世界でたったふたりきり

森 千織

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4、キ・リ・バ・リ

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 わたしたちは双子で、体がくっついている。だけど、そんなのもう何年も前の話だ。

「まさか、遥香が同じ会社に入ってくるなんて、思ってなかったよ」

「う、うん、大きい会社、だから」

 家に帰って、一人掛けのソファにバッグとジャケットを放る。まだ使うかもしれないと出しっぱなしにしたまま、しばらく電源を入れていないこたつに足を突っ込んで、わたしは真正面に座っている遥香の顔を見た。

 遥香とわたしは、双子の姉妹。わたしたちは腰のところでくっついていた、結合双生児だった。腰部結合体ってやつ。手足も内臓も骨もきっちり二人分あったから、わたしたちは、隣り合ってくっついているだけの子供だった。分離手術は五歳のとき。それまでは一緒に寝て起きて、ご飯を食べてお風呂に入って着替えて幼稚園に行っていたけれど、手術をしてから、わたしたちはバラバラだ。

「ま、このくらい大きいとこじゃないと、事務職の障害者雇用なんかやってないもんね」

 いつから使っているのか分からないような古いマグカップから、白い湯気が上っている。その向こうで、遥香が「そうだね」と答えた。実際に口から出たのは「そ」がいくつも重なったどもり声で、まるで壊れたCDみたいだった。わたし以外には、きっとまともに聞き取れないだろう。

「どうせ、大した仕事でもないんでしょ」

「う、うん、まあ、議事録、作ったり、とか」

 普通の双子と同じように、わたしと遥香は正反対の性格だ。わたしは社交的で活発、遥香は大人しくて、引っ込み思案。体がくっついていたころから、わたしは外で遊びたがって、遥香は部屋で本を読みたがった。切り離された日から、わたしたちは余計に違っていった。遥香は、わたしがいくら誘っても外で遊ばなくなった。せっかく入学した小学校にも行きたがらなくて、中学校二年生で不登校になった。そのまま引きこもりになって、高校受験もしなかった。リスカをして両腕を血まみれにして、首吊りで自殺未遂して精神病院に入院した。鬱病の診断を受けて、入院しているうちに二十歳になった。退院しても人混みや人との会話が怖くて、一人で出かけることもできなかった。病院に通って、薬を飲みながら、作業所に通って小学生の工作みたいなものを作ったり、工場のラインで黙々と作業したりして、お小遣いのような給料をもらっていた。それでも、一応は良くなっていった。病院の人とか、ケアマネージャーとかなんとかって人と外出の練習をしたり、一人で暮らす訓練を始めた。そして今年、やっと普通の会社に就職した。そうは言っても、障害者雇用の非常勤職員だけど。

「ま、そんなに緊張する必要ないんじゃない。誰も、期待もしてないでしょ」

 吐き捨てるように言って、温かいカップに口をつける。カフェインを避けて常飲しているほうじ茶の香ばしい香りが、鼻をくすぐる。一つのティーパックで何杯も何杯も飲むからかなり薄くて、もはやただの色のついたお湯だ。

 わたしと遥香はそっくり同じ顔をしていて、だけど、全然違う。遥香が人生にすっ転んで大怪我して行きつ戻りつしている間に、わたしはわたしの人生をまっすぐに歩いた。普通に中学校に行って高校に行って大学に行って、卒業して就職した。誰でも名前を知っているような大きな会社だ。まあ、だから遥香みたいなのが紛れ込む隙があったんだろう。

 双子で同じ体なのに、どうしてこんなに違うのか。思いつくのは、手術のこと。わたしと遥香を切り離すときに腰の神経が傷ついてしまって、遥香の片足が不自由になってしまったから。でも、別に歩けなくなったわけじゃない。体重をかけると、少し痛むってくらいで。

「ま、頑張れば」

 遥香は、わたしにしか分からないくらい、微妙に唇を歪ませた。へたくそで不細工な笑顔が、ひどくどもりながら「ありがとう」と言った。





 ひどい通り雨に追われて、わたしはアパートに飛び込んだ。同じように飛び込んだらしい遥香の靴が、玄関に転がっていた。就職するときに買ったパンプスは傷だらけで、底はちぐはぐにすり減っている。不自由な方の右足が少し短いから、体重のかかる左足が先にボロボロになる。リビングに入ると、遥香も今帰ってきたばかりみたいで、濡れた身体をバスタオルで拭いていた。

