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第2章〜クラウンへの道〜
ピアジェの過去⑤
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午後綱渡りの練習が終わると、ずっと部屋の隅で険しい顔で観察していたピアジェが筋トレをすると言った。
「ジャグリングでも綱渡りでも筋力が必要だ。お前はあまりにひ弱すぎる。その棒っ切れのような腕を見ろ。そんなんじゃパフォーマンスの途中でバテちまうぞ」
「こう見えて体力には自信があります」
ムッとして答えるとピアジェがふんと鼻で笑った。神経に触る笑い方だ。
「とにかく鍛えろ、付いてこれなければショーには出さん」
脅しなんて怖くも何ともないけれど、ショーには出たい。認めたくないけれど、筋力がないのは確かだ。場越しの作業のときも、重いものを持ち上げる際私1人では心配らしく他のメンバーが駆けつけて助けてくれたっけ。有難いことだけれど、皆それぞれの仕事で忙しいのに、私の力がないせいで作業の効率を落とすのは申し訳ない。何よりジャグリングや綱渡りをやっていても、筋肉が強張って疲れてしまいやすいのは確かだった。ピアジェには強がって見せたけれど、彼のような体育会系の人間からしたら私はひ弱なのだろう。
ピアジェはトレーニングルームのランニングマシーンの隣に並ぶダンベルを持ち上げるように指示を出した。5キロから始めて15キロまでは何とか持ち上げられたが、それ以上になると無理だった。ピアジェは私に次々と矢のように否定の言葉を浴びせた。
「お前はそれでも男か?! ミラーでも20キロは持てるぞ!! 俺が学生の頃は50キロも楽勝だった、お前のような貧弱な奴はサーカスではやっていけん!!」
「男だからって、皆が皆マッチョである必要があるとは思えませんが。男は強くあるべきなんて考え、今どき流行りませんよ。大体にして男、女という括り自体が時代に反して……」
「つべこべぬかすな、このガキがぁぁ!!」
ピアジェの怒鳴り声に驚いた何人かの仲間がチラチラと心配そうにこっちを見ているのが分かるが、彼らに助けを求めたくはない。今私が対峙すべきは、パフォーマンスに耐えられない自分の身体と、血管が切れそうなほどの大声で喚き立てる目の前の男だ。
ピアジェは鞭を手に取り、私に腕立てと腹筋を100回ずつやるように命じた。まるで軍隊のようだと思いながら床に手をついて30回ほど腕立てをしたところで、腕に力が入らなくなってきた。
ゴムが弾けるような音と一緒に背中に激痛が走り、短い悲鳴が漏れる。
「根性のない奴だな!! このくらいでへばるんじゃ、サーカスなんて夢のまた夢だ!!」
うつ伏せの状態から男の顔を見返した。その唇は歪み、茶色の目は爛々と輝き頬が紅潮している。まるで人をいたぶることを楽しんでいるかのように。
もう一度、今度は右肩に鞭が振り下ろされる。もう20回、ほとんど気力だけで身体を持ち上げ床にうつ伏せになった私の脇腹を男が靴の先で蹴り付ける。
「どうした? もう降参か? どんな練習にもついてくるという気概はどこへ行った? あれは見せかけか? え?」
歯を食い縛る。この男の前にいると、自分が至極無力で矮小な存在に思えてくる。私の軟弱な身体が全ての不幸の源で、彼の欲求に応えられない自分は愚かで情けない存在なのだと。
だがそれは真理だろうか?
本当に私が悪いんだろうか?
