レンタリカ

森 千織

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8、大垣瑞恵、15歳/依頼者:実母

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 三月十三日の空は、気持ちのいい青色だった。三年前に作られてくたくたになった制服だけど、妙に新鮮な気分で袖を通す。私は襟につけっぱなしの校章のピンバッチを撫でて、どうしても直らなかったねぐせにぱちんとヘアピンをつけた。春らしくていいと母に渡されたピンクのチェック模様が、色素の薄い髪にふわりと浮かんだ。卒業式に、こんな浮ついた格好をしてもいいのだろうか。そう思ったけど、母は私を見て「似合うじゃない」と笑った。
「じゃあ、お母さん行ってくるからね」
 母は二階に声をかけて、玄関に駆けてきた。主役の私はとっくに準備を終えて、玄関で十分は待っている。母の紺色のスーツはどこかくたびれているけれど、私の制服に比べたらマシだ。毛玉が浮いてそこらじゅう擦り切れたブレザーに、白の運動靴。なんだか、どうにも締まらない。母は玄関でも足を止めて靴を選んだ。いいなぁ、私も、あの革靴みたいな靴を履きたいな。母を待っていられなくて、私は先に外に出た。門の前に植えられた木に、大きな白い花がついていた。なんて名前だったかな。傍らにタンポポが茎を長く伸ばして、重そうなつぼみを揺らしている。母は結局、スーツと同じ紺色の靴を履いて出てきた。
「卒業式って、お昼前に終わっちゃうのね」
 学校までの道を歩きながら、学校から届いた卒業式の次第を眺めて母は呟く。黄色の厚紙を二つ折りにして作ってあるプログラムは、表紙に大きく校舎の写真が印刷されている。中は次第、裏面には校歌だ。校歌なんか、全然覚えてないな。
「終わったら、お昼どこかに食べに行く?」
「えー、いいよ。家で留守番してる人がいるんじゃん」
 母は「それもそうね」と呟いて、アスファルトに靴のヒールをたたきつけながら歩く。普段履かないから、慣れてないのだ。よく見ると、紺色の靴は傷だらけだった。古いのかな、今も昔も変わらない、定番の形。
「あら、沈丁花」
 風に乗った甘いにおいを見上げて、母が言った。においの元は見当たらない。どこかの家の庭木かな、春になるとよく感じる人間だけど、沈丁花っていうんだ。私は信号で足を止めて、肩口で揺れる髪をつまんだ。つけなれないヘアピンに引っ張られて、ところどころくしゃりと絡んでいる。
「髪が言うことを聞かないのは、若いせいよ」
 母は、私の紙を軽く撫でて言った。しばらく歩くと私たちと同じような格好をした二人連れ、それかそこに父親か祖父母っぽい老人を引き連れた制服が増えてくる。みんな、三年間着古してぼろぼろだ。女子のスカートのプリーツは取れて、男子のズボンは丈が足りていない。それでも、表情は炊き立てのお米みたいにぴかぴかと光っている。私は思わずぎゅっと目を細めた。一歩先を歩いていた母も同じことを感じたみたいで、眼鏡をはずして目を擦る。まるで行進みたいに歩いて、ようやく学校に着く。母は、ほっと息を吐いた。
「じゃあ、式が終わったら門で待ってるから」
 頷くと、母はにっこり笑った。体育館前の受付テントに向かう母の背中を見送って、私は息を吐いた。昨日雨が降ったせいか、濡れた砂のにおいが充満している。昇降口に並んだ下駄箱を一つ一つ眺めて歩き、ようやく三年生の棚にたどり着く。三年四組、出席番号は七だから上の方だろう。ぽっかり空いた空間に私の運動靴を収めて、持ってきた袋から洗い立ての上履きを取り出した。履きなれない上履きは固くて、私は何度もつま先で床を叩いた。
