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落ちるのは突然のこと

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 そこは閑静な住宅街で、豪邸ばかりが立ち並ぶいかにも地価が高そうな場所にあった。塀の外から家が見えないほど敷地は広く、屋敷もかなりの大きさだった。
 門をくぐってしばらく走ったあとようやく玄関の前へ到着した、と思いきや車はそこを通り過ぎて裏手の方へ向かった。

「離れに部屋がある」
 久世が説明した。

 生田は圧倒され、何も言えなかった。

 離れの中に入ってもその驚きは収まらない。それだけでも邸宅と言えるほどの大きさなのに、物がほとんどなく、和風の外観とは裏腹にスタイリッシュで洗練された空間だった。

 だだっ広いリビングの中にあるものと言えば、ローテーブルと大きなソファが二脚、バカでかいオーディオセットとバーカウンターくらいだった。壁一面が収納のようなので、その中には色々なものがあるかもしれないが、壁は真っ黒で床は大理石。殺風景ながらも洒落ている。

 久世はジャケットを脱いでハンガーに掛けたあと、キョロキョロと部屋を見渡している生田のところへ行くと、脱ごうとしない生田を見かねてジャケットを脱がせた。

「凄い……」

 生田が思わずそう漏らすと、久世の顔はほころんだ。

「何か飲むか? それともシャワー浴びるか、もう寝るか」

「部屋のセンスが良すぎて目が冴えた。かっこいいね」

 久世はそれを聞いて再び微笑むと、思い立ったようにカクテルを作り始めた。

「雅紀と飲んだ店のカクテルが美味かったから、少し興味が湧いた」
 そう言って、生田にグラスを差し出した。

「ありがとう」
 生田は口をつけると目を丸くして、一気に飲み干した。

「美味っ! あの店のよりずっと美味しい」

 そう言った生田の晴れの日のような笑顔に、久世は顔を赤くした。

「最高だね。こんな部屋でこんな美味しいカクテルを飲むなんて、なんと贅沢な! あー、帰りたくない」
 言いながら生田はソファに腰を下ろした。


 久世は二杯目のカクテルと灰皿を持って生田の横に座る。

 差し出されたカクテルを口につけた生田は、先程とはまた違った美味しさに笑みを大きくした。

「透、天才! 才能あるよ」
 そう言った生田はシャツの胸ポケットから煙草を取り出すと辺りを探すようにキョロキョロとした。サイドテーブルの上に置かれた灰皿を見て、久世の配慮に感動した。

 久世にとってカクテル作りなんて大したことはないのだろう。自分もある程度なら何でもこなすことはできるが、久世はそのレベルが違う。
 難関大学で院にまで進み、大企業から声がかかっている男なのだ。それに加えて人のためにあれこれ先回りして世話を焼く。とてもではないが真似ができない。

 しかし、ただでさえ忙しい身でありながら、こんな細かい所にまで気を配っていて疲れないのだろうか。
 これだけの男なのだから、気立ての良い彼女か誰かがいるのかもしれない。そのひとに甘えるなり癒されるなりしてストレスを発散しているのだろうか。

 生田はそう一人で思いを巡らせて微笑を浮かべたが、久世に特別な人がいること、そして自分の知らない面をその彼女にだけは見せているのだと考えると、軽い嫉妬のようなものを覚えた。

 好奇心に駆られた生田は、シャワーを浴びたいからと言って、バスルームを借りることにした。

 バスタオルを受け取ってシャワールームに入る。

 女性用のアメニティか化粧品か、何か痕跡があるのではないかと見渡したが、こちらもほとんど物がなくスッキリと片付けられていて、人が住んでいる気配もないほどだった。

 生田はシャワーを浴びたあと洗面にある戸棚を開けてみたが、申し訳程度に男性用の化粧品があるだけだった。これまた高そうだなと手に取ってみる。

 その時、久世がノックをして、顔を背けながら服を差し出した。

「新品ではないが、俺のでよければ」

「ありがとう」
 生田は受け取ってそれを着た。

 Tシャツとスポーツ用のジャージパンツだ。サイズは少し大きいが、着れないこともない。かすかに久世の香水の香りがした。

 そのとき生田は混乱した。
 久世の家で久世の匂いのする衣服に包まれていることを意識した途端、なぜか急に鼓動が速くなったのだ。

 まるで別世界のようなこの家に来たことで現実感が薄くなったのか、いつもとは違う自分をそう説明づけようとしたが、そうではなくいつの間にか久世のことを、これまでとは違った形で意識していることに気がついた。