それにYESと答えてしまうことは、ケニーが職場で受けてきた数々の理不尽な仕打ち、そしてルーファスが世間から差別を受けミラーが虐げられているのも、本人たちの問題と結論づけるのと同じことだ。彼らが悪いんじゃない。私が悪いんでもない。悪いのは、この暴虐の限りを尽くしてきた目の前の男なのだ。
ミラーの「恐ろしい人」という言葉が脳裏に浮かぶ。本当に恐ろしい人間なんてこの世にどのくらいいるだろうか。ホラー映画に出てきたAI人形のミーガンの方がずっと怖い。
彼はおそらく自信がないのだ。ルーファスのような頭脳も人格もないから、大声を出し鞭を振るうことで人を服従させようとする。ディアナと同類だ。力を誇示し誰かをこき落とし嘲笑うことでしか自分の価値を見出せない、臆病で情けなくて矮小なのは彼の方だ。
この男には負けたくない。絶対に。
ピアジェの恍惚とした目を見据える。
「女みたいな目をしているな」と男が嘲笑する。
「その顔がそそるよ」
あらゆる暴言と被虐的な行動の生贄となりながら100回ずつのノルマをこなす途中、駆けつけた団員たちがピアジェを何度も止めた。ピアジェは掴み掛かろうとしたジャンを殴りつけ、ルーファスの小さな身体を突き飛ばした。
混沌と化したトレーニングルームにジュリエッタがやってきて、「団長、女子トイレが詰まったわ」と言った。
憤怒に覆われた男の顔が入り口を向く。
「何?! そんな修理などスタッフの誰かにやらせろ!!」
「皆忙しそうなのよ」と困ったように言うジュリエッタ。私に目配せをしているのに気づき助けに来てくれたのだと分かった。「俺も忙しいわ!」となおも憤っているピアジェに向かってシンディが「お願い団長、やってちょうだい。一つしかないトイレが使えないのは大変だわ。何でもできる団長なら、きっとすぐに直せるわ」と持ち上げながら懇願して初めて、ピアジェは呆れたみたいにため息をついた。
「やれやれ、手のかかる便所だ」
ピアジェは去り際振り向いて、ギロリと私を睨んだ。
「今日はここまで勘弁してやるが、また明日もやるぞ」
力が抜けて床に突っ伏した。背中がヒリヒリして痛くて、周りに心配した仲間たちが集まってきたのに泣き出しそうになった。私は確かにひ弱だ。仲間たちが軽々乗り越えられるようなノルマもこなせずに、加虐的な男の玩具になっている。情けないよりも悔しかった。噛んだ唇から血が滲む。
アルフレッドがしゃがんで私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か、ネロ? 背中が痛むだろう?」
「平気さ、このくらい」
強がってみせたけれど震えた声で泣き出しそうなのが伝わったはずだ。やるせない、悔しい。
「ホタルを呼んでくるわ、念の為消毒をしてもらいましょ」
大丈夫だと止めるのも聞かずシンディが飛び出して行った。
「しかしとんでもねぇ奴だな! 新入りをこんなに痛めつけるなんざ鬼の所業としか思えねぇ」
ジャンが苛立たしげに拳を壁に叩きつけた。
「今日、ピアジェは朝から電話でスポンサーとの契約の件で揉めて特に機嫌が悪かったんだ。助けられなくて悪かったよ」とルーファスも項垂れた。
「君たちのせいじゃない、僕がひ弱なのは本当だし……」
「俺も入ったばっかんときは散々やられたよ、口答えすると余計に酷くなる。皆通る道だ。でも、辛いときは俺らに頼れ。いつでも助けてやるからさ」
ジャンがポンと私の肩を叩いた。仲間たちの心遣いに胸がいっぱいになった。
「アイツは新入りをいたぶるのがとりわけ好きだ。俺からもお前に乱暴しないように、ピアジェにキツく言っておくよ。もし辛ければこの練習自体を辞めても……」
「ありがとう、ルーファス。でも僕は負けたくないんだ。人を笑わせるためには強くなければならない。こんなことで泣いちゃいられないよ」