 卒業式なんて、なんであるんだろう。卒業証書を受け取りさえすればいいんだから、郵送してくれればいいのに。三年生の教室は三階、普段自分の家の階段くらいしか上らない私の足はすぐにぱんぱんになる。三年四組は、これまた階段から遠い。一、二、三、あった四組だ。後ろのドアから教室に入り、不自然に綺麗な席に座った。教室のクラスメイト全員の目が、はっと私に集まる。そして波のように引いた。教室の中にはところどころグループができていて、写真を撮ったり、卒業アルバムの最後のページに寄せ書きをしたりと騒々しい。初めて見る顔ばかりの教室で、私は息を吐いた。少なくともこの一年誰も座っていなかった机が冷たい。がらりと前のドアを開けて、スーツの胸に赤い花を挿した大人が入ってくる。若そうな、男の先生。埋まっている一番後ろの席を見て、ぎょっと目を見開いた。何その反応、失礼じゃない?卒業証書が欲しければ学校に来いと脅しておいて、いざ私が来たらそんな顔をするなんて。一年の二学期から学校に来てない私がはるばる足を伸ばしたんだ。ねぎらいの言葉一つくらいあってもいいじゃないか。私は頬杖をついてため息を吐いた。それを聞きつけた斜め前の名も知らぬクラスメイトが、ちらちらと私を見た。きっとこの子も私の名前を知らない。
「大垣」
 さて卒業式だ体育館に移動しようと、クラス全員が席を立つ。その波に逆らって、先生がするりと私の前に現れた。反応してあげるのが面倒で気づかないふりをしたけれど、先生がぐるりと正面に回り込んだから、私はしかたなしに顔を上げた。
「はい」
 妙に声がかすれて、嫌だ、と思う。緊張しているみたいに思われて、変に気を使われても困る。久しぶりの教室の空気が埃っぽくて、喉が痛いだけ。そう言い訳するように、私は一つ咳払いをした。
「今日はよく来たな。ありがとう、安心したよ」
 なにがだよ、なにが。私は脅されて来ただけ、言わば被害者だ。それにありがとうだ安心しただって、私がストックホルム症候群だとでも思ってるのか。私はただ卒業証書をもらいにきただけ、その紙一枚手に入りさえすれば、すぐに帰る。私はわざと「はあ」と気のない返事をしたけれど、先生はぱんと音を立てて私の肩を叩いて背中を押し、クラスメイトが作る列に紛れ込ませた。
 出席番号順に並んで廊下に待たされて、じわりじわりと体育館に入場する。外気がそのままが入り込む廊下は寒くて、上履きの中で足の指が凍る。ようやくたどり着いた体育館は既に保護者と下級生がすし詰めになっていて、心のない拍手が響き渡っている。どうして1、2年生が卒業式に出ないといけないんだろう。付き合わされてかわいそうなのは、私より、彼らの方だ。
 永遠とも思えるほどの時間が経って三年生全員が冷えたパイプ椅子に座ると、待ち構えていたように卒業式が始まる。顔も知らない校長とPTA会長の老人の話、お母さんより年上のおばさん先生がたどたどしく祝電を読む。全身が固まってしまったころに、ようやく卒業証書が授与される。名前を呼ばれた一人が「はい」と耳に刺さる大声で返事をして、がつがつと壇上に上がって、ロボットのような動きで卒業証書を受け取る。あれが私の手元に来るのは、いつなんだろう。でも、これで式も終わりだ。ほっとしたのもつかの間、突然、「卒業生、起立」と号令がかかる。周りが立ち上がるのを見て、私もさすがに慌てて立ち上がる。すると、なんの説明もなくピアノの音が響いた。そして、全員が、聞いたこともない歌を歌いだす。え、なにこれ、気持ち悪い。もしかして、今日のために練習してたの?卒業生一同の口から流れ出るメロディはソプラノアルトテナーに分かれて、見事なハーモニーを奏でている。私は口パクする気にすらなれずに、天井を見上げた。体育館の天井の梁に、白いボールが挟まっている。
 そうだったな、と思い出す。こういうのが嫌で、私は学校に来たくなかったんだ。
 卒業式が終わってもすぐに帰れるわけじゃなくて、私はそのまま教室に連行される。ホームルームで先生が長々と何かを喋って、手元の卒業証書がなかなか配分されない。いつ、いつ、いつ、と私はイライラして机を指先でこつこつと叩いた。私の隣の席の子の机のわきに大きな紙袋がかかっている。ちらちらと、オレンジ色の花びらが覗く。そのセレモニーに、私は巻き込まれたくない。
「じゃあ、卒業証書を授与します。一番、浅井」
 先生が、ようやく卒業証書を配り始める。だけど、わざわざ卒業式の体裁を取って、出席番号順に名前を呼んで丁寧に手渡している。こんなことに、何分かけるつもりなの、やめてよ。
「大垣瑞恵」
 教室が、しんと静まる。私は乱暴に立ち上がって教卓の前まで進む。先生が、まさしく感無量とでもいいたそうな顔で、私の卒業証書を差し出した。
「卒業、おめでとう」
