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感熱紙
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久世は途方に暮れながらも、櫻田邸を後にしたその足で今度は山科邸へと訪れた。
山科氏は満面の笑みで久世を出迎えたが、久世が婚約の解消を求めた途端に笑顔は消えてなくなった。
娘と親しくしているばかりか、自邸へ泊まってすらいるのに不届きだとして激昂し、何を言っても取り合ってもらえなくなった。
「次にお会いするときは結納の場にしましょう」
それだけを言われて、追い返された。
久世は晶に電話を掛けてクラブBootlegに呼び出した。
「私もお願いしたけどダメだったんだから、透に説得できるわけがないでしょ? 聞く耳を持つのは西園寺のおじさまくらいだ」
「それならば、西園寺議員に……」
久世は言いかけたが、すぐに無理だと悟ってうなだれた。秘書官が命令に背くなど、仕事を続けたいならできるはずがない。
ならば辞めてやろうかとも一瞬頭をよぎったが、辞めてどうするのかを考えると、今のこの精神状態では気が重く、勢いでできることではなかった。
「そんなに婚約破棄したいなら言うだけ言ってみれば? 透なら何でもできる。弁護士にもなれるし、秘書官が良ければ他の議員のだってできる」
晶にそう慰められて、久世は少し気が楽になった。それから話題はいつものように映画の話になり、悩みを忘れるために晶との会話に没頭した。
二時間ほど経って、晶が話題を変えた。
「なんで結婚が嫌なわけ? 雅紀とは今まで通り付き合っていればいい。私はプラトニックでも構わない。何の問題もないでしょう」
晶に言われるまでもなく、会話をしていて久世も同じことを考えていた。
生田よりも晶との方が趣味は合うし、最近は会話も弾む。生田と出会って同棲していた頃は、晶以上に会話が盛り上がったし、映画は別としても晶よりも気が合った。生田とようやく元の関係に戻れたというのに、西園寺の家へ来てからは以前のようではなくなってしまった。
久世は生田の存在を遠く感じていた。晶との方がよっぽど近いとすら感じるほどに。
久世は限界だった。
悩みすぎて冷静さを失いかけていた。
生田は久世の苦悩に気がついていた。生田と西園寺の関係を面白くないと感じていることも、生田の間に距離を感じていることもわかっていた。しかし打ち明けることができなかった。今は未だその時ではなかった。もう少し。あと一歩だったのだ。
そしてとうとうその日が訪れた。唐突に、前触れもなく、久世には何も伝えられないまま……
久世が仕事を終えると、見覚えのあるベンツが目の前に停車していた。
以前なら久世の姿を見た途端に、瑞稀はドアを開けて顔を出し大声で呼び止めたものだが、今日は久世の出方を伺ってでもいるかのように動きがない。
久世はそれが瑞稀の思惑だと承知しながらも、本当に妊娠したのかどうかを聞きたいという衝動からは逃れられなかった。
久世はベンツの後部座席に近づいた。それでもまだサイドウィンドウは下がらない。スモークガラスでは瑞稀の姿も見えない。
久世はため息を漏らしながら、コンコンとノックした。
静かに下がったウィンドウから、勝ち誇った笑みの瑞稀が顔をのぞかせた。
ニヤニヤと笑みを浮かべたまま何も言わずにドアを開け、久世を招き入れる。
久世は嫌悪感をあらわにしながらも乗り込んだ。車はゆっくりと発進し、幹線道路を走行し始めた。
瑞希とは目を合わせぬようにと外の景色を眺めていると、最寄りのレストランでもどちらの自邸でもなく、高速道路へと向かっていることに気がついた。
料金所を通過して高速道路に入ったとき、それまで無言だった瑞希がようやく口を開いた。
「透さんは決断してくれたのね。嬉しい!」
「なんのことですか?」
「結婚よ」
「以前と決意は変わっておりませんが」
「そんなわけには行かないでしょう? ほら」
そう言って、瑞稀は写真のL判ほどの大きさの感熱紙を、ヒラヒラと久世の目の前で振ってみせた。
久世はそれを掴む。手元に引き寄せて目を凝らす。
初めて見たものですぐには理解できなかったが、白黒で解像度の低い画質のそれは、ここ一ヶ月の間に感じていた不安が的中していることを告げていた。
