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5.珍味
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目覚めた生田は起き上がっても居場所に心当たりがなく、未だ夢の中にいるのだろうかと考えた。
頭が重く、割れるように痛む。二日酔いに似ているようで違うような気がする。なにも思い出せず、さっぱり記憶がないばかりか、なぜか下着一枚である。
クラシカルなペンライトは煌々と灯っているものの、窓はなく朝か夜かもわからない。家具のようなものは一切見当たらず、いま自分の乗っているベッドだけのようだ。
目を彷徨わせていたところ、ベッドサイドテーブルに水の入ったグラスを見つけた。
ごくりと喉がなり、途端に乾きを意識するも、なぜかここにあるものを口に入れてはいけない気がして、ためらわれる。
しかし、だとして喉が渇いてたまらない。葛藤しながら手を伸ばしかけたところ、シャッというプラスチックのこすれる音が聞こえた。
「起きた?」
声のするほうへ目を向けると久世の姿があった。脱力するほどほっとする。
「これ、どういうこと?」
「……覚えてない、のか……」
久世のはっと驚いたような顔、そして安堵の声を聞いて今度は不安が襲う。
「僕、なんかした?」
「……帰ろう。もう二時だ」
「二時って夜の? 昼?」
「夜」
何曜日の?とも聞きたかったけど、なにやら不安でたまらず、聞くことができなかった。
久世がどこから持ってきてくれた服を着て、手渡されたミネラルウォーターを飲み干したあと、彼に続いてカーテンの向こう側へ出た。
むっと鼻につく甘い香り。誰もいないそこには、飲みかけのグラスと残り僅かのブランデーボトルがテーブルのうえに置かれてある。
あの革張りのソファで何かしたような気がする。
おぼろげだが、とてつもない陶酔感と満足感があったような……
「透、もしかしてここで僕たち……」
「思い出さないほうがいい。行くぞ」
珍しくも有無を言わさぬ彼に腕を引っ張られて、部屋の外へと連れ出されてしまった。
帰路の車内に至り、そこでも問いただしてみたが、「忘れたほうがいい」と言うばかりで答えてくれない。
しかし、しつこく何度も「自分が何をしたのかくらい把握しておきたい」と訴えると、ため息混じりに「どうしてもと言うならなら、今夜話す」と言ってくれた。
「なんで今じゃないんだ?」
「いや、あの、……まだ残ってるかもしれないから」
「なにが?」
「……えっと……あっ、酒が。そう、かなり飲んでたから、もう寝たほうがいい」
嘘が下手すぎる。
しかし、話すと決めてくれたのなら、ほどほどにしておいたほうがいいだろう。半日ほど我慢すればいいだけのことだ。
事実彼の言うとおり、何時間も海水浴をしたあとのように身体がだるい。
「わかった。じゃあ一日寝ておくことにするよ」
「ああ。八乙女さんから連絡があっても出るな」
それはどうしてだろうと考えながらも、車の振動が心地よく、いつの間にやら夢の中へと誘われてしまった。
そして目覚めるとまたもやベッドのうえだった。しかし今度は間違いなく自宅である。
ふらふらと寝室を出てみるも、久世は仕事のはずなので、当然のことながら姿はない。
万が一いたら、今夜と言わずにすぐ教えて欲しかった。
帰路のときはそこまで意識が回らなかったらしく今になって気づいたのだが、おそらく久世としたのであろう名残があるからだ。
何も思い出せなくとも、なんとなく自宅ではなくあのクラブの中でしたような気がして不安でならない。
冷や汗を流すべくシャワーを浴びたあと、バスルームを出てキッチンへ足を向けたとき、インターホンの音が響いた。
最近は何か注文した覚えはないが、と首を捻りつつ応対に向かうと、モニターには誰の姿もない。
まさかと玄関へ向かったところ声が聞こえてきて、まじかと気が抜けそうになった。
「雅紀くん。起きてる?」
どうやってホールの自動ドアをくぐったんだろう。
訝しみつつも、ここまで来られてしまってはドアを開けるしかない。