「遥香ァ、あんた、服、どうにかしなよ」

 遥香は振り返って、まるで「今から着替えるよ」とでも言いたそうな顔をした。そうじゃなくて、と、わたしは首を振る。その服装を、スタイルを、ファッションをどうにかしろって言ってるの。大量生産の灰色のカーディガンが、濡れてまだらになっている。その下に合わせるのは中学校の制服ですかとでも言いたくなるような、丸襟の白ブラウス。色あせた黒のパンツはサイズが合っていないせいで、下半身がひどく太って見える。上半身がガリガリだから、ひどくアンバランスだ。

「遥香、クソダサいから」

 ぱちりと、遥香が瞬いた。そして初めて自分の外見に気づいたとでも言うように、ゆっくりと視線を落とした。自分の足元から、裾、袖口、胸元まで眺めて、壁にはめ込まれた鏡にたどり着く。まるで、初めて鏡を見た赤ん坊みたいだ。

「ふ、服……、服かァ……」

「それに化粧もさ、今時、中学生でももっとマシだよ」

 遥香の化粧は、下手したら小学生以下だ。むらだらけのファンデ、がたがたの眉。いくらほとんど人と顔を合わせない内勤の事務職とは言え、その顔はヤバい。一応、二十五歳の女子なのに。

「化粧品揃えなよ。ドラッグストアの、安いのでいいんだよ」

 遥香は人と喋れない。家族以外の人間と顔を合わせると、心臓がばくばく言って息ができなくて大変なことになる。三年前までは、それでぶっ倒れていた。今は倒れるほどじゃないけれど、店員がうろつく服屋やデパートのコスメカウンターなんか地獄の入り口みたいなもんだ。遥香の持っている服は親が適当に見繕って買ってきたもので、サイズが微妙に合ってない。

「しまむらでいいから、買ってきなよ。ちゃんと試着すんだよ」

「し、試着……」

 遥香は濡れた服を脱いで、そのまま洗濯機に入れた。ニットだろうがシャツだろうが下着だろうが靴下だろうが、遥香は全て洗濯機でいっしょくたに洗う。セーターなんかもそうだからすぐに傷んで縮んでしまって、遥香の手元に残るのは、タフで安い服ばかりだ。いくら精神病で障害者でも、身だしなみに気を配らなくてもいい理由にはならない。

「服と化粧と、あと髪型。全部変えるまで、会社で声かけないでよね」

 分かっていないような、困惑するような顔の遥香にそう吐き捨てて、わたしは濡れた体のまま風呂場に向かった。遥香の声は、追ってこなかった。

 次の日、わたしが家に帰ると、ぱんぱんのしまむらの袋があった。中身は白、黒、灰色。モノクロのグラデーションに、額を押さえてため息を吐く。確かに色は指定しなかった、しょうがない、しょうがないか。次はモノクロ禁止令を出そう。だから、今日はわたしは、遥香に何も言わなかった。





 固い廊下をパンプスのヒールが叩く。かん、かん、かんと、冷たい音が響く。十七階建ての建物の、広い廊下の奥の奥に、非常勤が詰めるフロアがある。その奥のトイレは、狭くて個室が三つしかない。営業とか、開発とかの花形部署がある階のトイレはまるでターミナル駅か大型百貨店のパウダールームと見紛うほどにきれいなのに、ここのトイレはまさしく「トイレ」だ。普段は使いもしないトイレに飛び込んで、わたしは、鏡の前に立っていた遥香を捕まえた。

「遥香!」

 わたしに腕を掴まれて、遥香は口を「え」の形に開いた。どうしたのとでも言いたそうな顔がゆっくり傾げられるけど、わたしはそれを遮って声を上げた。

「さっき、堀さんと喋ってたよね!?」

 産まれて初めて美容室に行って五千円でカットした微妙な長さの前髪が、遥香の目元で揺れている。きれいに整っていたのはその日の夜までで、次の日にはいつものくせ毛に戻っていた。今度はトリートメントを買わせなきゃ、いや、そんなことどうでもよくって。

「ほ、堀、さん」

 何が何だか分からないという顔で遥香が瞬くから、わたしは思い切りため息を吐いた。遥香は人の顔と名前が覚えられない。人の顔を直接見られないせいだろう。何年も付き合いがある主治医と、市のケアマネの人の名前くらいしか覚えていない。写真はまっすぐ見られるから、歴史の教科書とかニュースに出てくる人とか、芸能人なんかはよく覚えているのだけど。