その久世の表情から察したのか、瑞稀は笑顔のまま続けて言った。
「嬉しい? 私と透さんの愛の結晶」
久世は目の前が暗くなった。倒れてしまいそうだった。不安が現実になったのだ。このまま意識を失って目覚めないで欲しいと願った。
額に手を当ててうなだれた久世を見て、瑞希は笑みを大きくした。
「そんなに喜んでくれて嬉しい! 頑張った甲斐があったわ! この子がちゃんと育つまでお預けね。安定期に入るまでは不安だから、口だけで我慢して。その代わりいつでも好きなときにしてあげるから。あ、新居はどうする? 私が選んでもいい? 透さんは忙しいだろうから、家も家具も私が選んでおくね。あ、でもその前に結納かしら? 結納なんて要らないのにね。お腹が大きくなる前に式を挙げてしまいたいわ。でもつわりがあるから産んでからの方がいいかしら? 迷うわ~。式の準備で赤ちゃんに何かあるといけないから、産後の方がいいかもね。大丈夫。すぐに体型を戻すから。産んだあとの方がおっぱいが大きくなるって言うし、その方がいいかも!」
瑞希は相変わらずの様子で一人で喋り続けている。
久世は聞きたくないのに無理やり詰め込まれてでもいるかのように耳に入った。言葉の節々に現れる子供に関することが矢のように久世の心を突いてくる。
お前の子供だ。お前の精子で妊娠した子供の話をしているのだ。耳を塞ぐことはできない。聞かなければならない。お前の子どもの話なのだから、と言外の言葉が身に迫ってくる。
久世は泣いた。ほろほろと涙が溢れた。
結婚しなければならない。子どもの父親にならなければならない。この瑞希と。自分に対して異常なほどの執着を見せ、頭のネジが外れたような奇態は行動をとるこの女と、生涯を共にしなければならない。その現実に直面して泣かずにいられるだろうか。
生田と二度と会うことができないかもしれない。生田と会うことを瑞希が許すとは思えなかった。触れるどころか会うことすら、声を聞くことすらきっと阻まれる。あの性格とこれまでの行動から24時間監視され兼ねない。
心底嬉しそうに心を踊らせて喋り続ける瑞希の横で、この世の不幸を全て背負ったような表情の久世がうなだれて、車は蓼科へと向かっていた。
山科氏は満面の笑みで久世を出迎えたが、久世が婚約の解消を求めた途端に笑顔は消えてなくなった。
娘と親しくしているばかりか、自邸へ泊まってすらいるのに不届きだとして激昂し、何を言っても取り合ってもらえなくなった。
「次にお会いするときは結納の場にしましょう」
それだけを言われて、追い返された。
久世は晶に電話を掛けてクラブBootlegに呼び出した。
「私もお願いしたけどダメだったんだから、透に説得できるわけがないでしょ? 聞く耳を持つのは西園寺のおじさまくらいだ」
「それならば、西園寺議員に……」
久世は言いかけたが、すぐに無理だと悟ってうなだれた。秘書官が命令に背くなど、仕事を続けたいならできるはずがない。
ならば辞めてやろうかとも一瞬頭をよぎったが、辞めてどうするのかを考えると、今のこの精神状態では気が重く、勢いでできることではなかった。
「そんなに婚約破棄したいなら言うだけ言ってみれば? 透なら何でもできる。弁護士にもなれるし、秘書官が良ければ他の議員のだってできる」
晶にそう慰められて、久世は少し気が楽になった。それから話題はいつものように映画の話になり、悩みを忘れるために晶との会話に没頭した。
二時間ほど経って、晶が話題を変えた。
「なんで結婚が嫌なわけ? 雅紀とは今まで通り付き合っていればいい。私はプラトニックでも構わない。何の問題もないでしょう」
晶に言われるまでもなく、会話をしていて久世も同じことを考えていた。
生田よりも晶との方が趣味は合うし、最近は会話も弾む。生田と出会って同棲していた頃は、晶以上に会話が盛り上がったし、映画は別としても晶よりも気が合った。生田とようやく元の関係に戻れたというのに、西園寺の家へ来てからは以前のようではなくなってしまった。
久世は生田の存在を遠く感じていた。晶との方がよっぽど近いとすら感じるほどに。
久世は限界だった。
悩みすぎて冷静さを失いかけていた。