「寝起きなの? かわいいね」
「……おはようございます」
玄関の外に立っていたのはやはり八乙女だった。しかも寝起きのこちらとは違って、いつものごとく王侯貴族然とした出で立ちである。
「姫の起床に起きられないようじゃ騎士としては三流以下だな」
そして横には驚くことに、いやコンビのようにいつも一緒だから驚くことでもないが、西園寺の姿まであった。
「どういったご要件でしょうか?」
聞くと、西園寺はにやりと笑みを大きくした。見慣れたくもないのに脳裏に焼き付いてしまっているあの笑みだ。
「記憶をなくすとはな」
「まさかだね。二人きりのときに使ってみようかな」
「……強引なのは好みじゃないんだろ?」
「いつまでもなびいてくれないのも不愉快だからさ」
部屋へと二人を誘導しながら耳に入ってきた会話から推し量り、まさかと青ざめる。
もしかしたら、目の前で事を致したのかもしれない。
信じられないが、合点がいったというか、むらむらとしてたまらなくなり、場所を顧みず久世に飛びついたような気がしてきた。
「初めての場合、あっちを使うと記憶に影響があるとはな」
「てことは強いほうだったの? 道理で」
そうだ。思い出した。西園寺に促されたものを吸ったのが発端だ。
だとして責めるに責められない。一口で気づいたのに、意地で根本まで吸いきったのは自分のほうなのだから。
「西園寺さん、なぜ僕が覚えていないっておっしゃるんですか?」
「あ? 要件がどうのって聞いてきたからだ。雅紀のほうから明日来てくれって言ってきたのにおかしいだろ」
まったく覚えていない。というかいきなり名前で呼ぶなんて、やけに馴れ馴れしくないか?
失態以外にも何かあったのだろうかと考えつつ、リビングへ招き入れた二人をソファに座らせると、八乙女は「ああ」と、場違いなほどうっとりとした声をあげた。
「その水のしたたる感じ、なんだかたまらないな。悠輔、今持ってないの?」
「持ってない。持っていても今の志信に渡すかよ。また使わせたらさすがにぶっ飛ばされるからな」
「ええっ? 西園寺の跡継ぎともあろう者が久世の息子に怯えるの?」
八乙女の挑発的なせせら笑いに黙り込んだ西園寺を見て、おや?と思う。
居丈高で敵なしに見えるも、八乙女には弱いのか、それとも久世にだろうか。
「ご足労いただいて申し訳ありません。ですが、なぜお二方をお呼びしたのか覚えがありませんので、コーヒーを飲み終えたらお帰り願ってもよろしいでしょうか?」
「よろしいわけないだろ」
西園寺は煙草を取り出して、一本くわえた。
「ぼくは小腹が空いたな」
言いながら、八乙女は軽快に立ち上がりキッチンへと向かう。
家主の意向を聞かないばかりか、かちんとくるほど自由気ままなやつらだ。
「だとよ。何か振る舞ってやれよ」
西園寺はライターをひらひらさせながら言う。
「あ、吸うならベランダへ出ていただけませんか?」
久世は喫煙者ではないので、なるべく部屋にヤニの匂いをつけないよう気をつけているのである。
すると、西園寺は殴りつけるぞと言わんばかりに睨みつけてきた。
「……透の部屋では吸ってるのにか?」
確かに付き合い始めるまえは彼の部屋で吸っていた。灰皿を用意してくれていたからだが、恋人同士になったあとも特に指摘されたことはなく、自ら部屋の外に出るようにしただけだ。
しかし、いつも余裕ぶった態度を崩さない西園寺がこんな反応を見せるなんて、まさか嫉妬されたのだろうか。
いや。そんなはずはない。久世の元彼とは言え関係は四年前までのことであるし、八乙女が言うには嫉妬なんて感情からは程遠い人物らしいのだから。
とはいえ理由はわからずとも、敵うべくもない相手に多少のジャブを食らわせることができたようだ。
笑いを噛み殺しながらキッチンへ向かうと、ダイニングテーブルの前で立ちすくんでいる八乙女の姿があった。
「どうしたんですか?」
「いや、見たこともないものがたくさんあって……」
冷蔵庫のほうへ指を差しながら言う。
勝手に開けるなよと思いつつ、何があったんだっけと開けてみた。