「ほらさっき! 髪! 切ったのかって!」

 遥香は「ああ」と、分かっているのか分かっていないのか、たぶん分かっていない呆けた顔で言った。じれったくて、わたしは頭をばりばりと掻く。

「営業の堀さん! さっき資料取りに来たじゃん、紺のスーツ、赤のネクタイ!」

「あ、ネクタイピンが、魚」

「それ!」

 そう肩を叩いてから、「じゃないよ!」と声を上げてしまった。遥香はぽかんとわたしを見る。茫然としたいのはわたしの方だ。だって、堀さんだ。何百人といるこの会社の中で一番モテる男性社員。営業とはほど遠いわたしだって知ってるんだから、相当な有名人。

「大丈夫? ちゃんと会話できた? 挙動不審になってない? キモい喋り方にならなかった?」

 まくしたてるわたしに遥香は目を丸くして、とぎれとぎれに「どうかな」と答えた。遥香はわたしと喋るときすらどもる。ましてや、顔も名前も分からない男性社員とだなんて。

「ああもう、その喋り方だって、普通にダメだからね!」

「だ、だめ」

「ダメ! 昔よりはマシだけどさァ、もっと喋れるようになってからしなって。遥香、まだ病院通ってる、病人なんだから!」

 遥香は瞬いて、首が折れたみたいにこくりと頷く。そうしてわたしは、やっと息をつく。白いブラウスの上に重ねたカーディガンが紺色だ。一応モノクロじゃないけど、学生服の雰囲気からは抜け出していない。そんなんで堀さんとお喋りとか、百万年早い。

「まさか、好きとかじゃないよね?」

「えっ?」

 子供みたいな顔の遥香の両腕をがっと掴んで、わたしはほとんど揺さぶるようにして言った。

「贅沢! 遥香にはまだ早い! 恋愛とか、身の程知らずだからね!」

「い、いや、別に、ほんとに、一言喋っただけで……」

「その一言が、大事件なんでしょうが!」

 何一つ分かっていない遥香が慌てたように、戸惑うように言うのを大声で殴りつけて、わたしはそのままぱっとトイレを出た。そうして、白くて広くて明るい方向へ、かんかんと駆け出した。





 古いアパートのドアは重い。精神障害者手帳を持っているおかげでもらえる年金と、最低賃金に近い今の給料で家賃を賄えるような家は、ここしかなかった。ぎいと軋むドアを開けると、じわりと漏れるリビングの光が見えた。

「ただいま」

 そう言ってリビングに入ると、遥香は台所に立っていた。今日の夕飯と明日のお弁当のおかずが、白い湯気を上げている。小さく響く鼻歌は、小学校の校歌だ。遥香がまともに知っている歌は、これしかない。

「仕事、どう」

「ん、まあ、慣れてきた、かな」

 茶碗にご飯を盛って、余ったご飯はタッパーに入れて、冷蔵庫へ。もう秋、遥香が仕事を始めて半年が過ぎた。慣れるのが遅すぎるでしょ、とは思うけど言わない。遥香にしちゃあ上々だ。家族以外の人間と、何年も言葉を交わせなかったんだから。代わりに「あっそ」と呟いて、皿のミニトマトを一つ口に放り込む。

「そんなに、緊張、しなくなってきた」

 はいはいとバックをソファに放った。先にそこにあった、遥香の仕事用のバッグ、帆布のざっくりとしたトートバックの角が汚れて擦り切れていた。そろそろ新調したらいいのに。遥香のカーディガンは春に買ったピンクで、実はともかく肌寒そうに見える。気温が同じなら秋に春物を着てもいいと思っているところが、いかにもダサい人間だ。

「今日のお昼、堀さんと外に食べに行ってたよね?」

 瞬く遥香が、どうして知っているのかという顔をして、おずおずと頷いた。知らないわけがない。わたしは、遥香のことを何でも知っている。

「お弁当は?」

「玄関に、忘れた」

「バカじゃないの」

 遥香は苦笑いをして、茶碗をこたつテーブルに運んだ。夏の間も出しっぱなしだったこたつに電源を入れて、「いただきます」と呟いた。まるでわたしのことを忘れてしまったような態度に苛立って、わたしは舌を打った。

