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夜に少年がしたことは
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その日サガに出会ったのは本当に偶然だった。
れもんは日曜日の午後、華子が行っている美容院に行ってみた。色んな髪形を勧める美容師に、決然と
「前髪を少し切って、毛先を軽くすいてください」
と言い、あとは美容師にまかせた。
できあがった髪形は、いつもの三つ編みを下した姿とそんなに変わらなかった。しかし、全体的に野暮ったい印象だったセミロングが、少し女子高生らしくなった。
「今日お休みなんだから、アレンジだけしてみる?」
美容師はれもんの髪を軽くへアイロンで巻き、全体にスプレーを振りかけた。少し乱された髪の毛からは、ふわりと整髪料が香った。
セットされた髪形をショーウィンドウで気にしつつ、駅前の通りを歩いた。
いつもは地味な服を着ているが、一応美容院ということで赤いギンガムチェックのワンピースに、白いカーディガンを着ていた。れもんなりの精一杯のおしゃれである。
新書をチェックするため大きな書店に寄って帰ろうとしていると、向かいからサガが歩いてきた。サガはうつむき気味で歩いているせいか、まだれもんに気が付いていない。
サガは相変わらず痩せたままだった。ただ以前より頬に赤みがさして、健康そうに見える。
れもんの横を通り過ぎようと、サガがしている。れもんは思わず振り返り、サガの肩に触れた。
「あの、れもんですけど」
サガはびくっと肩を震わせて、振り向いた。
「れもんー?」
あーびっくりしたーと、サガが笑うのでれもんは少し安心した。知ってて無視されていたらと思うと、いたたまれなかった。
「ごめんなさい。どこか行くの?」
「ちょっと調べ物がしたくて、バスで図書館まで行ってきた」
ほら、と綿でできた簡素な鞄にいくつかの本が入っている。
「何の本?見てもいい?」
れもんが覗き込もうとすると、サガは鞄さっとを閉じた。
「エッチな本だったらどうするの?」
そのまま鞄を片手に持ち直し、手に下げる。
「それは、多分軽蔑する…」
れもんは下を向いた。耳たぶが熱い。
「軽蔑するのか!」
一人でサガは大きな声で笑った。しばらくひとしきり笑った後れもんの顔を見て、真顔に戻る。
「今日、雰囲気違うけど、美容院行ってきたの?」
耳たぶの熱が、顔に広がった。
「変?」
変だったら、今すぐ帰りたい。トイレを探していつもの三つ編みに戻す。いつもはしないおしゃれをして、ちょっと浮き足立っている自分を、誰かにたしなめられたい気持ちもれもんにはあった。
「似合うよ。すごくいい。三つ編みも可愛いと思うけど」
「えっと、それはお世辞?」
「お世辞じゃないよ。新しい髪も、いつもの髪もれもんぽくていいと思うよ」
この人からみたわたしは、一体どんな形をしているのだろう。自分で思っているよりも明るいイメージだといい。
「ありがとう」
れもんはサガの顔を見た。相変わらず、唇が赤い。まっすぐれもんに見つめられて、サガの瞳が揺れた。
「…じゃあ、また今度」
サガはくるりと踵を返し、れもんに背を向け立ち去ろうとする。
「お母さんも会いたいって!」
サガは少し振り向き、片手をあげて微笑んだ。その微笑みは以前見た寂しそうな顔だった。
帰る場所は同じなのに、れもんとサガは別々に帰った。今日の夕飯はカレーなのに。惜しい人。どこかで図書館から借りたいやらしい本でも読むつもりなのか。
日曜日の午後は、夕方に変わりかけていた。れもんが一週間で一番苦手な時間、それが日曜日の夕方だ。明日からの学校生活へと、スイッチを切り替える時間だ。
どうして、サガはわたしを避けるのか。
考えまいと思いつつ、サガの首筋の白さを思い出しながら、れもんはアパートまでてくてく歩いた。
帰宅すると日勤を終えた香子とカレーを作った。
「髪形いいじゃない。明日からそれで学校行くの?」
「これは今日だけ。校則で肩より長い人は結ばなけれはいけないんだよ」
