《瞑想小説 狩人》

瞑想

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美姫の場合

美姫の場合⑧

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 秘匿性の高い気配が金属の扉に掛かる。男の右手である事を理解する彼女の感受性に拍手を贈りたい。便宜上右手としておくが形而上では左手でも構わない。つまり想像由来のものであれば良いという話だ。猫耳を着装させた四つん這いの女性なら『前足』『後足』と送り仮名なしで表現するのも一興であると感じるが如何。

 『ぎい』と不意に音が鳴るのを聞く。冷え切った部屋は西高東低の気圧配置であるが故/隙間を貫通し通過する風音(かざおと)が圧力平衡を求めて内から外へと勢いよく飛び出した。『…誰…?』誰が来たのかが理解らない。男が声を発しないのが先ず一点。美姫からドアまでは随分と遠いことが一点。蝋燭の揺らめきが創り出す陰影が深いのが一点。寒さにより彼女は唇まで冷え切っており毛様体筋及び眼輪筋の作用が33%程失われているのが一点。以上四点の理由から焦点を合わせる事ができぬ彼女。その男が御主人様なのか第三者なのかを判別することができずに居る。

 深々と津々と身心に雪が降り積もる。一夜にして衰弱しきった彼女を介抱し開放する為に来場した男なのかどうかが問題だ。その問いの答えは彼のはっきりとした足音と,くるぶしまで丈のある靴に備えられた茨形状のシューレースで明らかになる。過去に拷問器具として使用された逸品『悶絶靴(トーチャーブーツ)』が黒々と光っているだろう。そして彼の影は長すぎる。如何に蝋燭の灯りが橙色を極めたものであったとて彼の影法師は随分と長く,優に背丈の3倍以上。

 彼は何も言わず美姫の顔を覗き込み/胸の膨らみの上下だけを確認した。『エックス』の形を模した木版に両手両足を緊縛された彼女。彼女は『生←・→死』の図形右辺には居るものの最右翼の崖には到達していない事が確認される。

 謎の来場者の右手には本が携えられている。立体的なブックカバーに紫色を基調とした曼荼羅模様が描かれている。彼にとっては美姫は生に近い存在であるのだろう。少なくとも彼よりも。少なくとも彼よりも。少なくとも今の俺よりも。そう。少なくとも今の彼よりも。そう。少なくとも今の俺よりも。総頸動脈の触知、パルスチェック、JCSの確認など現在の状況では不毛だということなのだろう。

 彼から延びる影の長さと切れ長の目に潜む孤独の香り。孤高の匂い。風の頼りをつんざく耳鳴りのような周波数。感謝と正反対に在る波動は強く高く歩道と車道の継目にすら警笛を鳴らす。勢いのある呼吸音。特に呼気だ。肋間筋及び横隔膜まで収縮させて呼吸する彼の呼気に周囲の空間が螺子曲(ねじま)がり,螺子切(ねじき)れ,螺子馬木(ねじまき)の馬は四本脚のうち半数が既に役立たずである事を識る。

 本には様々な言語で『薬草学』と書かれている。表紙には同世界線には見分できぬ疥癬の絵図。更にはそれに塗る為の軟膏のゑ豆。上端には朝に摘まれた麻模様が描かれており本の後方僻地まで横断している。

 下端には悪事に加担する飢えた獣が/牧草地の羊を追う選跿(えず)。同様に後方カバーまで横断し中央の車輪図形に吸い込まれている。見ているだけで目が眩んでしまいそうな美と悪意の集合体。急に『人間には紛いものではない良質な蛋白質が必要だ。特に男性にとってはな。これは真理の言葉。図書館の秘蔵処にも秘蔵書にも付しておく。』そんな声が聞こえてくる。いよいよどうにかなってしまったのか,とも。いよいよ全てが正常に戻る日がくるのか,とも。仏伝統芸能の涅槃地が近いのか,とも。交錯する脳内の独り言。その質が大きく変わる。彼の存在は大きく/強く/柔らかく/しなやかで/知的で/好戦的で/牧歌的な鹿(しか)と詩歌(しいか)を心の底から馬鹿にする風体であり/体躯のうち背中が最も発達している。

 鉄扉は開かれたまま閉められる事はなかった。『ぎい』の発音は一度のみ。底と表層を渦のように掻き混ぜる気流に乗る彼の右手が左胸突起を捕まえる。『ああ…ああ…』愛情の欠片もない触れ方だ。『ああ…っ』思わず彼女は顔をしかめ逆側の上方に挙げる。隙は見せるべきではなかったな。逆側の肋骨に添加される唇と死の歯列は容赦知らず。
 
 『あああ…あ…あ…っ』同時に彼は無表情のまま左手で右胸突起の桃色を摘み上げ数センチ程,自分方向へ引き寄せる。彼女の身体もそれに引かれて弓になる。麻縄は出番を承知しており彼女を後方へ引き寄せる。大事な彼の本はウエストベルトと浴衣の隙間にきっちりと収まり動かない。勿論床面に落下する事もない。待望の熱への帯同を許された彼女を襲う両手は温かいというよりは熱射のペテルギウス。両突起は直ぐに悲鳴を上げ彼女の唇もそれに続く。

 『あつ……い…』少量の湯気が周囲に立ち込める。白色矮小惑星が爆発する瞬間の収縮に似た週愁苦(しゅうしゅうく)が彼女を嬲る。締め付ける縄との相性は抜群で彼の覚悟(かくご)の削語(さくご)を宿した頁には「生←・→死」の最右辺が見える。右辺は左翼と同義である。中庸など笑わせてくれるな。退屈のまま死にゆくなど御免だ。そのように宣言する両手と奪われた突起が温度を増してゆく。

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