《瞑想小説 狩人》

瞑想

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美姫の場合

美姫の場合62⃝

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 走る。走る。廊下を走る。増加する心拍数。酸素を取り込む鼻腔は限界まで開放される。鼓動(パルス)を計測するならば概ね170程度。男性は蹴り足を軸に加速する。廊下は非常に長く続いている。どこまでも。どこまでも。廊下は左周りの螺旋を描いており幾つかの部屋の入口を右手側に捉える。

「じりじりじりじり」
「じりじりじりじり」

 彼も彼女も「何かがおかしい」と氣づく。大きなマンションであるとはいえ何処まで行ってもエレベーターが無い。エスカレーターも無い。左辺には壁が続いており右辺には複数の部屋が在る。幾つかのドアノブを引く。ホット・ゾーンからウォーム・ゾーンに退避できるとするならば逃避行にも意味があると思うのだが。引き千切る程の力でドアノブを廻してみる。動かず。廻らず。

 この巨大な地下迷宮は蠢いている。生きている。初鰹(はつがつお)のやうに姿を変え/形を変え/名前を変え/戸籍さえも自由に操っているやうだ。3分。5分。7分。走り続ける。入館した時の記憶を探りつつ。耳をつんざく程のヘルツで鳴る警報器。ヘルスを無視した音響に驚く心臓。鼓動(パルス)は更に高くなる。

「じりじりじりじり」
「じりじりじりじり」

 所謂,夢窓階に該当する地下階。左周り螺旋を描く廊下は果てしなく延伸している。右手側に『マイナス6号室』と銘板が掲げられた部屋が在る。同部屋のドアノブも回転しない。押しても開かぬ部屋。引いても開かぬ部屋。横開きのドアであるとかいう阿呆な榲(おち)も無い。隠し昇降装置のような存在でもない。

 同室のインターホンを鳴らす。内部から返答がある。嗄(しわが)れた声。老婆の声だ。『おこまりごとかな。』『エレベーターは何処にあるのです。』『…嗚呼。成程。成程。』女性にしては低音で,男性にしては高音な部屋の住人の声。覆盆子(ストロベリー)を大胆に腐らせたやうな声質。夜遊びの桜桃(チェリー)が息を引取る寸前の声。死戦期呼吸に近似する老婆は続ける。

 『逃げ出したいって訳だね。このマンションの地下から。だからインターホンを鳴らしたって訳だね。そうだろう。甘い。甘い。甘いねえ。思春期の白昼夢よりも甘いねえ。逃げ出せる訳がないだろう。御主人様は何でも知っていらっしゃるのさ。男性の素性も。女性の素性も。美樹ちゃんって言ったかな。あんたの両親のことも祖父母のことも高祖父母のことも全部筒抜けなんだよ。拭えぬ業(カルマ)が在るのさ。その末裔があんただって知ってるのかい。甘い。甘い。甘いねえ。雪解けを喜ぶ北狐の寝起きより甘いねえ。』

 『此処は情報館とも言われ。情報缶とも言える場所なのさ。嗚呼。同音意義語じゃあ伝わり難いだろうがね。特に偏屈(へんくつ)な男が描く歪曲(わいきょく)な小説は読みづらいからの。あんたらの情報は筒抜けなのさ。夕暮れの行末と一緒さ。逃げ出そうってかい。甘い。甘い。甘いねえ。湾岸戦争時の鳩映像。世論喚起活動(プロパガンダ)より甘いねえ。美樹。あんた尻穴で随分と感じていたじゃあないか。あんた男性の涎を喜んで飲んでいたじゃあないか。皆知っているんだよ。そんな身体で何処に向かおうっていうのさ。甘い。甘い。甘いねえ。蛋白質を経口摂取するだけで大きくなれると信じてる男児よりも甘いねえ。』

「じりじりじりじり」
「じりじりじりじり」

 『全く五月蝿(うるさい)い音だね。老体には堪えるけたたましさだよ。標的が消極的になったばっかりに常識の公式が歪んできているんじゃあないのかい。障子の張り替えを生業とする商事(しょうじ)が昭示(しょうじ)を貰えずに生死(しょうじ)の境を彷徨っているんじゃあないのかい。逃げ出せるなんて安易な考えで。さ。甘い。甘い。甘いねえ。美樹。一期一会って言葉が在るだろう。どうせ逃げられぬのならこの部屋に入ってみるかい。』

 男は頷いた。

 女も頷いた。

 後方には頚椎を好む小さな蟲。

 羽音も立てず男性の「3番」に針を突き立てる。

 『甘い。甘い。甘いねえ。』

 『割引き好きな奥方の行列より甘いねえ。』

 老婆は続ける。男の呼吸は止まっていた。

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