「なんで?」

「コンビニに、い、行こうと思ったら、誘われた、から」

「誘われたァ?」

「う、ん、蕎麦を」

「何食ったかはどうでもいいの。まともに喋れた? 大丈夫だったの?」

「う、うん、たぶん」

 たぶんじゃないよと、ため息が出る。判断するのは遥香じゃない、堀さんだ。遥香は目を泳がせて、言葉を探して、その半分も口から出せない。

「な、んか、ダイビング? シュノーケリング……、かな、するんだって、来週、沖縄で」

「へえ、彼女と?」

「あ、う、ううん、いない、って」

「は、なにそれ、遥香、口説かれてんの?」

 遥香がぽかんと口を開けて、箸で持ち上げたご飯がぽろりとテーブルに落ちる。あっと声を上げて、遥香は手でご飯を拾って食べた。だから、そういうことするんじゃないよ。いくら、誰も見てないからって。

「そうでもなきゃ、二人でご飯なんか行かないでしょ」

「ぐ、偶然、だよ。ちょうど、出るときに、会った、だけで」

 遥香は目を白黒させて、「は」とか「あ」とか口をぱくぱくさせている。中高生なら単なる偶然とか、気まぐれで済むかもしれない。だけど、大人になったらそんな簡単な話じゃない。二人で食事、しかも同じ課でもない、障害者雇用の非常勤の事務。下心なしにそんな偶然は起きないし、営利目的でない慈善活動なんかない。

「遥香だって、好きじゃなきゃ一緒に行かないでしょ」

 遥香は、本当に分からない顔で瞬きを繰り返す。そりゃあ恋愛どころか、人間関係ともひどく離れた場所にいた遥香だから仕方ないけど、二十六歳にもなろうとしている女が、まるで幼児だ。わたしたちが切り離される前、幼稚園の先生が格好いいなんて言っていたころと同じ。

「遥香には、まだ早いよ」

 遥香はほとんど噛まずにご飯を飲み込んで、小さく咳をした。





 二人で入るお風呂は狭い。わたしは先に湯舟につかり、ぎゅっと足を縮めた。湯気で白く煙った視界の向こうで、遥香が頭を洗っていた。膝頭の上で組んだ両腕に顎を落として、わたしはそれをぼんやりと見ていた。

 遥香の右足の付け根、腰にほど近いところに、大きな傷跡がある。それはわたしたちが切り離されたときの傷で、わたしの左側にも似た傷がある。だけど、遥香の傷はわたしのものより大きくて、ずっと深い。絡み合った血管を切り離したときに、大きな動脈が避けてしまって、それをふさぐために皮膚を引っ張ってつないだ痕だ。知らない人が見たら、息を飲んでしまうような傷。足の不自由さは、遥香自身の慣れもあって目立たないけれど、この傷は消えはしない。

 遥香は手のひらでシャンプーを泡立てて、肩より上で短く切った髪を洗う。美容院で勧められるままに買ったシャンプーと、コンディショナーとトリートメントが、狭い風呂場にぎゅうぎゅうに並んでいる。遥香はぎこちなくシャンプーを洗い流して、コンディショナーをして、ようやくトリートメントに手を伸ばした。透明なオレンジ色のジェルを、不器用に髪に塗り付けていく。そんなもの使っても、二十何年も安いリンスインシャンプーを使い続けた髪に、効くとは思えないけど。

「ねえ、遥香」

 遥香は石鹸を泡立てたボディタオルで体を洗う。腰の傷よりずっと目立つ両腕のリスカの痕を、何も気にせず擦っている。リスカなんて生々しいものじゃなくて、遥香の両腕は洗濯板みたいにでこぼこだ。手首だけじゃなくて、二の腕の外側も、足も腿も、自分で切った傷だらけ。首筋の五センチのみみず腫れは、首を吊ったときの痕。わたしにはない傷の一つ一つが、白い泡の下に見え隠れする。

「わたし、昨日、帰り遅かったじゃん」

 遥香は、「うん」と聞いているのか聞いていないのか分からない声で相槌を打つ。普通の姉妹なら、聞いてんのって怒るところかもしれない。だけど、わたしたちは結合双生児。二人は、そのまま一つだ。シャワーで泡を流すと、傷だらけの体があらわになる。

