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妻の愛人を

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 久世が目覚めたときには既に、西園寺邸の門をくぐった奥にある、離れの前にタクシーは停車していた。
 マモルが先に降車する。久世が続いてタクシーから降りると、建物の一部となっている車庫に晶の姿が見えた。
 あの真っ赤なジャガーから降りてきたところだった。

 晶とは一週間ぶりだった。西園寺に呼び出されたクラブで何度か顔を合わせていたが、晶は久世に対してあまり興味がない様子で、個室に同席していても二人はほとんど会話をしなかった。
 それに晶は参っている様子で、お気に入りの女性と最近会えていないと毎晩酒を煽って管を巻いていたから、久世は近寄ろうとしなかった。

 マモルの後を追って離れの中に入ると、西園寺の姿があった。
 何度も呼び出されていたのに、西園寺はクラブへ顔を出さなかったので、久世が逃亡したとき以来ということになる。
 久世に待ちぼうけを食らわせ続けたことを悪びれるどころか、西園寺はいつと変わらぬ平静な様子だった。
 西園寺が他人の気持ちに配慮をすることはない。自分の気分や調子を表に出すこともほとんどなく、いつも陽気な笑顔を浮かべて豪胆に反応するだけで、感情的になったときも、そう振る舞って見えるほどに空々しい。

「俺のラプンツェルは、ようやく帰ってきたか。もうどこにも行くなよ? ここから出勤しろ」
「……そうはいかない」
「お前はあの得体のしれない女の方がいいと言うのか? この晶よりも?」
 西園寺は、少し離れたソファに座って煙草をふかしている晶を指した。晶は目を開けたまま夢でも見ているような様子で、ボーっとしている。
 晶を見て、西園寺は目の色を変えた。
「マモル、晶をやめさせろ」
 マモルはそれを聞いて急いで晶のところへ駆け寄った。

 久世は訝しむような目で晶を見ていたが、西園寺は晶の姿を隠すようにと久世へ二歩近づいた。

「お前のあれは櫻田家の娘ではあるが、娘は娘でも妾の子、婚外子というやつだ。養女になったのは一昨年くらいか? 援助はしていたみたいだからまともに育ってはいるが、本物ではない。お前の親父か祖父じいさんかは知らないが、なんであんな女を選んだんだ?」
「俺が知るか」
「お前は晶と結婚しろ」
「……俺は誰とも結婚しない」
「それは無理だ」

 その時、晶の声が大きくなった。西園寺と会話をしている間も晶とマモルがやり合っている怒号が聞こえていたが、会話を止めるほどではなかった。それが気になるくらいに大きくなっている。

「ミキに会いたい!」
「そのうち来るよ。前にも来ない時期があったじゃん、たかが二週間くらい……」
「電話も繋がらないし、LINEも来ない」
「今夜もBに行こう。いるかもよ?」
「いないよ。私に飽きたんだ!」
「そんなわけないっしょ。どこに晶を振る人間がいるのさ」
 会話を聞いていた西園寺が、そこでチラリと久世を見た。
 久世は、振るも何も政略結婚の相手というだけだろ、と睨み返したが、西園寺は既に視線を逸らしていた。

「わかったわかった。今夜は俺も行く。タクローに聞いてやるから」
 西園寺が大声で二人に割って言うと、晶が言い返す。
「タクローなんてずっと来てないし、ミキのことを知るはずがない」
「知っている。なんなら連れてきてもくれる。俺が頼めばな」
 晶はその言葉で冷静さを取り戻した様子だった。
「……わかった」

 西園寺が晶たちから久世へと視線を移す。
「そういうことだから、今夜もあそこだ。つきあえ」
 久世はうんざりした顔をしてみせたが、言い返さなかった。


 その場にいた四人は、西園寺邸の離れで食事を済ませた後、クラブBootlegへと向かった。

 晶とマモルはまっすぐにお馴染みの個室へと向かったが、西園寺は別の個室に入って行った。
 久世は二週間も通っていて場馴れしていたので、個室には入らずにフロアで酒を飲むことにした。
 晶ともマモルとも話したくなかったからだ。

 15分ほど経って別の個室から出てきた西園寺が、久世に気づいて近寄ってくる。
「俺の赤ずきんちゃんは、喰われるのを待っているのかな?」
「誰なんだ」
「ミキか? タクローか?」
 久世は片眉を上げた。
「……ミキは知らん。部屋に何度か来ていたようだが、俺は女になんて興味はないからいちいち覚えてなどいない。晶が熱を上げているようだが、大した女じゃないだろ。気にするな」
「俺には関係ない」
「ほう。妻の愛人を気にしない度量があるのか」
 久世は西園寺を睨む。
「……タクローは……ああ、来た。早かったな。まあ、近くにいるから当然だが。おい! タクロー!」
 西園寺が久世の背後の方へ片手を上げて、大声でそう呼びかけた。その方向へ久世は振り向いた。