 馬鹿なのか、この人は。私は片手で証書を受け取ると、先生の顔も見ずに席に戻った。何かを言おうとしていたのか、先生は「あ」とか「え」とか小さく呟いて、諦めたように咳をした。次に名前を呼ばれた「川田洋平」くんが気まずそうに進み出るのとすれ違い、私は鞄を取って教室を出た。さようなら、もう用はない。
「あ、終わった?」
 昇降口前のロータリーで、子供を待っているのは母だけじゃなかった。卒業式の席を埋めた保護者の半分以上が、昇降口の前や校門に居座っている。なんか、女の人ばっかりだ。私をみつけた母の声に、全員がばっと私を振り向く。だけど、私に続く影はない。彼女ら冷たい廊下を見つめて、ふうと一気に元の姿勢に戻った。私は急いで靴を履いて、母に駆け寄った。
「これ、卒業証書」
 ワニの革みたいな模様の筒を差し出すと、母はそれを無言で受け取った。蓋を開けると、ぽん、と間抜けな音がする。中の薄黄色の紙を確認すると、母は、「ふふ」と笑った。
「お疲れ様」
 そして、一度も学校を振り返らずに歩いた。
「証書ももらったし、高校も決まってるし、これでもう大丈夫ね」
 そう言って、母は笑った。朝も通った沈丁花のにおいがする角に差し掛かると、母は足を止める。「ほら」と指さした先に、白い花があった。
「お昼ご飯、どこかで食べていかない?」
 なんと答えるべきなのか、迷った。私の仕事は、卒業式に出席して卒業証書を手に入れることだ。だから、もう終わった。大垣瑞恵とリカの間で、どんな顔をしたらいいのか分からない。私はまだ制服を着ていて、その制服の胸元に「卒業おめでとう」と書かれたリボンのついた赤い造花をつけている。私がリカに戻るには、これを外さないといけない。
「それとも、時間がないのかな」
 母も、私を娘として扱うのか、リカとして扱うのか、決めかねている様子だった。家にいる娘、本当の大垣瑞恵は、言ってしまえば頭の良すぎるバカで、学校での生活に全く適応できなかった。勉強はものすごくできるのに友達が一人もできなくて、運動会も文化祭も合唱コンクールも大嫌いだった。学校には行かないのに塾とスイミングとピアノ教室には積極的に通っていて、高校にもさらっと合格した。今日は英会話教室のイベントか何かの日で、卒業式のことなんて頭にすらなかったらしい。瑞恵が卒業式に出ないと卒業証書を渡さないと先生に脅された母が困りに困って、レンタリカを用意した。だから卒業証書を母に渡した時点で、私の仕事は終わりだ。母は眉を下げて笑った。今までとは違う、少し、寂しそうな笑顔。
「昔、私が中学校を卒業したときにお母さんと一緒に食事に行ったの。忙しいのに仕事を休んでくれて、それがすごく嬉しかったの。だから、自分の子供が中学校卒業するときは、絶対にやろうと思ってたのよね」
 母は小首をかしげて、にっと笑った。
「付き合ってくれない?」
 まるで子供みたいな顔で、私は思わず頷いた。本当は依頼内容に含まれないことはしないほうがいいんだけど、まあ、ご飯くらいならいいか。この人はまだ私に娘であることを望んでいるから、厳密言えば追加料金が必要なんだけど、食事代と相殺ってことで勘弁してもらおう。ま、峯守に言わなければいいんだし。
 母が私を連れて行ったのは、チェーンの和食屋だった。ちょっとだけ贅沢って言うか、ほんの少しの高級感を売りにしている店。私は胸の増加を外して、母のバッグに放り込む。母は私を振り向いて、不思議そうな顔をして首を傾げた。
「だって、見るからに卒業式帰りで、恥ずかしいじゃん」
「お花外したところで同じよ。いいじゃあい、卒業式帰り、めでたいんだから」
 母は呆れたように笑う。案内された席は座敷で、ふかふかの座布団が並んでいる。私は少し緊張しながら席に着いた。メニューは紺色の布張りで、なんやかんやと言いながら、ちらし寿司御膳を二つ注文した。
「でも、あの子、本当に大丈夫なのかしらね」
 母は運ばれてきたお茶に口をつけた。あの子とは家で待っている本当の娘のことだ。彼女の昼ご飯なら、朝のうちに母が作って冷蔵庫に入れてある。
「って言われても、私、どういうスタンスでその話したらいいの」
 母は、目をぱちりと開いた。そうして、愉快そうに声を上げて笑った。
「そうね、そうね、あなたは今、瑞恵だもんね」
 母はひとしきり腹を押さえて笑い、はあと深く息を吐いた。
「じゃあ、あなたはこれから、どうするつもり?」
