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美姫の場合
美姫の場合63⃝
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「じりじりじりじり」
「じりじりじりじり」
刹那の連れ合いは息を引き取っていた。顔面は血の気を失い蒼白(そうはく)。皮膚表皮は温度を失い冷感(れいかん)。全身の筋肉が包括的に氣を失い虚脱(きょだつ)。総頸動脈は触知不能。呼吸不全は皮膚の色を黒く染める。典型的なチアノーゼ。彼の頚椎には愛のない針が突き立てられていた。こういう時に自慢の筋肉が何の役にも立たぬことを識る。『甘い。甘い。甘いねえ。高級柘榴(こうきゅうざくろ)を求める蟻の参勤交代より甘いねえ。首を刎ねられなかっただけでも綺麗な死に様。感謝して欲しいもんさ。』老婆の声が廊下に反射する。
「じりじりじりじり」
「じりじりじりじり」
『ぎい』マイナス六号室の扉が開放される。鉄扉特有の重厚な音が廊下にも響く。同音階は右巻きの渦の中心部まで至り/同位置で不吉を孕んだのちに逆回転で開放される。部屋の中から覗く視線。詞先(しせん)の指尖(しせん)であり死線(しせん)の支線(しせん)であり四川(しせん)の四千(しせん)でもある老婆の視線(しせん)だ。
「じりじりじりじり」
「じりじりじりじり」
老馬は地獄の山脈から抜け出てきたような様相。下顎と肩で呼吸をしている。美樹の後方で筋骨隆々とした男性の倒れる音がする。頚椎がずれてしまい棘突起の幾つかが破壊されたためだ。呼吸は停止(ていし)しており死相を呈(てい)している。
「じりじりじりじり」
「じりじりじりじり」
老婆はそのことを意に介さず『音がやかましいね。耳が遠くなっちまうよ。全く。』と呟き火災警報器の復旧ボタンを押下(おうか)する。爆音の後に訪れた静寂。二名の耳腔にある種の瞑想体験を引き起こすのだ。非常ベルは久々の出番に御満悦の様子だった。高架水槽から放たれ,ポンプを起動させた水流も同じ。開放されなかったSP消火設備はアラーム弁に寄り添い手を繋ぐ。
『入りな。どうせ逃げ場なぞないのだから。この部屋に入りな。同世の涅槃は脳内にしかないのだから。早く入りな。頭(こうべ)を垂れつつ入りな。』 説得力と語彙力の双児を含む声質。絞り出されるやうなその声は射爆場の音階を上下し,鬱病患者の常備薬のやうに一定のリズムを保ち続ける。『入りな。早く。入りな。』言葉は魔法。魔法にかかってしまった女が一人。悪だくみを大いに含んだ魔法にかけられた女が一人。
部屋は件(くだん)の拷問室と大差のない大きさ。蝋燭を掲げる燭台の配置のみが同一。既視感を背負う彼女は直ぐに「入ったのは失敗だった。」と氣づく。匂い。匂い。何かが腐乱し放置されたような匂いがする。熟年離婚もできずに人生の軸を狂わせ放題の夫婦のような匂いがする。
「がちゃり」「がちゃり」「がちゃり」老婆の舌舐めずりとともに外部から鍵が掛けられる。「がちゃり」「がちゃり」「がちゃり」何度も続く音は嬉々としており。「がちゃり」「がちゃり」「がちゃり」彼女を弔う密室が完成する。
美樹は蛇に睨まれた蛙のような目をしていた。海老に襲われるキャベツのような目をしていた。恐怖が六割六分六厘六毛。別種の恐怖が三割三分三厘三毛。どの種にも属さない感情が一毛。滴る汗を拭おうとする手を掴まれると彼女は,老体とは思えぬ力で中央に座するベッドに美樹を放り投げた。
『甘い。甘い。甘いねえ。大きな耳を失った愛玩動物よりも甘いねえ。甘い。甘い。甘いねえ。主君の夜伽に綺麗な嘘をつけぬ女性よりも甘いねえ。』と老婆は咥(くわ)える。
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