大人になりたい少女と、大人になれなかった僕 〜レトロな喫茶店は甘くほろ苦い〜

ノウミ

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15杯目.嵐は突然やってくる

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昨日は、何事もなく終わることが出来た。
一昨日の病み上がりも、今はすっかり治っている。

今日は遅刻せずに出勤できている。
昨日も今日も、刈谷部長は会社にいない。
出張で明日まで戻ってこないのだ。

だからなのか、気分もすごく良い。
こんなに憂鬱な気分にならずに会社に来れるとは。

「…おはようございます」

「おう、おはよう。真田は今日も気分がいいな」

「分かってるでしょう」

「そりゃそうだ」

僕と違って廣瀬はいつも気分が良さそうな奴だ。
こいつが暗くなっている所を見たことがない。
人生の成功コースを、ひた進んでいる気がする。

今日は部長もいないので、会議の予定もない。
昨日に、営業計画と頼まれた会議資料は提出済み。
つまるのとこ、今日は仕事がない…完璧だ。
僕の定時に帰る算段はついている。

後は無難に、それとなく仕事をしてやり過ごす。

そう思っていたのだが。
何もない一日に限って、何かが突然起きる。
まるで先ほどまでの静けさが、嵐の前触れのように。

『おい真田!頼んどいた明日の会議資料、内容が全然違うじゃねえか!』

「え、いや、頼まれた通りにやりまし……」

僕に言って来たのは前に絡んできた先輩だ。
今回は先輩が正しかった。
作った資料は先月の資料だった。
まとめたデータを、一月間違えていたのだ。

『お前、最近気が抜けてんじゃねえか、この前も部長にしこたま怒られてたしな!』

「すいません…すぐに作り直します」

『当たり前だ!やり直せ!』

「すいませんでした」

頭を下げ、謝る。
今回は僕のミスだ、あそこまで言わなくてもいいじゃないかと思うが、仕方がない。
すぐにデータを確認し直す為にパソコンに向かう。

見比べてみると、間違いなく僕が悪い。
もしかしてと期待したがそんな事はない。

資料のデータを消し、一からやり直す。
幸いにも、データを打ち替えていくだけで良さそうなので、早くには終えれそうだ。

早くといっても、気がつけば15時を回っていた。
お昼ご飯を食べずにやりきったでこの時間になる。

できた資料を一部だけ印刷し、先輩の元へ向かう。
機嫌が悪そうだが意を決して声をかける。

「あの…すいません」

『なに?』

「資料作り直しました、確認願います」

僕の手から奪い取るように、資料を受け取る。
素早くめくりながら資料に目を通す。

『おけ、これでいいよ』

「はい、ありがとうございます」

『全員分刷っとけよ』

「かしこまりました」

再度お辞儀をし、パソコンの前に戻る。
全員分の印刷を終え、机の上に置いておく。

「さて、お昼でも…」

「よっ真田、飯行こうぜ?」

廣瀬からお昼に誘われるのは珍しい。
どう言う風の吹き回しだ。
これ以上風はいらないのだが。

「いいよ、行こうか」

「そうこなくっちゃ」

二人で会社を出て、外の定食屋に向かう。
ビジネス街の近くにあるので、ランチ時にはいつも満席で賑わいを見せている。
今日は時間がズレているので、比較的空いてた。

席に着くとメニューを開ける。
僕は生姜焼き定食、廣瀬は豚カツ定食を頼む。
料理が来るまで少し時間がある。

「珍しいな,こんな時間に」

「あぁ、その…たまたま仕事が立て込んで」

「ふーん…」

「あ、さっきのさ大丈夫だったか?」

「資料の事か?大丈夫、僕のミスだから」

「そっか…」

なんとも廣瀬らしくない、歯切れの悪い会話だ。
少しだけ、居座りにくい空気が流れている気がする。

「あのさ…俺…」

廣瀬が何かを言いかけるが、遮るように二人の注文した定食が運ばれて、机の上に置かれる。
改めて聞き直すが、何もないそうだ。

モヤモヤした会話が残るが、ご飯は美味しい。
気にしないようにして、食べ進めていく。
廣瀬はおかわりをするほど食べていた。
これだけ食べるなら、大丈夫だろうと思う。

僕に、人の悩みや苦悩を理解する事は出来ないから。
廣瀬みたいな、成功人の事なら余計に。

食べ終わると会計を済ませ、外に出る。

外に出てからも他愛もない会話が続く。
なんとなく感じる空っぽな会話に違和感がある。

会社に戻るとそれぞれの席につき、仕事の続きをしていく、お互いに席は隣だがパソコンの画面を見る。
仕事をしているのだから、当たり前だけど。

そこからは時間が経つのが早かった。
定時の時刻に針が刺さる。

今日は大事な予定があるので、帰り支度をする。

「もう帰るのか?」

「うん、今日は用事があるからね」

「……そっか、お疲れ様」

「お疲れ様」

遠くから『定時に帰るとかありえん』と、あの先輩の声が聞こえたが気にも留めない。
それなら、廣瀬の元気がない方が気になる。

気にしても仕方がない、急いで帰ろう。
荷物を持ち会社を出ていく。
駅までは、自然と早足で向かっている。

今日の嫌な気持ちは、この後無くなるのだから。

駅を降り、いつもの道を歩いていく。
通路に入り、喫茶店に近づくほどに心臓は高鳴る。


扉を開けたら、いつものベルが鳴る。
奥には本城さんが待っているはずだ。
そう考えるだけで、嬉しくなるのだ。

僕は、店内へと入る。
もうここは、馴染みのお店だ。

「おや、いらっしゃいお久しぶりですね」

「どうも」

店内奥のテーブル席に、座っていた。
暗い店内に、一際美しく咲く花のように凛と。
何度見ても思う、あの席は本城さんの為だけに用意されている席ではないのかと。
それほどまでに佇んでいたのだ。