もちろん守っている人は少ないが、れもんは校則違反は嫌だった。
「お母さん、サガに会ったよ。元気そうだった」
「夕飯誘わなかったの?」
「忙しそうだったから」
残念ね、と一言言うと、香子はもうサガのことは聞かなかった。
香子もれもんほどではないが、内向的で控えめな性格である。以前はそうでもなかったが、現在は他人と一定の距離をとり、人付き合いをするようになった。
だからこそサガは二人と打ち解けた。食事のときも話題をふるのはサガで、香子とれもんが聞き役に徹する。
日雇いのアルバイトの失敗談、自分ではまだよくわからない日本語の意味、町のいいところ。
サガの話には笑いどころが必ずあり、香子は微笑みながらその話をきき、れもんが時々つっこみをいれる。
サガがいた夕餉を思い出しながら、やたらと響くテレビの音量を下げて、れもんと香子はカレーを黙々と食べた。
夕飯を終えると、れもんは風呂に入り整髪料の香る髪を念入りに洗い、乾かし、自室の姿見の前でとかした。
顔をななめ45度の角度に傾け、片側に髪を寄せる。毛先が頬に触れてくすぐったい。
れもんはあらわになった自分の首筋を一撫でしてみる。れもんの首筋はサガのようなピンクがかった白さではない。黄色人種特有のクリーム色がかった白さである。
お互いの首筋の色が違うように、れもんの孤独も、サガの孤独も違うもので、どれだけ近くにいたとしてもわかりあえることはないのだろう。
それでもれもんはサガの孤独を、知りたい
と思った。嘘の裏に隠された孤独を。
自室のふすまがコンコンと叩かれた。香子が顔をのぞかせている。
「明日の朝食用のパン買い忘れてたから、ちょっとコンビニまで行ってくるわ」
香子はれもんより先に風呂をすませていたので、もう寝巻に着替えている。
「私行くよ。お母さんその恰好で行く気?私ならまだ部屋着だし」
「いいの?明るい場所を通って行くのよ」
れもんは母から財布を受け取ると、徒歩5分のコンビニまで歩いた。
夜風に秋の匂いが混ざる街灯の下を、早歩きで歩く。朝が嫌いなれもんだが、夜はわりと好きだった。
コンビニは空いていた。パンのコーナーの一番上にある、6枚切りの食パンを手にとり、会計をすませる。
少し雑誌の棚を見ていると、サガと似た背格好の少年が、コンビニに入ってきた。
少年は青年雑誌のコーナーで、漫画をとりかごにいれ、カップ麺のコーナで商品を物色している。帰るときちらりと見ると、スナック菓子等もかごに山盛りになっている。
れもんはサガの食生活が心配になった。男の人が一人暮らしをしていれば、あんなものばかりを食べるようになるのかしらん、と思った。
あまり遅くならないうちに、と少年が店から出た後、れもんも出て行った。
すると、コンビニの出入り口から見て右にある小さい交差点そばに、サガらしき姿を見た。
正確には交差点のそばから住宅街の狭い小路に入るサガらしき男の後ろ姿を、れもんは見た。
見て、数秒間先ほどの少年だとれもんは思おうとした。しかし足は自然と住宅街へ歩き出していた。
あれがサガなのか確かめたかった。サガならば一緒にアパートまで帰ればいい。何も問題はない。
ただ行ってはいけない、そのような予感もれもんは感じていた。見てはいけない姿だったら?心臓が早歩きのせいではなく、ばくばくと鳴っている。
辺りに人影はない。静かな住宅街の夜である。月はまだ満月からそう欠けてはいない。街灯とともに明るい月光を道路に落としている。
サガが入って行った、小路の入り口辺りまでれもんはやって来た。一度立ち止まり呼吸を整えるために、息を吸い大きく吐く。このままついて行かず、帰ってしまおうか、そもそも私はなぜサガを知りたいのか。そうれもんは逡巡していた。だがその逡巡もすぐに破られた。
ギニャアー、と伸びるような生き物の声がした。住宅街は静かなのでその声はよく響いた。
反射的に声のした小路に飛び出すと、道路の真ん中にサガがいた。猫を顔辺りに抱いている。
