その溺愛は行き場をさまよう

七天八狂

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1.貧乏育ちの平凡庶民

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 がさりと買い物袋を鳴らしながら半歩横にずれ、エコバッグを忘れてきたことをまた思い出す。
 五円をたかがとは言いたくない。改めて悔みながら、ぶつからないよう人の波に乗るべく速度を合わせた。
 しかしその直後に、今度は袋があらぬ方向へ引っ張られてしまう。

「すみません」
 
 あっと思う間もなく女性の声が聞こえて、またやってしまったと気落ちする。
 この街に来て半年も経ったというのに、未だ旅行者の気分が抜けきらないらしい。
 
「申し訳ありません」
 
 かすかな呵責を覚えながら、生田いくた雅紀まさきは振り返った。
 
「大丈夫ですか?」
 すると、若い女性が片膝をついている姿が目に飛び込み、そんなに衝撃があったのだろうかと、慌てて手を差し出した。
「……すみません」
 はっとした顔で厚意を受け取ったその手には、ほっそりとした白い指の五本すべてに絆創膏が貼られている。
「あっ」
 じろじろと見ていたからか、彼女は赤らめた顔で手を引っ込めた。
「……まだ上京して三カ月で、その、一人暮らしも初めてで……」
「包丁を使うときは、添える手を猫のように丸めないと危険ですよ」
 
 気恥ずかしげな態度と、上京したてだという話からなんとなくの親近感を覚えて、お節介にもアドバイスなんぞをしてしまった。自分と同じように仕事帰りと見て取れるスーツ姿であることも影響したのかもしれない。

 彼女が、猫ですか?と微笑みながら、切れ長の目をまさに猫のように細めたのを見て、どきりとする。 
「あ、えっと、こんなふうに手を丸くして……」
 気恥ずかしくなり、取り繕うために実演なんぞをしてしまう。
「じゃあ残りが短くなってきたらどうするんですか?」
「その場合は……」
 
 おそらく料理をし始めたばかりなんだろう。話し始めたら熱がはいってしまって、先輩風を吹かせるかのごとく、帰宅するサラリーマンの海の中、突っ立ったまま五分もそんなことをやっていた。

「ありがとうございました。あの、すごく勉強になりました」
「いや、すみません。こんな往来で失礼いたしました」
 いえ、と言いながら彼女は顔を赤くしてハンドバッグをごそごそとやりだし、まさかと見ていると、そこから名刺を取り出した。
「あの……もしよろしければ、またいつか、ご教授願えませんか?」
「あ、僕は──」
 両手に大荷物を抱えているせいで、名刺ケースを取り出すのに手間取ってしまう。
「あ、そちらにご連絡くだされば……LINEでも……その」
 彼女は顔を真っ赤にしながら名刺を指で差した。そこには手書きで携帯電話の番号が書かれている。
「では失礼いたします」
 最敬礼ほどの角度で頭を下げて、慌てた様子で駆けていくのを見て、ぽかんとしてしまった。
 
 初対面でこのように誘われても驚くことではない。何十回、いや何百回と経験してきたから、慣れたものと言える。
 驚いたのは、とても自ら声をかけそうにないタイプの女性からという点だ。
 まるで彼のようだなと頭によぎり、今夜はいつも以上に急がなければならないことも思い出して、慌てて進路を変えた。

 以前の自分であれば女性を追いかけていたかもしれない。追いかけて連絡先を交換し、もし誘われたら食事に付き合っていたかもしれない。
 余暇は友人と遊びほうけることに専念し、初対面だろうと誘われるがまま、食事どころか快楽に身を任せることも日常茶飯事だった。
 しかし今は違う。
 帰宅を待ってくれている人がいて、その相手のため家事に意欲を燃やすだなんて、まるで真逆とも言える日々を送っている。

 歩みを早め、その恋人の待つマンションへと到着した。
 まるで給料にそぐわないそこのドアをくぐり、締まり切る寸前のエレベーターに滑り込んで、数回見かけた覚えのある住民に頭をさげた。
 はばかりもせずじろじろと向けられる視線を感じながら、居心地の悪さに身体を強張らせる。
 量販店のスーツを身にまとい、庶民丸出しの振る舞いをする自分に対する「なんでこんなやつがここに?」という視線はいつになっても慣れない。
 来客にしては頻度も多いし、いつも買い物袋をがさがさとやるだなんて場違いだとでも言いたいのだろう。それは自分でもわかっている。
 恋人との新幹線の距離が歯がゆくなり上京を決意したとき、想定以上の金額は負担するからとしつこく説得させられなければ、絶対に選ばないレベルだ。
 6畳二間のアパートで育った身にとってここは、異世界であることなど重々承知している。

「おかえり」

 玄関を開けると、見計らっていたのか、彼──久世くぜとおるの微笑が飛び込んだ。
 誰もが振り返るどころか足を止めてしまうほどの美貌と、平均身長でも見上げるレベルの上背に加えて、鍛えて絞ったスマートな体格。
 11時間前に会ったばかりだというのに見惚れるほど美しく、一目で一日の疲れがすべて吹き飛んでしまう。

「ただいま」
 
 靴を脱ぎ、彼に近づくと抱き寄せられキスを受ける。
 抱きしめ返した拍子に買い物袋を落として、がさっという音とともにぐしゃっと聞こえた。
 卵を買ったんだった……と青ざめるも、彼の体温とほんのり香るイヴ・サンローランに頭をふやかされ、卵なんてどうでもよくなる。

「ん……」
 帰宅してすぐそんなキスをするのかと驚かされながら、背中から腕、そして手元へと彼の指が這い、じわりと期待で疼いてしまう──が、ちょっと待て。
「……そんなに寂しかった?」
 こんな場所でいきなりかよ、とさすがに呆れて無理に離れると、じっと物欲しげな目がこちらを見つめていた。
「一日ずっと……」
 
 消え入りそうな声で言った彼から、再び口づけられる。今度は廊下の壁に背中を押し付けられ、逃げ出せないようホールドされてしまう。
 二人の休日が重なるのは月に片手もあればいいという頻度のうえに、普段は彼のほうの帰りが遅い。
 まだ半年じゃ蜜月と言える時期だし、非社交的な彼は一人引きこもるのを好むため、帰宅するころには寂しくなってくるらしい。
 
 お腹はぐうぐう鳴っているし、慣れない仕事でへとへとなのだが、あんな熱っぽく望まれたら後回しにしてあげたくなる。いや、自分のほうこそ待ち望んでいたのかもしれない。
 こんなふうに愛を感じたいからこそ、住み慣れた土地を離れて彼の元へとやってきたのだから。
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