 私は息を吸って瑞恵になって、どうするって言われてもなと頬杖をついた。テーブルは立派な木をそのまま切りぬいたみたいな形をしている。大きな木目を見つけて指先で撫でていると、母がまた口を開いた。
「お母さんはそんなに心配してないのよ。私だって学校嫌いだったし、行かなくて済むなら行きたくない。結局あなたは中学校行かなくて済んだわけだしね。瑞恵は意思も強いし、頭もいいし、いろんなことしっかり考えてるし。でもね」
 母はそこで言葉を切って、お茶を飲んで。そうして、私の顔を見た。
「失敗したら最後、壊れちゃうんじゃないかなって思ってね」
 母の顔から、笑顔が消えている。心臓が、ぎくりとなった。
「そんなことない」
 言い切ってしまってから、少し考えて、「と思うよ」とつけた。だけど、私は怖くて下を向いた。テーブルがつやつやと光っている。だって私は瑞恵じゃない。依頼のときに聞いた情報から人格を作り出して、何の違和感もなく過ごすことができるけれど、だけどやっぱり本人じゃない。少なくとも、私に何を言っても、瑞恵には伝わらない。
「それは、直接言った方がいいよ」
 母は、「そうね」と笑った。店員がするりと現れて、「春のちらし寿司御膳お待たせいたしました」と、テーブルに料理を置いて去った。木のお盆の上に小さな皿がたくさん並んでいる。お櫃に入ったちらし寿司にはいくらや刺身が乗っていて、てんぷらと煮物と茶碗蒸しとピンク色のプリンまである。母は、「まあかわいい」と箸をと取った。 
「だけど、あのさ」
 私も箸を取って、何気ないようにつぶやいた。母はお吸い物の蓋を取って、中を覗き込みながら相づちを打った。透明の出汁に花の形のお麩が浮かんでいる。私は「たぶんだけど」と気弱な前置きをした。
「本当に色々考えてるんだよ、何か駄目になっちゃったらとか、例えば高校に行けなくなったらどうしようかなとか、ちゃんと考えてる」
 私はちらし寿司の上の刺身をつまんだ。マグロとサーモン、錦糸卵。まるで春の花畑みたいだ。 
「色々不安だよ、絶対に私が思ったとおりにならないって、そんなこと分かってるもん。でも、プライドが高くて、助けてって言えない」
 心臓がひりひりする。自分で自分のことをプライドが高い人間だと言うのは、恥ずかしい。喉が詰まって悲しくもないのに涙が出そうになる。自分がダメだと思っている部分を言葉で説明するなんて、死にたくなるくらい。咳でかすれてしまった声をごまかす。視線を落とした先の茄子のてんぷらが、とても綺麗だ。
「だから、たまに、子供扱いしてくれると、嬉しい」
 そう言ってしまってから、また不安になる。単に私が、大垣瑞恵のふりをしている私が、そう思っただけだ。だけど、「と、思うよ」と付け加えるタイミングも逸して、私はうつむいて鼻を擦った。私の言ったことが、間違っていたらどうしよう。母が本物の瑞恵を子供扱いして、彼女のプライドを刺激して家族関係が壊れたらどうしよう。やっぱり、食事になんか来ないほうがよかった。
 ふわ、と、額に温かい柔らかさが走る。顔を上げると、目の前に母の手の平が見えた。母の指が、私の額の前髪を撫でている。指と指の間から、私を見る、母の目が見えた。
「今じゃ、ないよ」
 母は、「ふふ」と笑った。そして、何も言わずに手を離した。
「食べましょうか」
 母は箸を握って、茄子のてんぷらにかじりつく。「まあおいしい」と声を上げ、こぼさないよう口を押さえた。私も刺身を醤油につけて、口に運んだ。マグロの赤身は、舌の上でとろけた。どの料理もおいしくて、あっという間に皿が空になる。十五歳の私ではいつも残す、煮物の人参すら平らげた。店員が入れなおしてくれた熱いお茶に口をつけて、二人で同時に息を吐いた。 
「あの花、持ち帰りなさいよ」
 顔を上げるけど、なんのことだか分らなかった。母は笑って、隣に置いたバッグを探る。母の手に赤が映える。胸につけていた、「卒業おめでとう」と書かれた造花のことだ。
 瞬きをするだけで返事をしないでいると、母は、花をつかんだ手を、そのまま私の方に伸ばした。反射的に迎えた手の平に、かさりと、赤い花が置かれる。
 少しだけ触れた母の指は、温かかった。
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