ライオンガール

たらこ飴

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第1章〜サーカス列車の旅〜

バラックエリア③

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 バスを降りた瞬間から、市街地とは明らかに違う不穏な空気に包まれた。

 5分ほど歩くとスラムに着いた。舗装されていない通りには、強い風が吹いたらすぐに吹き飛んでしまいそうな簡素な作りのバラック小屋が所狭しと立ち並ぶ。コンクリート作りの家もいくつかあったがほとんどの家の屋根はトタンで、中には衝立をドア代わりにしている家すらある。地面からは土埃が舞い、あちこちにタバコの吸い殻や酒瓶、使用済みの注射器、履き古した誰かのサンダルなどのゴミが散乱している。日用品や食料を売る小さな店もいくつかあったが、レジカウンター付近の煙草や酒類の並ぶ陳列棚のほとんどが盗難防止の鉄柵でガードされている。

 シャッターにスプレーで下品な落書きがされた建物の前には若い男たちがたむろしていて、彼らの領地へ足を踏み入れた私たちにギラついた目を向けてくる。

「ねぇ、ケニー。さっきからすごい見られてるんだけど……」

「気のせいだ……」

「有名人になった気分ね」

「そうだな」

 ケニーは上方の交錯しているいくつもの黒い電線と、その周りをけたたましい鳴き声を上げて飛び交う烏の群れを見つめている。まるで鳥までもが私たちに警戒を促しているみたいだ。

 必死に平静を保とうと努めているのだろうが、ケニーの声は緊張して震え、額には再び脂汗が滲み出していた。

 恐怖を感じない代わりに、突き刺さるナイフのような人々の視線が痛い。

 すれ違った黒いタンクトップ姿の男性が私たちに向かって逆ピースサインを作り、両目に当てる仕草をした。咄嗟に笑顔を作ってピースを返したら、「あれは、『危険だから帰れ』っていう意味だ」とケニーが慌てて耳打ちした。

 コンクリート造りの家の前で、煙草を吹かしている中年男性がいたので声をかけた。ペネムという老人を探していると伝えると、彼は険しい顔をして手を顔の前で振った。

「帰った方がいい、ここはお前たちのようなのが来るところじゃない」

「ペネムにどうしても会いたいんだ、会わないと帰れないんだよ」

 男子たちと頻繁に関わってきたから、彼らの口調や仕草などは容易く真似ることができた。問題は、どう声色を似せても女性にしか聞こえないこの声くらいだろう。

「坊主、よく聞け。あそこに行くのは、ペネムの知り合いや親戚なんかの顔の知れた連中だけだ。お前らみたいなのが行ったところで、護衛に銃で追っ払われるだけだ。怪我だけで済んだらいいが、命の補償はできん」

 男の台詞からどうやら男に化けるのに成功しているのだと知り安心した。

「あなたはペネムの知り合いじゃないの?」

「あのじいさんとは古い付き合いだが、それがなんだ?」

「なら、僕たちをそこに連れて行ってくれない?」

「なぬっ」男は驚いたように声を出した。

「頼むよ、お礼はするからさ。実は探してるものがあるんだ。ここにあるかどうかわからないけど、確かめるまで帰れない」

 男はここがいかに危険か、ペネムのところに行くことがどれほど命懸けの行為かについて身振り手振りを交えて説明し、私は友達のためにどうしても手に入れないといけないものがあるということ、危険なのであればついてきてほしい、たとえついてきてもらえなくても行くつもりだと伝えた。男と私の数十分にも渡る押し問答を、住民たちが警戒と好奇の入り混じった目で見ていた。

 そのうちケニーが「それなら……」とつぶやいて、リュックを開けて財布の中から札束を取り出した。

「姪っ子が友達のために、どうしてもペネムって人のところに行きたいと言ってる。これでどうか、頼まれてくれないだろうか」
 
 男は最初躊躇っていたが、根負けしたみたいに大きなため息と一緒に頭をかき、しぶしぶその金を受け取った。

「良いか、俺はただの案内役だ。お前たちに何か
あっても、命までは守ってやれん。自分の身は自分で守れよ」

「ありがとう、おじさん!」

 喜びのあまり抱きつきたい衝動にかられたが、流石に住民たちの目が痛いのでやめておいた。
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