こちらに気付き、目が合う。
その笑う笑顔が一気に咲き誇る。

「待ってたよ」

「お待たせ」

僕はそのままテーブル席に着く。
本城さんは急いでテーブルの上を片付け始めた。

初めて座るこの席は、店内の奥まった位置にある。
ここには、一つの世界が出来上がっていると感じる。
それほどまでに感じさせるのは、店内のレイアウトなのか、本城さんがいるからなのか。

いや、おそらく両方が合わさったからだろう。

「いつ来たんですか?」

「えーっとね、1時間ぐらい前かな」

「すいません待たせましたね」

「大丈夫だよ…ほら、絵を描く時間ができた」

片付けながら、描いていた絵を見せてくれた。
この前行った鎌倉の風景を描いていたようだ。
鉛筆で描いてあるだけだが、陰影がはっきりとしているのか、情景が伝わってくる。

「やっぱり綺麗だね」

「でしょ?それなりに練習してるからね」

そういうと絵を描いていたノートも、鞄にしまう。
端の方に他と違う表紙の本?を見つけた。

「あれ、これも本城さんのじゃないの?」

すると、驚いた表情で素早く本を取り鞄に仕舞う。

「あ、これも私のだった…ありがとう」

どうやら見られたくなかった物らしい。
少し暗い表情を浮かべている。

「ごめん、僕注文してなかったや…すいません…」

場の空気を変えるために注文をする。
いつも通りのコーヒーと、少しお腹が空いたので、ナポリタンを二人分頼む事にした。
コーヒーは、食後にお願いするよう注文する。

「そういえばこれ、今日の目的…」

背中の後ろからA3用紙ほどの大きさで、布に包まれている物を取り出す。

「ちょっと小さいかもだけどね…」

「大きさは関係ないですよ、解いても?」

「もちろん、ちょっと恥ずかしいけどね」

布を解き、中の絵を取り出す。
シンプルな額縁に入れてくれていたようだ。
この前見た写真より立派に感じる。

中に書かれている氷の華は百合らしい。
美しく描かれているが、どこか儚げに感じる。
やはり、タイトルが“自分自身”となっていた。

「美しいですね…実物で見ると余計に…」

「ふふっ、ありがとう」

「家に飾るのが申し訳ないぐらいに…」

「ねぇ、あのさ…この絵はね自分自身なんだよ」

「タイトルにもなっていますもんね」

「それでも綺麗?」

「はい、それでも綺麗です」

同じ質問を前にされた事がある。
今回はすぐに返す事ができた。
これは本心だ、氷のように美しく咲き誇る百合の華は本城さんのように綺麗だと、心の底から思う。

「今度はちゃんと言えたね」

「褒められてます?」

「感謝してる、ありがとうって」

「なんですかそれ」

僕は笑っているが、本城さんは笑っていなかった。
この質問の意味する事が、僕の返した言葉の受け取り方が、僕の意図するところでは無いのだ。



すると、ナポリタンが二人分運ばれてくる。
机に置かれ、ケチャップとトマトの赤みが食欲をそそられる、ほのかに香るバターもいい感じだ。
この前、権田社長の食べたナポリタンと似ている。

食べ終えた僕たちは、食後のコーヒーを飲む。
前にも話していた通り、コーヒーが好きになった。

でも、あまり会話は弾んでいなかった。
どこか上の空のような気がした。


コーヒーも飲み終えると、すぐに会計を済ませた。
すぐに帰りたいのか、立ち上がるのが早かった。
後をつけるように僕は店を出ていく。

喫茶店の通路を抜け、大通りに入る。
気のせいかと思ったが違う。
少し足早に歩いていく。

僕は腕を掴み、引き止める。

「ごめん、ちょっと待って!」

「………」

「何か気に触ることを言ったならすみません」

「………」

「ただ、何でなのかが分からない」

「………」

「嫌いになったなら、はっき…」

振り返る本城さんは、僕のスーツの襟を掴む。
そのまま引き寄せるように引っ張り。
言いかけた僕の口を閉じてくる。
迫っている顔は直視できない。
反射的に目を閉じてしまう。

本城さんは目を開けたまま、口で抑えたのだ。
それは刹那の出来事だが、僕にとっては永遠に感じられるほど長く感じた。

僕が目を開けると、顔が離れる。
掴んだままの襟を押し、突き放す。

「な、なな……急…」

「わた…」

「へっ?」

「私を大人にしてください!」

突然の行動と言葉に、頭の中が吹き飛ぶ。
その言葉の意味を理解できない訳ではない。
そんな事になるとは予想していなかったのだ。

彼女の目を見れないけど、見る。
その目は真剣な眼差しだった。
決して冗談じゃない。
喫茶店で上の空だったのもこのせいか。

ただ、どこか焦っているようにも感じる。

いつもの無邪気な感じとは違う。
何か別の理由がありそうな。

「大人って…十分大人っぽいですよ」

「そうじゃくって!!」

「ならどういう…」

「分かるでしょう!?大人なんだから!」

「ちょ、落ち着いて周りに人もいますから…」

「家に連れてって…」

「へっ?」

「家に連れってくれなきゃ、叫ぶ」

「いや、冗談を言ってる場合じゃ…」

「本気だから…」

「本気ですか?」

「……本気」

僕は頭を抱え悩む。
さて、どうしようか…と。
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