昨夜久世のために作り置きしていた料理がガラス容器に詰め込まれている。肉じゃがに、かぼちゃの甘煮、たこときゅうりの酢の物と、じゃこと切り昆布の佃煮、それとぶり大根……確かにと思う。
御曹司を相手にこんな貧乏育ちの家庭料理みたいなものを出すわけにはいかない。
「何か召し上がりたいのであれば、材料を買ってきます」
「え……そこにあるのは食べちゃだめなやつ?」
「いえ、こんなもの食べさせるわけには……」
「食べてみたいんたけど」
「こんなのを?」
「見た目はいまいちたけど、雅紀くんが作った朝食美味しかったし……」
「あんなの誰でもつくれますよ」
「つくれないよ!」
八乙女はいきなり声を上げ、続いてシェフにつくらせても同じようにできなかったんだと熱弁し始めた。
シェフがあんな低レベルの家庭料理はつくらないだろうと思いつつ、久世も喜んで食べていることを思い出し、もしかしたら美食を食べ慣れている連中にとっては、珍奇ながらも新鮮な魅力があるのかもしれないと考えつく。
どんな理由にせよ、本人がいいと言うなら構うまい。処理するためにも食べさせてしまえ。
「不味くても小皿によそった分は食べてくださいよ。お金の問題ではなく、資源の問題です」
いいの?と驚く八乙女をよそにガラス容器を並べながら、突っ立ってるだけならと小皿や箸を出すように頼んだ。
八乙女は「じゃあさっそく」とおそるおそる取り皿にひとつまみ程度の分量を盛り始めた。
もてなし用でもなく、普段の料理にしても常備菜ばかりの残り物だ。さすがに一口でギブアップするだろうと思いきや、意外にも箸が止まらない様子を見せている。
「なんだこれ」
驚いていたところに、姿が見えないと思っていた西園寺が現れ、ぎょっとした顔で立ち止まった。
「食べますか? もうお昼ですし」
「……透にこんなもん食わせてんのか?」
「はい」
答えると、西園寺はコーヒーメイカーからポットを取り、「俺は減量中だから」と言いながら置いておいたカップに注いで椅子に腰掛けた。
「減量中なら透にも食べさせている専用のがありますよ」
何も食べない人間を前に食事をするには気が引ける。食べなくても構わない覚悟で、冷凍庫から取り出してレンジで温めたそれを、西園寺のまえに置いた。
久世は筋トレが趣味なので、時期によっては増量中についた脂肪を落とすため特別な減量飯をとる。それは、PFCと呼ばれる栄養バランスを計算したもので、味つけもしてあるが、見た目的には食欲をそそるとは言えない代物だ。
「……ぐろい」
「ネットで見つけたレシピなんですが、鶏むね肉の皮を剥いでお粥になる分量で炊いたものです。そこに刻んだブロッコリーとほうれん草を入れました」
「味あるのかよ」
「ご賞味あれ」
スプーンも置いてやると、西園寺は顔をしかめながらも手に取って、一口分すくいあげた。
「ふん」
美味いのか不味いのか、食べても何も言わないが、ぶすっとしながらもテンポよく口に運び、ついには完食してくれた。
「お腹いっぱいだな」
八乙女の声でふと気がつくと、ガラス容器のおかずのほうも中身がほとんどなくなっていた。
黙々としていたため気づかなかったが、思った以上の量を食べてくれていたらしい。
「口に合いましたか?」
「美味というより珍味に近かったけど、癖になる感じ。白米がよかった」
「地元の米ですから」
「へえ。いいね。また食べたい」
「じゃあ、今度は味噌汁もつけてフルコースで」
「本当? 楽しみだな」
そのとき「煙草吸ってくる」と言って西園寺はいきなり立ち上がり、再びベランダへと消えていった。
「あの悠輔が珍しくもお気に召したみたいだね」
さすが旧くからの友人だけあって、態度だけで読めるのだろうか。
「食事ですか?」
感心していると、八乙女はいやいやとにやけた顔で言う。
「雅紀くんのことだよ」
「はあ?」
どこを見たらそう判断できるというのか。
「セックスの相手は選り好みしないくせに、付き合う相手は選ぶ男なんだよ? さすが雅紀くんだね」
まさか冗談だろうと思いつつも、平凡で取り柄のない自分に対して、久世だけでなく八乙女も好意を向けてくれている。もしや自分には御曹司連中を吸い寄せる何かがあるのだろうか。