 40過ぎくらいのひょろひょろとした男性が、こちらへ向かって歩いてくる。
 おそらくタクローであろうその男性の周りだけが、半世紀も昔にタイムスリップしたかのようで、久世は後から知ったのだが、いわゆるヒッピーとでもいうようなスタイルだった。

「……生きてたか」
 タクローのその声は声量が小さいのに、爆音の中でもなぜか耳に届く不思議な声質だった。
「この通りな」
「まずは酒だ」
 そう言って西園寺とタクローの二人はバーカウンターへ向かった。
 久世は迷ったが、久しぶりな様子だったのと紹介をされなかったことから二人きりになりたいのだろうと考えて、そのまま動かないでいることにした。

 15分ほど経っただろうか。久世は踊るでもなく、一人で飲む酒もつまらなく、飽き飽きして帰りたくなっていた。
 通信も圏外でスマホも見れない。
 西園寺もいないことだし、このまま抜け出してもバレないのではないかと考えて、グラスをバーカウンターへ返しに行き、出入り口に向かおうとした。

「透!」
 ダメだった。久世は西園寺に呼び止められた。
「ミキって女を呼んだ。すぐに来るだろう」
「……そのタクローという人は?」
「帰った。忙しいやつなんだ」

 久世はどうやってそのタクローがミキを呼んだのかが気になったが、聞いても教えてくれないだろうと思って黙っていた。
「タクローの頼みを無視することはできない。タクローに歯向かうと、都内のクラブには出入りできなくなるからな」
 西園寺は自分で優しい男だと自己評価するだけあって、聞いてもいないのに親切にも説明してくれた。
 久世はミキよりも、そんな権力を持つ物珍しさにタクローの方に興味を引かれたが、二度と会うことはないだろう。

 フロアのバーで酒を飲んだ後に西園寺と久世が例の個室へ入ると、既にミキは来ていたようで、晶の側に見知らぬ女性が抱きつくようにして仲良く座っていた。二人は親しげな様子で会話をしている。

 晶は西園寺に気がつくと、上機嫌な様子で声をかけた。
「悠輔、借りを作った」
 それだけ言って、またミキと向かい合ってコソコソと話をしたり、二人でいちゃつき始めた。

「透のことも忘れるなよ」
 西園寺は囃し立てた。
 その声でミキの肩が微かに震えたが、誰もそれに気がつかなかった。

 ミキが晶に耳打ちをすると、二人は個室から出ようというのか同時に立ち上がって、まだドアから入ってすぐのところに立ったままの久世の方へ向かってきた。
 二人はベッタリとくっついて顔を寄せ合っているため、ミキの顔ははっきりとは見えない。

 久世は興味のない様子でただ二人の歩みを眺めていたが、ふとした瞬間にミキの仕草に見覚えがあるような気がして、目を凝らした。

 晶とミキが久世の横を通りかかった瞬間、久世はミキの腕を掴んだ。
 ミキは驚いて立ち止まる。
 ミキと寄り添っていた晶もその拍子で立ち止まり、久世がミキの腕を握っていることに気がつくと、久世を睨んで言った。

「透、ミキに惚れても無駄だ」
「そうではない」

 久世は晶にそう言ったと、ミキの方へ向き直った。
「すみません、あの、もしかして……」
 久世がそこまで言うと、ミキは女性とは思えないほどの力で久世の手を振り払って、いきなり駆け出した。

 しかしドアを通ろうとしてあと二歩のところで、西園寺がミキの前に立ち塞がった。
 驚いたミキは思わず立ち止まる。

「おい女。透がお前に用があるって言ってるんだ。逃げるなよ」
 西園寺は笑顔で言いながらも、ミキを威圧した。

 ミキは西園寺の横を通り抜けようとしたが、西園寺はそれを許さない。頑として動かず通れないようにしている。

「……どけよ! この半身不随野郎!」
 ミキはいきなりドスの利いた声で凄んだ。


 部屋の中は凍りついた。久世も、晶も驚いて固まった。

 西園寺はそれに片眉を上げただけでその場を動こうとしない。

「男と事故って政界へ進出できなくなった負け犬が、邪魔してんじゃねーよ!」
 ミキはそう言うと、西園寺を押しのけようと力いっぱい西園寺の上半身を押した。
 西園寺はびくともしない。

「どけよ! クソッ!」
 ミキが西園寺の身体を拳で殴る。
 西園寺は気にも留めない様子でいたが、突然ミキの左腕を片手で受け止め、握りしめるように力をかけた。ミキは苦痛に顔を歪ませる。

「見覚えがあるな」
 そう言って、西園寺はミキの腕を締め上げながら、顔をよく見ようと覗き込む。

「お前、……櫻田瑞稀か?」

 西園寺のその言葉に、再び場が凍りついた。

「ははは! おい、透、来てみろ」
 西園寺が久世の方を向いて、ミキの腕を締め上げたまま呼びかける。
 呼ばれた久世はゆっくりと近づいて、その顔を見た。

「櫻田さん……」

 ミキと呼ばれていたその女性は、久世のもう一人の婚約者、櫻田瑞稀だった。
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