嫁姑戦争in異世界!

更紗

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1巻

1-2

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「クレイヴ! 何よその言い草はっ。実の母に向かってっ! そんなに嫁が大事なのっ⁉」
「当たり前じゃないか。サエは俺の愛する奥さんなんだから」
「きーっ! 昔っから可愛げのない息子なんだからっ!」
「ははは、そんなもの俺にある訳ないよ。いいじゃないか。その分サエがこんなに可愛いんだし」
「親子の会話にしれっとノロケを入れないで頂戴……」

 あ、お義母様が意気消沈してる。顔にうんざりって書いてありますよ。美人が台無しです。
 やや気の毒にも思えたけれど、秘蔵のクッキーを食べられた後だし、これが二人の親子関係でもあるので口は挟まないでおいた。元よりそんな度胸もない。ネイも黙って頷いているし。
 けれど一応、フォローだけはしておく。

「クレイヴ、お義母様をからかうのはほどほどにしてください。ずっと帰りを待ってたんですよ。もう少し構ってあげてもいいと思います」

 苦しいくらい腰元をぎゅうぎゅう締め付けてくる腕を、軽く叩きながら言うと、クレイヴは藍色の目を細めてねたように口を尖らせ頬を寄せてきた。その拍子に、彼がまとうローブの金飾りがシャラリと揺れる。
 ええ、はい。母親の前で堂々とほっぺたくっつけてくる夫に、妻は少々どぎまぎしてますよ。嬉しいですけど。

「つれないなぁ俺の奥さんは。サエは寂しいと思ってくれなかった? 俺、一週間も君に会えなかったんだよ?」
「それはまあ……寂しくなかったと言ったら嘘になりますけど……あ、それよりも、ご飯とお風呂どっちを先にしますか?」
「流された。今綺麗に流してくれたね、サエ。まあいいけど。そんなところも好きだし。ああほんと、サエが足りなくて、精神的な栄養失調を起こす寸前だったよ。あと一日延長されてたら、部下の魔導師達をなぎ倒してでも、師団長をはりつけにしてでも、帰るつもりだったんだから。サエに変な虫がついたらと思うと気が気じゃなくてさ」

 師団長をはりつけって。仮にも上司ですよね。
 物騒な文句を言う夫に、あたしは苦笑いをこぼす。

「そうならなくて良かったです。あと、あたしは異性に関してはクレイヴにしか興味ないので、そこら辺の心配は必要ありませんよ」

 相変わらず妻への評価が天空を突き抜けている夫に、嬉しく思いながらも少々呆れた。あたしなんぞに目をとめる人など、彼くらいだと思う。そういう意味でもかなり、クレイヴという夫は特殊だ。

「いいや、サエは綺麗で可愛くて最高だからね。離れてたら横からさらわれかねない。俺が君を……元の世界からさらったように」

 母親の前で、妻とほっぺたをくっつけたままクレイヴが溜息交じりに言う。
 彼はまるであたしが希少な宝石か何かみたいにたたえてくれる。正直、こういう時は照れやら申し訳なさやらを感じてしまって、ちょっと気まずい。
 だけどやっぱり、元枯れ女でもこんな風に開けっぴろげに好意を示されるのは、嬉しいものだった。

「元の世界では余り物同然だったので、結果的にはさらってもらって良かったかと。それはさておき、ずっとこうやってるのもなんですし、とりあえずご飯にしましょうか」

 言いつつ、クレイヴの腕を解こうとする。が、離れない。ううむ、と夫の顔を見てみるけれど笑顔のまま無言だ。解放してくれる気はないらしい。
 仕方がないので、彼がくっついた状態で食事の用意をすることにした。控えめに言って邪魔だが、こうやって甘えられるのも嬉しいので良しとする。引っ付きたいのは、あたしも同じだったし。

「息子がここまで嫁馬鹿だと、むかつくのを通り越して呆れるわ……サエさん、私はネイと手合わせしてくるから、クレイヴのことお願いね」
「ええ~……朝から鍛錬なんて、アタシ嫌ァヨ」
「つべこべ言わないの! 少しは私のストレス発散に付き合いなさい!」

 ふん! と鼻息荒く言うお義母様に、ネイは不服げな顔をしていたけれど、結局は渋々外へ連れ出されていった。
 ネイはお義母様のボディガードとしてつけられている獣魔で、結構長い付き合いなのだ。あたしにはパロウ、お義母様にはネイがついている形である。
 お義母様は女王様然とした見た目とは違い、かなりのスポ根気質で、暇さえあればネイを相手に剣術や体術などの鍛錬をしている。出るとこ出ているのに引き締まっている砂時計のような美しいスタイルは、その賜物たまものだろう。
 ちなみに、あたしも護身術としてお義母様に稽古けいこをつけてもらっているが、一度も勝てた試しがない。

「……にしても、ここ最近呼び出しが多いですよね。疲れてるんじゃないですか?」

 お義母様がぷりぷりしながら去った後、あたしはクレイヴの褐色かっしょくの頬に手を伸ばし、夫の顔色を確認した。ついでに背伸びして下瞼したまぶたをみよんと引っ張り、貧血になっていないかもチェックする。彼は仕事を早く片付けたいばかりに、時々自分の体調に無頓着むとんちゃくになるので、帰宅の際はこうして健康チェックをしているのだ。
 髪の毛はぱさついてないか、と藍色の頭に指先を伸ばすと、触りやすいようにクレイヴが少し屈んでくれた。
 長めの前髪をわしゃわしゃしても彼はされるがままで、ちょっとくすぐったそうにしている。
 うん、目の輝きも血色も良いし、体調は大丈夫そう。
 それにしても相変わらずまつげ長いなー。うらやましい。
 夫の健康チェックを終え、安堵しつつ女性顔負けの綺麗な造形を眺める。すると、その表情が申し訳なさげなものに変わり、あたしはあら? と首を傾げた。