私は立ち上がった。ケニーだって頑張っている。皆同じ苦労をともにして助け合って練習に励み、完成度の高いショーを作り上げている。私だけが辛いからと泣き言を言って脱落するわけにはいかない。クラウンをやると決めたのは自分だ。こんな理不尽な暴力を受けながらやる筋トレに何か大きな意義があるとは思えないけれど、ここを乗り越えなければ私は今までのように中途半端な人生に逆戻りだ。
何よりあの男に負けたくなかった。他人をいたぶることに愉悦し快楽をおぼえるような人間に負けて、せっかくのチャンスを捨てたくはない。
「僕は負けない。できるならアイツの鼻を明かしてやれるくらいまで成長してみせる。アイツを笑わせるくらいのパフォーマンスを見せてやる。皆も見ててくれ。今はまだ何も上手くできてないけど、必ず皆のショーに華を添えてみせる」
「すごいよ、お前は。お前が本気なら俺も本気で応援するぜ! もう一度言うけど、いつでも頼れよ!」
ジャンが私の髪を手でぐしゃぐしゃにした。
「ジャグリングでも綱渡りでも筋力が必要だ。お前はあまりにひ弱すぎる。その棒っ切れのような腕を見ろ。そんなんじゃパフォーマンスの途中でバテちまうぞ」
「こう見えて体力には自信があります」
ムッとして答えるとピアジェがふんと鼻で笑った。神経に触る笑い方だ。
「とにかく鍛えろ、付いてこれなければショーには出さん」
脅しなんて怖くも何ともないけれど、ショーには出たい。認めたくないけれど、筋力がないのは確かだ。場越しの作業のときも、重いものを持ち上げる際私1人では心配らしく他のメンバーが駆けつけて助けてくれたっけ。有難いことだけれど、皆それぞれの仕事で忙しいのに、私の力がないせいで作業の効率を落とすのは申し訳ない。何よりジャグリングや綱渡りをやっていても、筋肉が強張って疲れてしまいやすいのは確かだった。ピアジェには強がって見せたけれど、彼のような体育会系の人間からしたら私はひ弱なのだろう。
ピアジェはトレーニングルームのランニングマシーンの隣に並ぶダンベルを持ち上げるように指示を出した。5キロから始めて15キロまでは何とか持ち上げられたが、それ以上になると無理だった。ピアジェは私に次々と矢のように否定の言葉を浴びせた。
「お前はそれでも男か?! ミラーでも20キロは持てるぞ!! 俺が学生の頃は50キロも楽勝だった、お前のような貧弱な奴はサーカスではやっていけん!!」
「男だからって、皆が皆マッチョである必要があるとは思えませんが。男は強くあるべきなんて考え、今どき流行りませんよ。大体にして男、女という括り自体が時代に反して……」
「つべこべぬかすな、このガキがぁぁ!!」
ピアジェの怒鳴り声に驚いた何人かの仲間がチラチラと心配そうにこっちを見ているのが分かるが、彼らに助けを求めたくはない。今私が対峙すべきは、パフォーマンスに耐えられない自分の身体と、血管が切れそうなほどの大声で喚き立てる目の前の男だ。
ピアジェは鞭を手に取り、私に腕立てと腹筋を100回ずつやるように命じた。まるで軍隊のようだと思いながら床に手をついて30回ほど腕立てをしたところで、腕に力が入らなくなってきた。
ゴムが弾けるような音と一緒に背中に激痛が走り、短い悲鳴が漏れる。
「根性のない奴だな!! このくらいでへばるんじゃ、サーカスなんて夢のまた夢だ!!」
うつ伏せの状態から男の顔を見返した。その唇は歪み、茶色の目は爛々と輝き頬が紅潮している。まるで人をいたぶることを楽しんでいるかのように。
もう一度、今度は右肩に鞭が振り下ろされる。もう20回、ほとんど気力だけで身体を持ち上げ床にうつ伏せになった私の脇腹を男が靴の先で蹴り付ける。
「どうした? もう降参か? どんな練習にもついてくるという気概はどこへ行った? あれは見せかけか? え?」
歯を食い縛る。この男の前にいると、自分が至極無力で矮小な存在に思えてくる。私の軟弱な身体が全ての不幸の源で、彼の欲求に応えられない自分は愚かで情けない存在なのだと。
だがそれは真理だろうか?
本当に私が悪いんだろうか?