だとしても愛する男だけで十分なのだから、嬉しくもなんともない。
だからと言って二人がかりで通ってくれるなよと願いながら、生田は後片付けを始めた。
頭が重く、割れるように痛む。二日酔いに似ているようで違うような気がする。なにも思い出せず、さっぱり記憶がないばかりか、なぜか下着一枚である。
クラシカルなペンライトは煌々と灯っているものの、窓はなく朝か夜かもわからない。家具のようなものは一切見当たらず、いま自分の乗っているベッドだけのようだ。
目を彷徨わせていたところ、ベッドサイドテーブルに水の入ったグラスを見つけた。
ごくりと喉がなり、途端に乾きを意識するも、なぜかここにあるものを口に入れてはいけない気がして、ためらわれる。
しかし、だとして喉が渇いてたまらない。葛藤しながら手を伸ばしかけたところ、シャッというプラスチックのこすれる音が聞こえた。
「起きた?」
声のするほうへ目を向けると久世の姿があった。脱力するほどほっとする。
「これ、どういうこと?」
「……覚えてない、のか……」
久世のはっと驚いたような顔、そして安堵の声を聞いて今度は不安が襲う。
「僕、なんかした?」
「……帰ろう。もう二時だ」
「二時って夜の? 昼?」
「夜」
何曜日の?とも聞きたかったけど、なにやら不安でたまらず、聞くことができなかった。
久世がどこから持ってきてくれた服を着て、手渡されたミネラルウォーターを飲み干したあと、彼に続いてカーテンの向こう側へ出た。
むっと鼻につく甘い香り。誰もいないそこには、飲みかけのグラスと残り僅かのブランデーボトルがテーブルのうえに置かれてある。
あの革張りのソファで何かしたような気がする。
おぼろげだが、とてつもない陶酔感と満足感があったような……
「透、もしかしてここで僕たち……」
「思い出さないほうがいい。行くぞ」
珍しくも有無を言わさぬ彼に腕を引っ張られて、部屋の外へと連れ出されてしまった。
帰路の車内に至り、そこでも問いただしてみたが、「忘れたほうがいい」と言うばかりで答えてくれない。
しかし、しつこく何度も「自分が何をしたのかくらい把握しておきたい」と訴えると、ため息混じりに「どうしてもと言うならなら、今夜話す」と言ってくれた。
「なんで今じゃないんだ?」
「いや、あの、……まだ残ってるかもしれないから」
「なにが?」
「……えっと……あっ、酒が。そう、かなり飲んでたから、もう寝たほうがいい」
嘘が下手すぎる。
しかし、話すと決めてくれたのなら、ほどほどにしておいたほうがいいだろう。半日ほど我慢すればいいだけのことだ。
事実彼の言うとおり、何時間も海水浴をしたあとのように身体がだるい。
「わかった。じゃあ一日寝ておくことにするよ」
「ああ。八乙女さんから連絡があっても出るな」
それはどうしてだろうと考えながらも、車の振動が心地よく、いつの間にやら夢の中へと誘われてしまった。
そして目覚めるとまたもやベッドのうえだった。しかし今度は間違いなく自宅である。
ふらふらと寝室を出てみるも、久世は仕事のはずなので、当然のことながら姿はない。
万が一いたら、今夜と言わずにすぐ教えて欲しかった。
帰路のときはそこまで意識が回らなかったらしく今になって気づいたのだが、おそらく久世としたのであろう名残があるからだ。
何も思い出せなくとも、なんとなく自宅ではなくあのクラブの中でしたような気がして不安でならない。
冷や汗を流すべくシャワーを浴びたあと、バスルームを出てキッチンへ足を向けたとき、インターホンの音が響いた。
最近は何か注文した覚えはないが、と首を捻りつつ応対に向かうと、モニターには誰の姿もない。
まさかと玄関へ向かったところ声が聞こえてきて、まじかと気が抜けそうになった。
「雅紀くん。起きてる?」
どうやってホールの自動ドアをくぐったんだろう。
訝しみつつも、ここまで来られてしまってはドアを開けるしかない。
「寝起きなの? かわいいね」
「……おはようございます」
玄関の外に立っていたのはやはり八乙女だった。しかも寝起きのこちらとは違って、いつものごとく王侯貴族然とした出で立ちである。
