ライオンガール

たらこ飴

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第2章〜クラウンへの道〜

ピアジェの過去⑥

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 最初にシャワーで傷口を洗ったあと、ホタルに背中や肩についた傷の手当てをしてもらった。一応動物専門とは言っているが、人間の治療もできる範囲でしてくれるみたいだ。

 ホタルは私を部屋に入れてくれ、傷口を消毒し軟膏を塗ったあとガーゼを当ててくれた。背中の骨格の感じを見て性別がバレそうだったが、ホタルは何も尋ねなかった。代わりに「大変だったわね」といつもより優しい声で言った。

「まあね、でもこれくらいでへばってられないよ」

「強気なのはいいけど注意して。ピアジェはマジでクズよ。ヤバい奴なんだから。前はもっと酷かった。団員に暴言、暴力は当たり前。コリンズやトリュフや馬たちを虐待するわ、無茶な芸をやらせようとするわで、辞めてく人が後を立たなくて……。前の獣医も3ヶ月前に辞めたしね。私が来てからは、トムやルチアと協力して動物たちにピアジェを近づけないようにしてる。アイツに調教させるなんてもってのほか」

 ホタルが不意に立ち上がり、「レオポルドの爪を切ってる途中だったんだわ。あなたも行く? 疲れてるなら部屋で休んでてもいいけど」と尋ねた。先ほどの筋トレのせいで筋肉が悲鳴を上げていて打たれた背中と肩は痛かったけれど、このまま部屋で休んでいても受けた仕打ちを思い出して怒りが湧いてくるだけなのでついて行くことにした。

 レオポルドは檻で、前後の両脚を地面に投げ出して眠っていた。いつも私を警戒心を込めて睨みつける両目は閉じられ、食いつかんとばかりに突き出される大きく鋭い牙も閉じた口の中に仕舞われている。静かな寝息に満たされた檻の中は、普段の騒がしい鳴き声など嘘のようにあまりにも平穏な静寂で包まれていた。

 ホタルが獅子の爪を切る傍らで、金色の立髪をそっと撫でた。それは藁のように固く、指に絡まりついてきた。

 檻から出てホタルがいなくなった後も、しばらくの間レオポルドを見つめていた。眠り続けていた彼はやがて目を薄く開き、静かに私を見つめた。

「ねぇレオポルド、君はここにいて幸せかい? 僕はここに来て楽しいことも沢山あったけど、何故だか今はすごく辛いんだ。君には分からないだろうな、きっと」

 今日のことだけじゃない。新しい環境での慣れない生活の中で知らず知らずのうちに溜まっていたものが、涙となって言葉と一緒に溢れ落ちて頬を濡らした。

「君は団長に殴られたりしないだろう? まさか君をいじめる奴なんていないだろうな、君は大きいし、一番強そうだもんな」

 いっそ彼になれたらいい。もし私にレオポルドのような誰もがひれ伏すような屈強な肉体と鋭い牙と爪という武器があれば、ピアジェはあんな暴行を働こうなどとは考えないだろう。あの手の人間の憂さ晴らしと嗜虐の矛先は、必ず自分よりも弱い人間に向くのだ。それは人間だけでなく、言葉を発することのできない動物に向く。それも、猿や象などの凶暴さとはかけ離れた存在に。

 レオポルドは眠そうに薄目を開けてただ私を見つめていた。彼が聞いてくれているかは分からないけれど、もうどちらでもよかった。ただここで打ち明けてしまいたかった。

「君の火の輪潜りを観た時に思ったんだ、君のように強くなりたいって。でも今日の僕はあのタキシード野郎にやられっぱなしで、睨みつけることしかできなかった。仲間には強気なことを言ってみせたけど、本当は100%の自信なんてない。今の僕に本当にクラウンを演じ切れるのかすら分からない」