生田は久世の苦悩に気がついていた。生田と西園寺の関係を面白くないと感じていることも、生田の間に距離を感じていることもわかっていた。しかし打ち明けることができなかった。今は未だその時ではなかった。もう少し。あと一歩だったのだ。
そしてとうとうその日が訪れた。唐突に、前触れもなく、久世には何も伝えられないまま……
久世が仕事を終えると、見覚えのあるベンツが目の前に停車していた。
以前なら久世の姿を見た途端に、瑞稀はドアを開けて顔を出し大声で呼び止めたものだが、今日は久世の出方を伺ってでもいるかのように動きがない。
久世はそれが瑞稀の思惑だと承知しながらも、本当に妊娠したのかどうかを聞きたいという衝動からは逃れられなかった。
久世はベンツの後部座席に近づいた。それでもまだサイドウィンドウは下がらない。スモークガラスでは瑞稀の姿も見えない。
久世はため息を漏らしながら、コンコンとノックした。
静かに下がったウィンドウから、勝ち誇った笑みの瑞稀が顔をのぞかせた。
ニヤニヤと笑みを浮かべたまま何も言わずにドアを開け、久世を招き入れる。
久世は嫌悪感をあらわにしながらも乗り込んだ。車はゆっくりと発進し、幹線道路を走行し始めた。
瑞希とは目を合わせぬようにと外の景色を眺めていると、最寄りのレストランでもどちらの自邸でもなく、高速道路へと向かっていることに気がついた。
料金所を通過して高速道路に入ったとき、それまで無言だった瑞希がようやく口を開いた。
「透さんは決断してくれたのね。嬉しい!」
「なんのことですか?」
「結婚よ」
「以前と決意は変わっておりませんが」
「そんなわけには行かないでしょう? ほら」
そう言って、瑞稀は写真のL判ほどの大きさの感熱紙を、ヒラヒラと久世の目の前で振ってみせた。
久世はそれを掴む。手元に引き寄せて目を凝らす。
初めて見たものですぐには理解できなかったが、白黒で解像度の低い画質のそれは、ここ一ヶ月の間に感じていた不安が的中していることを告げていた。
その久世の表情から察したのか、瑞稀は笑顔のまま続けて言った。
「嬉しい? 私と透さんの愛の結晶」
久世は目の前が暗くなった。倒れてしまいそうだった。不安が現実になったのだ。このまま意識を失って目覚めないで欲しいと願った。
額に手を当ててうなだれた久世を見て、瑞希は笑みを大きくした。
「そんなに喜んでくれて嬉しい! 頑張った甲斐があったわ! この子がちゃんと育つまでお預けね。安定期に入るまでは不安だから、口だけで我慢して。その代わりいつでも好きなときにしてあげるから。あ、新居はどうする? 私が選んでもいい? 透さんは忙しいだろうから、家も家具も私が選んでおくね。あ、でもその前に結納かしら? 結納なんて要らないのにね。お腹が大きくなる前に式を挙げてしまいたいわ。でもつわりがあるから産んでからの方がいいかしら? 迷うわ~。式の準備で赤ちゃんに何かあるといけないから、産後の方がいいかもね。大丈夫。すぐに体型を戻すから。産んだあとの方がおっぱいが大きくなるって言うし、その方がいいかも!」
瑞希は相変わらずの様子で一人で喋り続けている。
久世は聞きたくないのに無理やり詰め込まれてでもいるかのように耳に入った。言葉の節々に現れる子供に関することが矢のように久世の心を突いてくる。
お前の子供だ。お前の精子で妊娠した子供の話をしているのだ。耳を塞ぐことはできない。聞かなければならない。お前の子どもの話なのだから、と言外の言葉が身に迫ってくる。
久世は泣いた。ほろほろと涙が溢れた。
結婚しなければならない。子どもの父親にならなければならない。この瑞希と。自分に対して異常なほどの執着を見せ、頭のネジが外れたような奇態は行動をとるこの女と、生涯を共にしなければならない。その現実に直面して泣かずにいられるだろうか。
生田と二度と会うことができないかもしれない。生田と会うことを瑞希が許すとは思えなかった。触れるどころか会うことすら、声を聞くことすらきっと阻まれる。あの性格とこれまでの行動から24時間監視され兼ねない。
心底嬉しそうに心を踊らせて喋り続ける瑞希の横で、この世の不幸を全て背負ったような表情の久世がうなだれて、車は蓼科へと向かっていた。
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