「姫の起床に起きられないようじゃ騎士としては三流以下だな」
そして横には驚くことに、いやコンビのようにいつも一緒だから驚くことでもないが、西園寺の姿まであった。
「どういったご要件でしょうか?」
聞くと、西園寺はにやりと笑みを大きくした。見慣れたくもないのに脳裏に焼き付いてしまっているあの笑みだ。
「記憶をなくすとはな」
「まさかだね。二人きりのときに使ってみようかな」
「……強引なのは好みじゃないんだろ?」
「いつまでもなびいてくれないのも不愉快だからさ」
部屋へと二人を誘導しながら耳に入ってきた会話から推し量り、まさかと青ざめる。
もしかしたら、目の前で事を致したのかもしれない。
信じられないが、合点がいったというか、むらむらとしてたまらなくなり、場所を顧みず久世に飛びついたような気がしてきた。
「初めての場合、あっちを使うと記憶に影響があるとはな」
「てことは強いほうだったの? 道理で」
そうだ。思い出した。西園寺に促されたものを吸ったのが発端だ。
だとして責めるに責められない。一口で気づいたのに、意地で根本まで吸いきったのは自分のほうなのだから。
「西園寺さん、なぜ僕が覚えていないっておっしゃるんですか?」
「あ? 要件がどうのって聞いてきたからだ。雅紀のほうから明日来てくれって言ってきたのにおかしいだろ」
まったく覚えていない。というかいきなり名前で呼ぶなんて、やけに馴れ馴れしくないか?
失態以外にも何かあったのだろうかと考えつつ、リビングへ招き入れた二人をソファに座らせると、八乙女は「ああ」と、場違いなほどうっとりとした声をあげた。
「その水のしたたる感じ、なんだかたまらないな。悠輔、今持ってないの?」
「持ってない。持っていても今の志信に渡すかよ。また使わせたらさすがにぶっ飛ばされるからな」
「ええっ? 西園寺の跡継ぎともあろう者が久世の息子に怯えるの?」
八乙女の挑発的なせせら笑いに黙り込んだ西園寺を見て、おや?と思う。
居丈高で敵なしに見えるも、八乙女には弱いのか、それとも久世にだろうか。
「ご足労いただいて申し訳ありません。ですが、なぜお二方をお呼びしたのか覚えがありませんので、コーヒーを飲み終えたらお帰り願ってもよろしいでしょうか?」
「よろしいわけないだろ」
西園寺は煙草を取り出して、一本くわえた。
「ぼくは小腹が空いたな」
言いながら、八乙女は軽快に立ち上がりキッチンへと向かう。
家主の意向を聞かないばかりか、かちんとくるほど自由気ままなやつらだ。
「だとよ。何か振る舞ってやれよ」
西園寺はライターをひらひらさせながら言う。
「あ、吸うならベランダへ出ていただけませんか?」
久世は喫煙者ではないので、なるべく部屋にヤニの匂いをつけないよう気をつけているのである。
すると、西園寺は殴りつけるぞと言わんばかりに睨みつけてきた。
「……透の部屋では吸ってるのにか?」
確かに付き合い始めるまえは彼の部屋で吸っていた。灰皿を用意してくれていたからだが、恋人同士になったあとも特に指摘されたことはなく、自ら部屋の外に出るようにしただけだ。
しかし、いつも余裕ぶった態度を崩さない西園寺がこんな反応を見せるなんて、まさか嫉妬されたのだろうか。
いや。そんなはずはない。久世の元彼とは言え関係は四年前までのことであるし、八乙女が言うには嫉妬なんて感情からは程遠い人物らしいのだから。
とはいえ理由はわからずとも、敵うべくもない相手に多少のジャブを食らわせることができたようだ。
笑いを噛み殺しながらキッチンへ向かうと、ダイニングテーブルの前で立ちすくんでいる八乙女の姿があった。
「どうしたんですか?」
「いや、見たこともないものがたくさんあって……」
冷蔵庫のほうへ指を差しながら言う。
勝手に開けるなよと思いつつ、何があったんだっけと開けてみた。
昨夜久世のために作り置きしていた料理がガラス容器に詰め込まれている。肉じゃがに、かぼちゃの甘煮、たこときゅうりの酢の物と、じゃこと切り昆布の佃煮、それとぶり大根……確かにと思う。
御曹司を相手にこんな貧乏育ちの家庭料理みたいなものを出すわけにはいかない。