「堀さんと寝たんだ」

 ばしゃりと、床に落ちた泡のかたまりが排水溝に流れていく。遥香は初めてわたしに気づいたような顔をして、ようやくこっちを向いた。下手な化粧とクレンジングのせいで、目の縁が赤く荒れている。マスカラの使い方が分からないせいで手付かずのまつ毛は、逆にそれが功を奏してふさふさと長い。長年の引きこもり生活のせいで肌は白くて、やつれた体はひどく不健康だった。だけど最近少し太って、見られなくはない程度になった。そもそも、遥香が不細工なわけではない。だって、わたしと同じ体だもん。まともに生きてまともに育てば、わたしと全く同じになっていたはずだ。わたしと同じ顔が、目を丸くしている。

「堀さんと、寝た」

 同じことをゆっくりと念を押すように言うと、遥香はようやく瞬きをした。

「ごめんね、遥香の好きな人」

 ぱく、と小さく開いた口から声は出てこない。考えるように開いて、迷うように閉じて、そして小さく「そういうんじゃないよ」と答える。それを聞き流して、わたしは少し笑う。

「堀さん、びっくりしてたよ、足の傷」

 遥香はじっとわたしを見たまま、だけど手だけは淡々と体の泡を洗い流した。いつもと同じ動きをいつもと同じようにこなして、遥香はボディタオルをすすいだ。

「気にしないとは言ってくれたけど、まあ、ちょっと引いてたね」

 シャワーを頭からかけて、遥香はコンディショナーを流していく。髪をなんとか手櫛で溶かしながら、念入りすぎるくらい念入りに。ぷつりぷつりと、髪が切れているのが見えた。傷だらけの両腕が、目の前を行ったり来たりする。

「遥香、ヤバいよね。どうすんの、その手さ、誰にも見せられないでしょ。セックスなんか、夢のまた夢」

 きゅっとシャワーを止めて、ヘッドを壁に戻す。ばしゃりとお湯が落ちて、遥香は青色のプラスチックの椅子から立ち上がった。深爪の足がお湯に触れ、遥香は湯舟に入った。遥香の体積で増えたお湯が肩の高さまで上ってきて、私は姿勢を変えた。一人暮らし用の家のお風呂は、もちろん湯舟だって小さい。一人で入っても、足なんか伸ばせやしない。遥香は体育座りのように足を抱える。わたしも全く同じ格好をして、遥香と向き合った。指先と膝頭が重なりそうな距離で、お湯につかる。

「ねえ」

 遥香の口が、小さく動いた。熱いお湯から湯気が上って、遥香の頬がじわりと赤い。じわじわと汗が滲んで、顎の先からぽたりと水滴が落ちた。水面に輪が走る。

「なに、遥香」

 額に落ちた髪を耳にかけて、遥香はゆるゆると首を振った。

「わたしは、遥香じゃない」

 遥香はまっすぐにわたしを見ていた。向かい合う顔が、すぐ鼻先にある。狭い湯舟の中で、まるで一つになりそうな場所に同じ体がある。遥香の色の薄い唇が、緩く持ち上がった。 

「美知佳は私。遥香は死んだの、あのときに」

 開いた口が、からからに乾いた。まるで何年も息なんか吸っていないみたいに、喉に埃が貼りついた。目の前の顔は体温が上がってぼんやりと赤くなっていて、白い骨と皮のようだったあの日の遥香と同じ体には、とても見えなかった。

 一体何を、と笑おうと思った。何をバカなことを口走っているんだか、と。だけど、声なんか出るわけがなかった。わたしの声なんかどこにもなかった。切り離されたあの日から、わたしはどこにもいなかった。一人暮らしのアパートの狭い湯舟に、大人になった女が二人、入れるわけがないじゃない。

 ちかり、と、目の前が光る。遥香の顔が、まるで知らない人みたいだ。切り離されたあの日、わたしたちはバラバラになった。生き残った美知佳は遥香が死んだことを認めず、足が不自由になったことも認めなかった。だから、美知佳は遥香になって、わたしを作り出した。手術が成功していたら、足が不自由にならなければ、人付き合いがうまくできれば、リストカットなんかしなければ。自分と同じ、自分と違う自分。それがわたしだ。遥香でも美知佳でもない。

 遥香は、いや、もう美知佳だ。美知佳はざばりと湯舟を出た。傷だらけの体からぽたぽたとお湯が落ちて、床に残る水たまりに波紋ができる。

「今まで、ありがとう」

 ぺたりぺたりと足音が遠ざかる。風呂場の戸が開いて、そうして、閉まった。ああそう、と、吐いた息すら音もしない。わたしは泣いた、それとも笑った。無論、どっちもあるわけがない。だってわたしは、最初からいないんだから。

 そうしてわたしは、ぱしゃりと消えた。
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