だが抱いているわけではないと、すぐにれもんは気付いた。サガが猫の首に顔をうずめている。うずめられた首からは黒っぽい液体が出ている。その液体は猫のだらりとのびた前足をつたい、サガの足元にぽたりと滴り落ちている。
恐怖でれもんは目を見張った。サガは自分に気付いていない。今すぐこの場から離れなければ、と思ったのだが震える声で
「サガ…?」
と呟いてしまった。
サガはその瞬間、はっとれもんの方を振り向いた。抱きしめられていた猫は、最後の力を振り絞り、サガの腕から脱出した。
不思議な光景だった。月明かり。住宅街の街灯が二人を照らす。道路の真ん中で、恐れと羞恥と怒りの混ざった目でサガはれもんを見つめ返し、呆然と立ちすくんでいる。顔の半分は先ほどの猫の血で黒く濡れ、首筋に流れ、鎖骨のくぼみに溜まっている。
れもんは震える足で後ずさった。自分の意思に反して、動かないと思っていた足は、一度動くと、そのあとは思い通りに動いた。
思い通りになった足を、無我夢中で動かし、れもんは全速力でアパートまで走った。街灯の明かりも同じ速さで後ろへと流れていく。
アパートのドアをばん、と開け、部屋に入る。激しく息をきらせ、思わず玄関にへたりこむ。香子がびっくりしている。
「どうしたの」
香子が心配そうに肩を抱く。れもんの息が落ち着くように、背中を手でさすった。
はあはあ、と荒い呼吸をれもんは繰り返していたが、香子を心配させてはいけないと
「帰り道、蛇が出て、怖くて、走って帰ってきちゃって…」
と切れ切れに説明した。
「なら、いいんだけど、顔色が悪いわ。横になる?」
香子から差し出された水を飲み、れもんは
「部屋で寝るから、大丈夫」
と言い残し、自室に入った。今の出来事を頭の中で整理するため、一人になる必要があった。
頭からサガの見開いた目が離れない。街灯に照らされる白い顔と、暗いから黒く見えた血液の対比。
あれがサガの真実で、自分が知りたかった姿だとしたら、それを暴かれたサガはどうなってしまうのだろう。
れもんは布団をずり上げる。昔からの癖で、眠れないときは頭まですっぽり布団をかぶる。
だがその日れもんには、少しの眠りも訪れなかった。白々と夜が明けるとき、れもんは朝焼けをベッドの上から眺めた。
れもんは日曜日の午後、華子が行っている美容院に行ってみた。色んな髪形を勧める美容師に、決然と
「前髪を少し切って、毛先を軽くすいてください」
と言い、あとは美容師にまかせた。
できあがった髪形は、いつもの三つ編みを下した姿とそんなに変わらなかった。しかし、全体的に野暮ったい印象だったセミロングが、少し女子高生らしくなった。
「今日お休みなんだから、アレンジだけしてみる?」
美容師はれもんの髪を軽くへアイロンで巻き、全体にスプレーを振りかけた。少し乱された髪の毛からは、ふわりと整髪料が香った。
セットされた髪形をショーウィンドウで気にしつつ、駅前の通りを歩いた。
いつもは地味な服を着ているが、一応美容院ということで赤いギンガムチェックのワンピースに、白いカーディガンを着ていた。れもんなりの精一杯のおしゃれである。
新書をチェックするため大きな書店に寄って帰ろうとしていると、向かいからサガが歩いてきた。サガはうつむき気味で歩いているせいか、まだれもんに気が付いていない。
サガは相変わらず痩せたままだった。ただ以前より頬に赤みがさして、健康そうに見える。
れもんの横を通り過ぎようと、サガがしている。れもんは思わず振り返り、サガの肩に触れた。
「あの、れもんですけど」
サガはびくっと肩を震わせて、振り向いた。
「れもんー?」
あーびっくりしたーと、サガが笑うのでれもんは少し安心した。知ってて無視されていたらと思うと、いたたまれなかった。
「ごめんなさい。どこか行くの?」
「ちょっと調べ物がしたくて、バスで図書館まで行ってきた」
ほら、と綿でできた簡素な鞄にいくつかの本が入っている。
「何の本?見てもいい?」
れもんが覗き込もうとすると、サガは鞄さっとを閉じた。
「エッチな本だったらどうするの?」
そのまま鞄を片手に持ち直し、手に下げる。
「それは、多分軽蔑する…」
れもんは下を向いた。耳たぶが熱い。
