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3.夜の闇の中で
しおりを挟む『ねえニル。あなた一体何者なの?』
部屋に戻った瞬間、待ちきれなかった私はニルを問い詰めた。突然の事にニルは怯えた様子を見せる。
「な、何者……ですか?」
『あんな立ち振る舞い、上流階級に生まれた娘でもない限り無理だわ』
だが、ニルは戸惑うだけ。不安のせいか、両手をぎゅっと握りしめ、声を震わせながら話し出す。
「わ……分からない……思い出せないんです……あれは体に染み付いてるみたいで……でも……どうしてそうできるのか……わたし……わたしは……いたっ!」
急に頭に痛みが走ったのか、頭を抱え込むニル。やはり、兄に殴られたショックで思い出せないままなのだろうか。
『……憶えていないのなら、仕方ないわ。』
仕方ないわけがない。でも、思い出せないものをいくら問い詰めても時間の無駄だ。
「す……すみません……」
『謝るなら、早く全て思い出して……いいえ、この体から出て行ってちょうだい』
「……分かって……ます」
私の苛立ちが分かるのか、ニルは体を縮こませながら言う。その様子に、私は罪悪感で胸がじりっと小さく痛む。
「いいわ。今日は慣れない事ばかりで疲れたでしょう。とりあえず、今夜はゆっくり休みなさい」
「……はい」
そしてニルは、侍女を呼び寝支度を整えさせると、素直に眠りについた。そして昨日と同じように、私の意識は眠らない。でも、それだけではなかった。
(体の支配が……戻ってる?)
夜の闇が完全に支配する時間になった頃。私は、自分の意思と同じように、体が動いている事に気づいた。
私は横たわる体を恐る恐る起こす。自分の手を見つめ、ゆっくりと指を動かし確認していく。
(戻ったわ……もしかして、ニルが深く眠っている時は支配が取り戻せるのかしら)
できるならこのままずっと戻ったままでいてほしい。でも、体の片隅にはまだニルの気配を感じる。きっとまた朝が来れば、この体はニルに奪われてしまうのだろう。
私はため息をつく。でも、落ち込んでいる暇などない。私はベッドから降りると、部屋の壁にある、侍女を呼び出すための紐を引き、侍女が控えている部屋の鐘を鳴らす。
紐から手を離して、壁に背をつける。壁や寝衣が肌に触れる感覚が、体を取り戻せた事を実感させる。
張り詰めていた何かが切れたように、私は壁を背で滑らせ、床に座り込む。
「……しっかり……しなさい……エンフィー」
そう呟いて、自分を鼓舞する。でも、こうしてひとりになると、心が押し潰されそうになる。寂しさなど、誰にも話せない。誰も、掬い取ってくれない。
私は、自分の体をそっと抱きしめる。久しぶりの感覚に、安堵と、絶望が押し寄せる。
「……怖い」
本当は恐れているのだ、こうして自分の体が取り戻せてしまった事を。
父の命令を失敗すれば、私は役立たずの娘となり、どんな目に遭うか分からないのだ。事故に見せかけて殺されてもおかしくない。父はそうやって、愛人に産ませた娘たちを駒のように使い捨ててきたのだから。
でも、ニルに体を奪われたままなら、きっと、死の痛みも感じないままでいられる。
(もう……それでいいんじゃないの……?)
夜の闇に引きずり出された弱さが、心を侵蝕しはじめたその時、扉をノックする音が響きわたる。慌てて立ち上がると同時に、私の返事を待たないまま扉が開かれ、侍女が音も立てず部屋の中へと入ってきた。
「……早いわね」
「どうした、顔色が悪い」
侍女の格好に似合わない低い声。でもその声はどうしてだか、止まり木を見つけたような心地にさせる。
この侍女は私が家から連れてきた。侍女のように見えているが、れっきとした男だ。声も今は元々のものだが、女のようにも変えてしまえる。見た目も、だ。
一体どういう仕組みなのか聞いた事はあるが、それを知った瞬間にお前の命はないと言われ、それ以来私は尋ねるのをやめた。
「少し、疲れただけよ」
私は、壁に背をつけ腕を組み、そう答えた。なのに男は、私の答えになど興味もなさそうに、乱暴にソファに座る。
「こんな遅い時間に何の用だ?」
「……ある少女について、調べて欲しいの」
私は、これまでニルから聞き出した事を手掛かりとして、男に説明する。聞き出したと言っても、残念ながらニルの記憶はないに等く、たいした情報は与えられない。
説明を終えた私を、男の厳しい視線が貫く。
「なぜその少女を調べる?」
「理由が必要?お前は、黙って私の命令に従っていればいいのよ」
「なら断る。理由を言え」
「言っても、絶対に信じてもらえないわ」
「信じるかどうかなど、聞かなければ判断できない」
(わからずや)
そう心の中で憤り、無意識に親指の爪を噛んでいた。私はそれに気づき、慌ててそれを離すと、諦めにも似た感情と共に息を吐き、答えた。
「……私の体を、乗っ取られたの。ニルという少女に」
「俺には、お前のままにしか見えない」
「彼女が眠っている時だけよ。目覚めればまた乗っ取られてしまう」
そう言うと、男は腑に落ちたと言った様子を見せ、呟いた。
「だからか」
「……どういう事?」
「今日のお前は、明らかに様子が違った。まるで別人のようだった」
「まさか、気付いていたの?」
「ああ。誰よりもお前を見てきた俺には分かる。だが、理由までは分からなかった」
納得している男だが、私は逆に納得できていない。
「信じられたというの?この説明で」
「お前が嘘をついてるかどうかなど分かる」
迷いのない返答に、私はどうしようもなく救われた気分になる。そしてこのまま、醜く、男に縋ってしまいたい。でも、私の理性がそれを必死で止める。
「理由は説明したわ。これで、調べてくれるわよね」
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