強いんですか? 将棋」
「ええ、まぁ。負けると頭にきますが」
「苦手なものは?」
「子どもとうるさい人、馬鹿な人は苦手です」
「一億円当たったらどうしますか?」
「すごく派手な服を買います。目立つために。あと、トイレをリフォームしますね」
「ほう、それはどのように?」
「音姫に『さくらさくら』のメロディを入れます」
「斬新ですな」
「大のときは第九が流れます」
「分かりやすいですね。子どもの頃の思い出は?」
「両親と巴里に旅行に行ったことです。あのときは楽しかったですね。フランスパンで背中をかいたり」
「辛かったことは?」
「両親が離婚し、父が失踪したことです」
ここは私の話を混ぜておいた。
「あなたのこれまでの人生で、一番印象的だったことは?」
「成人してから、父と野球を観に行ったことでしょうか。ホームランボールを取り損ねて、父が指を骨折しました。なので、野球ボールにはトラウマがあります」
これも実話だ。詩を演じるつもりが、いつの間にか私ーーアヴリルの話が混じってきている。完全に別人になるというのは難しい。
「大変でしたね。最近困っていることは何ですか?」
「近所の家からよくカレーライスの匂いがすることです。空腹を刺激されます」
一通り質問が終わるとルーファスは「とまあ、今日教えたかったのはこんな感じだ。今日は遅いから、また後で考えよう。キャラクターが固定されて、衣装を着てからやる方が雰囲気が出ていいだろう」と声をかけた。
ずっと列車内での練習のみだったから、リングに立ってみたことで動きや感覚のイメージが少し掴めた。
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