「軽蔑するのか!」
一人でサガは大きな声で笑った。しばらくひとしきり笑った後れもんの顔を見て、真顔に戻る。
「今日、雰囲気違うけど、美容院行ってきたの?」
耳たぶの熱が、顔に広がった。
「変?」
変だったら、今すぐ帰りたい。トイレを探していつもの三つ編みに戻す。いつもはしないおしゃれをして、ちょっと浮き足立っている自分を、誰かにたしなめられたい気持ちもれもんにはあった。
「似合うよ。すごくいい。三つ編みも可愛いと思うけど」
「えっと、それはお世辞?」
「お世辞じゃないよ。新しい髪も、いつもの髪もれもんぽくていいと思うよ」
この人からみたわたしは、一体どんな形をしているのだろう。自分で思っているよりも明るいイメージだといい。
「ありがとう」
れもんはサガの顔を見た。相変わらず、唇が赤い。まっすぐれもんに見つめられて、サガの瞳が揺れた。
「…じゃあ、また今度」
サガはくるりと踵を返し、れもんに背を向け立ち去ろうとする。
「お母さんも会いたいって!」
サガは少し振り向き、片手をあげて微笑んだ。その微笑みは以前見た寂しそうな顔だった。
帰る場所は同じなのに、れもんとサガは別々に帰った。今日の夕飯はカレーなのに。惜しい人。どこかで図書館から借りたいやらしい本でも読むつもりなのか。
日曜日の午後は、夕方に変わりかけていた。れもんが一週間で一番苦手な時間、それが日曜日の夕方だ。明日からの学校生活へと、スイッチを切り替える時間だ。
どうして、サガはわたしを避けるのか。
考えまいと思いつつ、サガの首筋の白さを思い出しながら、れもんはアパートまでてくてく歩いた。
帰宅すると日勤を終えた香子とカレーを作った。
「髪形いいじゃない。明日からそれで学校行くの?」
「これは今日だけ。校則で肩より長い人は結ばなけれはいけないんだよ」
もちろん守っている人は少ないが、れもんは校則違反は嫌だった。
「お母さん、サガに会ったよ。元気そうだった」
「夕飯誘わなかったの?」
「忙しそうだったから」
残念ね、と一言言うと、香子はもうサガのことは聞かなかった。
香子もれもんほどではないが、内向的で控えめな性格である。以前はそうでもなかったが、現在は他人と一定の距離をとり、人付き合いをするようになった。
だからこそサガは二人と打ち解けた。食事のときも話題をふるのはサガで、香子とれもんが聞き役に徹する。
日雇いのアルバイトの失敗談、自分ではまだよくわからない日本語の意味、町のいいところ。
サガの話には笑いどころが必ずあり、香子は微笑みながらその話をきき、れもんが時々つっこみをいれる。
サガがいた夕餉を思い出しながら、やたらと響くテレビの音量を下げて、れもんと香子はカレーを黙々と食べた。
夕飯を終えると、れもんは風呂に入り整髪料の香る髪を念入りに洗い、乾かし、自室の姿見の前でとかした。
顔をななめ45度の角度に傾け、片側に髪を寄せる。毛先が頬に触れてくすぐったい。
れもんはあらわになった自分の首筋を一撫でしてみる。れもんの首筋はサガのようなピンクがかった白さではない。黄色人種特有のクリーム色がかった白さである。
お互いの首筋の色が違うように、れもんの孤独も、サガの孤独も違うもので、どれだけ近くにいたとしてもわかりあえることはないのだろう。
それでもれもんはサガの孤独を、知りたい
と思った。嘘の裏に隠された孤独を。
自室のふすまがコンコンと叩かれた。香子が顔をのぞかせている。
「明日の朝食用のパン買い忘れてたから、ちょっとコンビニまで行ってくるわ」
香子はれもんより先に風呂をすませていたので、もう寝巻に着替えている。
「私行くよ。お母さんその恰好で行く気?私ならまだ部屋着だし」
「いいの?明るい場所を通って行くのよ」
れもんは母から財布を受け取ると、徒歩5分のコンビニまで歩いた。
夜風に秋の匂いが混ざる街灯の下を、早歩きで歩く。朝が嫌いなれもんだが、夜はわりと好きだった。
コンビニは空いていた。パンのコーナーの一番上にある、6枚切りの食パンを手にとり、会計をすませる。
少し雑誌の棚を見ていると、サガと似た背格好の少年が、コンビニに入ってきた。