 一緒にいるのに視界から消えると探してしまう。久世が何を考えているのか案じてしまう。自分のことをどう見ているのか不安になる。
 久世と出会ってから、早苗のことをほとんど思い出さなくなっていることにも思い至った。せっかく東京へ来ているのに顔も出そうともしていない。


 

 立ったまま身動きをしない生田を案じた久世は、水の入ったグラスを持って近づいた。

「大丈夫か? シャワーで酔いが回ったのか?」

 生田よりも背の高い久世が、身を屈めて生田の顔を覗き込んでいる。

 久世が近づくと、自分の着ている服の香りと混じり合って、さらに久世の匂いが強くなった。
 セットが少し崩れて顔に垂れている前髪が妙に艶かしく見える。その下にはあの切れ長の目が自分を案じる眼差しを向けている。俊介に向けていたあの睨みつけるような視線を思い出すと、それだけで心臓が脈打った。

 自分はいったいどうしたというのか。久世の言う通り、シャワーで酔いが回って頭がおかしくなったとでもいうのか。

 生田は、身体が熱くなるのを自覚した。

 これでは欲情してしまっているみたいではないか。

 今、目の前にいるのが互いに了承し合って連れ込んだ女性であったのなら、迷うことなくベッドへ連れて行っただろう、そんな興奮がたぎった。

 いや、その場合は最初からそのつもりで一緒にいた相手なのだ。久世はただ友人として一緒にいるだけなのに、なぜこんな気持ちになってしまうのか。

 生田は混乱と興奮で倒れそうだった。


 声をかけても反応を見せず、みるみる顔が赤くなり立っているのも辛そうな生田を見て、久世は熱でも出したのかと心配になった。

「雅紀、具合いが悪いのではないか」

 久世は生田を支えるようにして、ベッドルームへと誘導する。

「えっ、いや、だいじょうぶ」

 生田はいきなり久世に触れられてパニックに陥った。

 ベッドルームはこれまた物がなくこざっぱりとしていて、深い青の壁紙と、ヴァイオレットの絨毯が隠し部屋のような雰囲気を出している。歩くと沈み込むような絨毯を進むと、ベッドはキングサイズだろうか、部屋の真ん中に堂々と置かれていて迫力がある。

 久世の手によってベッドに寝かされた生田は、そのベッドの柔らかさと肌触りのいいシーツにさらに煽り立てられた。洒落た配置の薄暗い照明も今の生田にとっては逆効果となり、そのまま久世を押し倒したい欲望に駆られて気が狂いそうだった。

 なぜこんなことを久世に対して覚えるのか。

 生田を案じて額に手を当てたり、水や体温計を持ってきたりと慌てている久世を、生田は目で追いながら冷静になろうと努めた。

「透、ごめん。大丈夫だから」
 生田は起きあがる。

「いや、熱がある。身体が熱いぞ」

「シャワー浴びたから」

「顔も赤かった」

「それは透のせいで……」

 生田が言い淀んだと同時に久世も固まった。

 久世の顔は悲痛の表情と言っていいような形に歪み、視線を逸らして俯いた。

「……新幹線に間に合う時間に起こすから」

 久世はそれだけ言うと寝室を出ていった。


 数秒迷ったが、生田は意を決してリビングへ戻った。

「ごめん、違うんだ。透が悪いわけじゃない。僕が悪い」 

 久世はシャワーを浴びようとしていたのか、シャツを脱いでいるところだった。
 生田が来るとちらりと一瞥しただけですぐに視線を逸らせた。

「寝た方がいい」

「違うんだ、その、透も悪いけど、僕が一番悪い」

 久世は片眉をあげて視線を生田に戻した。

「あー、もう! 酔っ払ってる、酔っ払ってるよ僕は!」
 生田が声を荒げた。

「酔っ払っているから、ちょっとおかしくなったんだ。わかるだろ?」

 生田は久世の表情を伺う。生田から視線は外していないが変化は感じられない。

「その、あるだろう? 男なら」

 久世は生田の言葉が上手く理解できずにきょとんとしている。

「だから、そういう顔をするから!」
 生田は自分でもわからないままに言葉を発してしまっている。

「透は男だけど、なんかこう……抱き締めたくなったんだよ!」

 生田は言ってしまって恥ずかしさと後悔が一度に襲ってきた。
 久世の反応を見れずに下を向き、そのまま寝室へと足早に去った。
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