それにYESと答えてしまうことは、ケニーが職場で受けてきた数々の理不尽な仕打ち、そしてルーファスが世間から差別を受けミラーが虐げられているのも、本人たちの問題と結論づけるのと同じことだ。彼らが悪いんじゃない。私が悪いんでもない。悪いのは、この暴虐の限りを尽くしてきた目の前の男なのだ。
ミラーの「恐ろしい人」という言葉が脳裏に浮かぶ。本当に恐ろしい人間なんてこの世にどのくらいいるだろうか。ホラー映画に出てきたAI人形のミーガンの方がずっと怖い。
彼はおそらく自信がないのだ。ルーファスのような頭脳も人格もないから、大声を出し鞭を振るうことで人を服従させようとする。ディアナと同類だ。力を誇示し誰かをこき落とし嘲笑うことでしか自分の価値を見出せない、臆病で情けなくて矮小なのは彼の方だ。
この男には負けたくない。絶対に。
ピアジェの恍惚とした目を見据える。
「女みたいな目をしているな」と男が嘲笑する。
「その顔がそそるよ」
あらゆる暴言と被虐的な行動の生贄となりながら100回ずつのノルマをこなす途中、駆けつけた団員たちがピアジェを何度も止めた。ピアジェは掴み掛かろうとしたジャンを殴りつけ、ルーファスの小さな身体を突き飛ばした。
混沌と化したトレーニングルームにジュリエッタがやってきて、「団長、女子トイレが詰まったわ」と言った。
憤怒に覆われた男の顔が入り口を向く。
「何?! そんな修理などスタッフの誰かにやらせろ!!」
「皆忙しそうなのよ」と困ったように言うジュリエッタ。私に目配せをしているのに気づき助けに来てくれたのだと分かった。「俺も忙しいわ!」となおも憤っているピアジェに向かってシンディが「お願い団長、やってちょうだい。一つしかないトイレが使えないのは大変だわ。何でもできる団長なら、きっとすぐに直せるわ」と持ち上げながら懇願して初めて、ピアジェは呆れたみたいにため息をついた。
「やれやれ、手のかかる便所だ」
ピアジェは去り際振り向いて、ギロリと私を睨んだ。
「今日はここまで勘弁してやるが、また明日もやるぞ」
力が抜けて床に突っ伏した。背中がヒリヒリして痛くて、周りに心配した仲間たちが集まってきたのに泣き出しそうになった。私は確かにひ弱だ。仲間たちが軽々乗り越えられるようなノルマもこなせずに、加虐的な男の玩具になっている。情けないよりも悔しかった。噛んだ唇から血が滲む。
アルフレッドがしゃがんで私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か、ネロ? 背中が痛むだろう?」
「平気さ、このくらい」
強がってみせたけれど震えた声で泣き出しそうなのが伝わったはずだ。やるせない、悔しい。
「ホタルを呼んでくるわ、念の為消毒をしてもらいましょ」
大丈夫だと止めるのも聞かずシンディが飛び出して行った。
「しかしとんでもねぇ奴だな! 新入りをこんなに痛めつけるなんざ鬼の所業としか思えねぇ」
ジャンが苛立たしげに拳を壁に叩きつけた。
「今日、ピアジェは朝から電話でスポンサーとの契約の件で揉めて特に機嫌が悪かったんだ。助けられなくて悪かったよ」とルーファスも項垂れた。
「君たちのせいじゃない、僕がひ弱なのは本当だし……」
「俺も入ったばっかんときは散々やられたよ、口答えすると余計に酷くなる。皆通る道だ。でも、辛いときは俺らに頼れ。いつでも助けてやるからさ」
ジャンがポンと私の肩を叩いた。仲間たちの心遣いに胸がいっぱいになった。
「アイツは新入りをいたぶるのがとりわけ好きだ。俺からもお前に乱暴しないように、ピアジェにキツく言っておくよ。もし辛ければこの練習自体を辞めても……」
「ありがとう、ルーファス。でも僕は負けたくないんだ。人を笑わせるためには強くなければならない。こんなことで泣いちゃいられないよ」
私は立ち上がった。ケニーだって頑張っている。皆同じ苦労をともにして助け合って練習に励み、完成度の高いショーを作り上げている。私だけが辛いからと泣き言を言って脱落するわけにはいかない。クラウンをやると決めたのは自分だ。こんな理不尽な暴力を受けながらやる筋トレに何か大きな意義があるとは思えないけれど、ここを乗り越えなければ私は今までのように中途半端な人生に逆戻りだ。
何よりあの男に負けたくなかった。他人をいたぶることに愉悦し快楽をおぼえるような人間に負けて、せっかくのチャンスを捨てたくはない。
「僕は負けない。できるならアイツの鼻を明かしてやれるくらいまで成長してみせる。アイツを笑わせるくらいのパフォーマンスを見せてやる。皆も見ててくれ。今はまだ何も上手くできてないけど、必ず皆のショーに華を添えてみせる」
「すごいよ、お前は。お前が本気なら俺も本気で応援するぜ! もう一度言うけど、いつでも頼れよ!」
ジャンが私の髪を手でぐしゃぐしゃにした。
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