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 生田がリビングの隣の部屋で着替えをしているとき、玄関の方から物音が聞こえた。
 久世がそちらに目を向けると、ドアを開けて若い女性が入ってくるところだった。

 こたつに座っている久世の存在に気が付かないまま、女性はこちらへ歩いてきた。リビングまで来てようやく気が付いたようで、驚いた表情を浮かべて身体を強張らせた。

「あ、すみません。あれ? 雅紀は……」

 聞かれたので、久世はおずおずと隣の部屋を指さした。

 女性は遠慮がちにそちらの方へ歩み寄り、襖を開けながら声をかけた。
「雅紀、入るよ」

「えっ!」

 襖は閉じられ声が少し小さくなった。

「みどり? なんで?」

 内容ははっきりと聞こえている。

「車借りたじゃん。今日午後使うから返しに来てって言ったの雅紀でしょ。忘れてたの?」

「あ、そうだ。ごめん。ありがとう」

「これ車のキー、ここに置いておくよ」

「ありがとう」

「どうすんの? 今夜の約束は」

「約束?」

「昨日言ってたでしょ、映画行こうって」

「あーー……行ってた……ね」

「なにそれ? それも忘れたの?」

「ごめん。今日はちょっと……なしで……」

「えーー! それなら早く言ってよ。友達に誘われたのに断っちゃったじゃん」

「ごめん……」

 ここでいきなり小声になった。それでも丸聞こえだ。
「……あの人と一緒なの?」

「え? 誰? あっ! そう。そうなんだ。友達がわざわざ来てくれて」

「そう。めっちゃイケメン」

「えっ、うん」

「紹介してよ」

「いやーー……」

 その時いきなり襖が開いたので、聞き耳を立てていた久世は慌てて素知らぬ振りをした。

 女性が部屋から出てきて久世の真正面へ回り込むと、こたつの前の座布団に腰を下ろした。

「こんちには。木ノ瀬みどりと言います」
 微笑を浮かべてそう言った。

「ちょっと、みどり!」
 生田も続いて部屋へ来てこたつに座る。二人とは垂直にあたる場所である。

「……久世透です」
 久世はチラッと目を合わせるとすぐに下を向いた。

「久世さんはどちらからいらっしゃったんですか?」

「東京です」

「へー。あ! あの幼馴染って人?」
 みどりが生田に聞いた。

「いや、違う。てかみどり、これから病院に行くから」

「あ、ごめん。わかった。ていうか送ってよ」

「そうだね、ごめん。すぐ準備する」

 そう言うと生田は慌てて隣の部屋へと戻った。

 みどりは久世の方へ向き直り、にっこりと大きな笑顔を向けた。
 久世はチラチラと生田とみどりのやり取りを見ていたが、みどりと目が合うと慌てて逸らした。

 みどりは立ち上がって、探し物をするかのように部屋の中を見渡し始めた。

「ねー、雅紀ー、私のリップ知らない? あとハンカチも」

「知らない! そこらへんにあるんじゃない?」
 隣の部屋から生田が大声で答えた。

 膝をついてあちこちと探すみどりを見かねた久世は、おもむろに立ち上がった。
 テレビ台の隣にあるローチェストの上に、先程探し出したそれらを置いておいたのだ。

 それを手に取ってみどりの方へ差し出す。ここまで無言である。

「あっ、これです。ありがとうございます」

 みどりは久世の手からそれらを受け取って笑顔を向けた。

「……落ちていました」
 それだけ言うと、久世は元の場所へ戻った。

「おまたせ。行こう! あ、あった?」

「久世さんが見つけてくれたみたい」

 生田はその言葉を聞いて、みどりから久世へ視線を向けた。
 久世は俯いてスマホを操作している振りをしている。

「透、ありがとう。それじゃあ、行こう。透はどうする?」

「……行く」

 三人は部屋を出た。




 車は年季の入った黒のN-BOXだった。

 当然のようにみどりが助手席に座ったのを、運転席の生田は困ったような表情で迎えた。

 病院への通り道にみどりの自宅があるらしい。
 車がなければどこへも行けないような生田の実家付近から、様々な商業施設が並んでいる市街地へと入っていく。

 みどりは久世に気を使って話題を振った。

「私も車が欲しいんですけど、職場は近いし、街中だと不便はないから未だに持ってないんです。いつも雅紀に迎えに来てもらってて。昨夜も……」

「着いたよ」

 生田がみどりの言葉にかぶせて言った。

「ありがとう。じゃ、また連絡して」
 そう言ってみどりは降車するとマンションへと帰って行った。

 生田は無言のまま車を発進させた。

「これ、母親の車なんだ。僕のは向こうにあるから、こっちに来た時だけ使わせてもらってる」

「軽なのに広いんだな」

「……そうだね」

 そこで会話が止まると、すぐに病院が見えてきた。

 生田は駐車場に車を入れて、トランクから母親に渡すのであろう荷物を下ろした。

「今日はこれを渡すだけですぐに戻って来るから」

「急がなくてもいい。これ読んでるから」
 久世は手に持っている小説をひらひらと動かして見せる。

 生田はそれに笑顔で応えたあと、病院の入口へと消えていった。


 久世は生田の姿が見えなくなってから大きなため息をついた。

 みどりが現れてから久世は嫉妬に駆られ、それを表に出さないよう平静を保ち続けるために気を張り過ぎて疲れていた。

 あの人が生田の彼女なのかとそう考えて、みどりのことが気になるけど見たくないという相反する感情に苛まれていた。

 みどりはスタイル抜群の女優のような整った顔立ちで、服のセンスも良く、男性ならば思わず振り返ってしまうであろう美女だった。

 掃除をしていて見つけた小物を手渡した時、同時に見つけた開封済みの箱が頭にチラついた。
 この人と生田が、とそう考えると頭の中で次々と妄想が進んで止まらなかった。
 生田があの肩を抱き、髪に触れ、腰に手を回し、唇に近づくのかと思うと壁を殴りたくなった。

 昨夜一緒にいた女性はみどりなのだろう。彼女の言葉や車を返しに来たことからも間違いない。
 どれくらいの付き合いなのか、結婚するのか、こちらへ戻って彼女と家庭を持つのか、子供も作るのだろうか、今時は2人くらいだろうか、1人もあり得る。マイホームも建てるかもしれない。お母さんが完治したら孫と息子夫婦と同居になるのだろうか……。

 久世は、生田とみどりの未来予想図を描くのに夢中で、生田が戻って来たことに気が付かなかった。

「おーい、透くーん」

 その声で我に返ると、生田が運転席からこちらへ体を向けて手を振っている姿が目に入った。

「こっちに乗りなよ」

 生田が助手席を指さしたので、久世はそちらへ移動した。

「薬を変えたんだ。強い薬だから心配だったんだけど、効いているみたいで元気だった」
 生田は車を発進させながら笑顔でそう言った。

「良かった。それで治りそうなのか?」

「うーん、どうだろう? 退院の話は出ていないけど、薬のお影で状態はいいみたいだから、思ったよりも早いかもしれない」
 赤信号で停まったとき、生田は久世の方を向いて笑顔になった。

 その笑顔。
 生田のその笑顔が大好きなのだ。
 その笑顔が曇るところは見たくない。
 久世は、生田の母の容態が軽快に向かっていることに心の底から安堵した。
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