 溢れてきた涙を手の甲で拭う。地に伏したレオポルドの姿が滲んで見える。

「でも僕はやりたいんだ。誰かを笑わせたい。そのために強くなりたいんだ」

 レオポルドがゆっくりと立ち上がり、ゆっくりと檻を挟んで鼻先が付くくらいの位置までやってきた。彼の目にいつものような敵意は感じられない。波打つように生えた立髪の下にあるその漆黒の目は、静かな輝きを湛えながら私を見つめている。

「なぁレオポルド、君の心臓を僕にくれないか」

 ライオンは鳴き声一つ発さなかった。だが私は静寂の中に何らかの理解を感じ取った。私は彼に手を伸ばした。手が鼻先に触れかけたとき、レオポルドは大きな口を開けて「ブオオオオオッ」と一声鳴いた。生臭い突風のような吐息が顔にかかる。

「お腹が空いてるのかもしれんな」

 後ろから声がして振り向いたらトムがいた。トムはバケツに入った肉をトングのようなもので掴んでライオンの口元に持っていく。

「食い足りんかったんじゃろう、今日だけ特別じゃ」

 なんだ、お腹が空いていただけか。分かったら急に気が抜けた。ライオンが私の気持ちを理解していると思ったのは間違いだったのかもしれない。

「さっきお前さんが話してるのが少し聞こえてきたんだがな」

 トムに言われて顔が熱くなった。誰もいないと思って色々ぶちまけていたけれど、まさか聞かれていたなんて。

「ワシも若い頃はしょっちゅう落ち込んだ。一度若い頃、調教中にライオンに噛まれて首の骨を折ってな。死ぬかと思ったが奇跡的に助かって、2ヶ月くらい入院した。そのときにこの仕事を辞めようと本気で考えた。ライオンに恐怖をおぼえたまま調教することなんてできない、それではあまりに動物が可哀想だと。だが、調教師になるための学校に通っていたときに先生に言われたことを思い出した。

『君はいい目をしている。動物のことが本当に好きで堪らない、純粋な人間の目だ。だが、その優しさや愛情が仇となって苦しむこともあるだろう、動物に鞭を振るうのだからな。そんなときはこう考えろ。自分はお互いを痛めつけるためにいるのではない。動物たちの先生として、彼らにもう一つの生き方をーー野生ではない場所で新しい技を習得し、自分の才能を見つけて生きていく方法を教えるためにいるのだと』」

 与えられた生肉を噛み砕くレオポルドを目を細めて見つめながら、トムは続けた。

「ワシは結局調教師を辞めんかった。仲間が動物に襲われて死んだり、辛いことも沢山あった。同僚の中にはピアジェのように短気を起こして動物に暴力を振るう奴もいた。そんな奴はすぐに辞めさせられたがな。

 だが落ち込みそうになるたびに、あの先生の言葉を思い出した。彼らにはサーカスで調教されて生きていく道しか残されていない。ワシが辞めたら動物は師を失うことになる。次に来る奴が横暴な調教師かもしれん。

 お前さんも今が頑張りどきじゃ。お前を待っている、必要としているお客さんがいる。まだ出会っていない世界がある。それを見るために歯を食いしばるんじゃ」

 トムの言葉で、萎みかけていた感情が蘇ってきた。もしこれが火の輪をくぐりぬけるような困難だとしても、仲間がいたら乗り越えていける気がした。もしもその火の勢いがあまりにも強くて潜り抜ける隙間もなかったとしても、たとえ1人きりだとしても、どんな酷い傷や火傷を負うことになったとしでも今の私は飛び込んで行くだろう。

「トム、ありがとう。お陰でまた勇気が出たよ。僕はピアジェに負けない。何より僕自身に負けたくない。ピアジェだって、レオポルドだって笑わせてみせるよ」

「ライオンは笑わんぞい」

「心の中で笑ってるかもしれないだろ?」

「それはどうかな」

 トムの白いちょび髭の下の口元が緩んだ。レオポルドはまだ餌が欲しそうに鳴いていた。

 心の火は消えるどころか、始めよりもずっと強く熱く燃えていた。
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