少年は青年雑誌のコーナーで、漫画をとりかごにいれ、カップ麺のコーナで商品を物色している。帰るときちらりと見ると、スナック菓子等もかごに山盛りになっている。
れもんはサガの食生活が心配になった。男の人が一人暮らしをしていれば、あんなものばかりを食べるようになるのかしらん、と思った。
あまり遅くならないうちに、と少年が店から出た後、れもんも出て行った。
すると、コンビニの出入り口から見て右にある小さい交差点そばに、サガらしき姿を見た。
正確には交差点のそばから住宅街の狭い小路に入るサガらしき男の後ろ姿を、れもんは見た。
見て、数秒間先ほどの少年だとれもんは思おうとした。しかし足は自然と住宅街へ歩き出していた。
あれがサガなのか確かめたかった。サガならば一緒にアパートまで帰ればいい。何も問題はない。
ただ行ってはいけない、そのような予感もれもんは感じていた。見てはいけない姿だったら?心臓が早歩きのせいではなく、ばくばくと鳴っている。
辺りに人影はない。静かな住宅街の夜である。月はまだ満月からそう欠けてはいない。街灯とともに明るい月光を道路に落としている。
サガが入って行った、小路の入り口辺りまでれもんはやって来た。一度立ち止まり呼吸を整えるために、息を吸い大きく吐く。このままついて行かず、帰ってしまおうか、そもそも私はなぜサガを知りたいのか。そうれもんは逡巡していた。だがその逡巡もすぐに破られた。
ギニャアー、と伸びるような生き物の声がした。住宅街は静かなのでその声はよく響いた。
反射的に声のした小路に飛び出すと、道路の真ん中にサガがいた。猫を顔辺りに抱いている。
だが抱いているわけではないと、すぐにれもんは気付いた。サガが猫の首に顔をうずめている。うずめられた首からは黒っぽい液体が出ている。その液体は猫のだらりとのびた前足をつたい、サガの足元にぽたりと滴り落ちている。
恐怖でれもんは目を見張った。サガは自分に気付いていない。今すぐこの場から離れなければ、と思ったのだが震える声で
「サガ…?」
と呟いてしまった。
サガはその瞬間、はっとれもんの方を振り向いた。抱きしめられていた猫は、最後の力を振り絞り、サガの腕から脱出した。
不思議な光景だった。月明かり。住宅街の街灯が二人を照らす。道路の真ん中で、恐れと羞恥と怒りの混ざった目でサガはれもんを見つめ返し、呆然と立ちすくんでいる。顔の半分は先ほどの猫の血で黒く濡れ、首筋に流れ、鎖骨のくぼみに溜まっている。
れもんは震える足で後ずさった。自分の意思に反して、動かないと思っていた足は、一度動くと、そのあとは思い通りに動いた。
思い通りになった足を、無我夢中で動かし、れもんは全速力でアパートまで走った。街灯の明かりも同じ速さで後ろへと流れていく。
アパートのドアをばん、と開け、部屋に入る。激しく息をきらせ、思わず玄関にへたりこむ。香子がびっくりしている。
「どうしたの」
香子が心配そうに肩を抱く。れもんの息が落ち着くように、背中を手でさすった。
はあはあ、と荒い呼吸をれもんは繰り返していたが、香子を心配させてはいけないと
「帰り道、蛇が出て、怖くて、走って帰ってきちゃって…」
と切れ切れに説明した。
「なら、いいんだけど、顔色が悪いわ。横になる?」
香子から差し出された水を飲み、れもんは
「部屋で寝るから、大丈夫」
と言い残し、自室に入った。今の出来事を頭の中で整理するため、一人になる必要があった。
頭からサガの見開いた目が離れない。街灯に照らされる白い顔と、暗いから黒く見えた血液の対比。
あれがサガの真実で、自分が知りたかった姿だとしたら、それを暴かれたサガはどうなってしまうのだろう。
れもんは布団をずり上げる。昔からの癖で、眠れないときは頭まですっぽり布団をかぶる。
だがその日れもんには、少しの眠りも訪れなかった。白々と夜が明けるとき、れもんは朝焼けをベッドの上から眺めた。
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