「何か召し上がりたいのであれば、材料を買ってきます」
「え……そこにあるのは食べちゃだめなやつ?」
「いえ、こんなもの食べさせるわけには……」
「食べてみたいんたけど」
「こんなのを?」
「見た目はいまいちたけど、雅紀くんが作った朝食美味しかったし……」
「あんなの誰でもつくれますよ」
「つくれないよ!」
八乙女はいきなり声を上げ、続いてシェフにつくらせても同じようにできなかったんだと熱弁し始めた。
シェフがあんな低レベルの家庭料理はつくらないだろうと思いつつ、久世も喜んで食べていることを思い出し、もしかしたら美食を食べ慣れている連中にとっては、珍奇ながらも新鮮な魅力があるのかもしれないと考えつく。
どんな理由にせよ、本人がいいと言うなら構うまい。処理するためにも食べさせてしまえ。
「不味くても小皿によそった分は食べてくださいよ。お金の問題ではなく、資源の問題です」
いいの?と驚く八乙女をよそにガラス容器を並べながら、突っ立ってるだけならと小皿や箸を出すように頼んだ。
八乙女は「じゃあさっそく」とおそるおそる取り皿にひとつまみ程度の分量を盛り始めた。
もてなし用でもなく、普段の料理にしても常備菜ばかりの残り物だ。さすがに一口でギブアップするだろうと思いきや、意外にも箸が止まらない様子を見せている。
「なんだこれ」
驚いていたところに、姿が見えないと思っていた西園寺が現れ、ぎょっとした顔で立ち止まった。
「食べますか? もうお昼ですし」
「……透にこんなもん食わせてんのか?」
「はい」
答えると、西園寺はコーヒーメイカーからポットを取り、「俺は減量中だから」と言いながら置いておいたカップに注いで椅子に腰掛けた。
「減量中なら透にも食べさせている専用のがありますよ」
何も食べない人間を前に食事をするには気が引ける。食べなくても構わない覚悟で、冷凍庫から取り出してレンジで温めたそれを、西園寺のまえに置いた。
久世は筋トレが趣味なので、時期によっては増量中についた脂肪を落とすため特別な減量飯をとる。それは、PFCと呼ばれる栄養バランスを計算したもので、味つけもしてあるが、見た目的には食欲をそそるとは言えない代物だ。
「……ぐろい」
「ネットで見つけたレシピなんですが、鶏むね肉の皮を剥いでお粥になる分量で炊いたものです。そこに刻んだブロッコリーとほうれん草を入れました」
「味あるのかよ」
「ご賞味あれ」
スプーンも置いてやると、西園寺は顔をしかめながらも手に取って、一口分すくいあげた。
「ふん」
美味いのか不味いのか、食べても何も言わないが、ぶすっとしながらもテンポよく口に運び、ついには完食してくれた。
「お腹いっぱいだな」
八乙女の声でふと気がつくと、ガラス容器のおかずのほうも中身がほとんどなくなっていた。
黙々としていたため気づかなかったが、思った以上の量を食べてくれていたらしい。
「口に合いましたか?」
「美味というより珍味に近かったけど、癖になる感じ。白米がよかった」
「地元の米ですから」
「へえ。いいね。また食べたい」
「じゃあ、今度は味噌汁もつけてフルコースで」
「本当? 楽しみだな」
そのとき「煙草吸ってくる」と言って西園寺はいきなり立ち上がり、再びベランダへと消えていった。
「あの悠輔が珍しくもお気に召したみたいだね」
さすが旧くからの友人だけあって、態度だけで読めるのだろうか。
「食事ですか?」
感心していると、八乙女はいやいやとにやけた顔で言う。
「雅紀くんのことだよ」
「はあ?」
どこを見たらそう判断できるというのか。
「セックスの相手は選り好みしないくせに、付き合う相手は選ぶ男なんだよ? さすが雅紀くんだね」
まさか冗談だろうと思いつつも、平凡で取り柄のない自分に対して、久世だけでなく八乙女も好意を向けてくれている。もしや自分には御曹司連中を吸い寄せる何かがあるのだろうか。
だとしても愛する男だけで十分なのだから、嬉しくもなんともない。
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