「最近ずっと仕事ばかりでごめん。お願いだから愛想つかさないで。君に嫌われたら俺、生きていけない」

 クレイヴは形の良い眉をこれでもかと下げて、あたしの腰をぎゅうううっと強く抱いてくる。
 って、ぐええ。死ぬ死ぬ。抱き締めるっていうか絞め殺すだからこれ。夫の抱擁ほうようが辛過ぎます。愛があるからでは片付けられない腕力の強さです。魔導師って文系だった筈では。

「きらっ……たりはっ……しない、です……けどっ」

 息も絶え絶えになりつつフォローをすれば、若干腕の力が緩められた。おかげで呼吸が楽になる。
 大きく息を吸い込むと、鼻腔に夫の匂いの他、常とは違う甘い花と土のような香りを感じた。改めて気付いたそれに一瞬疑問符が浮かぶも、にこーっと妙に凄みのある笑顔を向けられたせいで思考が立ち消え、思わずびくつく。

「それは良かった。サエに嫌いなんて言われた日には、俺も何をするかわからないし助かるよ」

 何って、一体ナニするおつもりなんですかね、ダンナサマ。黒いっていうかくらいっていうか、恐ろしい気配が感じ取れた気がするのですが。季節は春の筈なんですけど、背筋に寒気が走りました。おかしいな。
 少々不穏な空気をはらんだ夫の言葉に、内心冷や汗を掻きつつ、へらへら笑って誤魔化した。
 出会った時から、結婚一年を迎えた今に至るまで、クレイヴは時折どきっとするような言葉を口にする。どこまでが本気かわからないけれど、嬉しいと思う反面、ちょっと溺愛が過ぎるなと思う時もあった。

「ええと、はぐれ獣魔の方はどうだったんですか?」
「ああ……」

 話を変えようと、無理矢理元の話題に軌道修正してみた。また戻されるかと思ったのに、意外にも渋い顔をしつつ乗ってくれてほっとする。
 一週間ぶりの再会だもの。ゆったり夫婦の会話だってしたいし、何より夫の近況くらい妻として知っておきたい気持ちもあった。

「それが……獣魔は無事討伐できたんだけど、最近は妙に活性化してるみたいでね。大元となる獣魔獣じゅうまじゅうは封印されてるのに、なんでだろ」

 クレイヴがあたしの肩に頭を置いてうーんとうなる。おかげで吐息が耳にあたって、少しくすぐったい。
 が、活性化という言葉を聞いて、あたしもあれ? と首を傾げた。
 彼の話にあった獣魔というのは、この世界にあたしがばれた原因そのものである。
 この世界では、不思議なことに人間の負の感情――憎悪や嫉妬しっと、嫌悪などの悪感情が人の精神から切り離され、負の魔力となって実体化するという現象が起こる。
 それらは最初は黒いもや状だが、人よりも自我が弱い存在、つまり獣などに出会うと、幽霊や妖怪のごとく取りき、形態を変化させ獣魔という凶暴な魔物にしてしまうのだ。
 太古より、皇国ティレファスを含めこの世界の人達は、獣魔の存在に命をおびやかされながら生きてきたという。
 それを作り出すのが人間自身、っていうところがなんとも皮肉な、結構物騒な世界である。
 とまあそんな中、獣魔を討伐し人々を守り、今現在もそのお仕事に励んでくれているのが、クレイヴ達魔導師や、皇国騎士団の方々だ。
 彼らは魔力を持たない一般の人達のために、定期的に見回りや掃討を行っている。
 そのかいもあり、普段、森深くや魔導師の結界外にいる獣魔達が街中に出てくるなんてことはまずなかった。
 過去形なのは、数年前に変化があったから。あたしが転移する前の話である。
 突如として、それまでにない強力な力を持った一匹の獣魔が発生し、保たれていた均衡を大きく崩したのだ。
 人々はそれを獣魔獣じゅうまじゅうと名付け、恐れた。
 魔導師や騎士が束になってもかなわず、諦めかけていた頃。皇国の史実や伝承を調べていたある魔導師が、古き記録から一つの記述を発見したのである。それは太古の昔、同じく強力な獣魔が発生した際にも取られた秘策であった。
 その策とは『異なる世界より、鍵となるべき存在をびよせ、封印せよ』というもの。
 そんな訳で――異世界、つまり日本にひょっこり現れたクレイヴによって、鍵の適合者だったあたしが連れてこられたのだ。
 あたしが何故その鍵なのかについては、クレイヴいわく「だってそう感じたから」という、よくわからない理由だったので詳細は不明。
 ともあれ、二年前に鍵としてクレイヴに異世界転移させられたあたしは、元の世界でブームとなっていたファンタジー小説のように「異世界に召喚され、チート勇者となってボスと戦う!」なんて鉄板をする訳でもなく、何の力もないまま、ただその場にいるだけで封印の役に立つ便利道具となったのである。
 あ、ちなみにあたしは封印時、獣魔獣じゅうまじゅうの姿は見ていません。封印石がおにぎり型のでっかい石だったのは見ましたが。
 というのもクレイヴになぜか目隠しされていたからです。意味わからないですね。でも見ちゃ駄目って言われたので仕方がないです。あたしとしても、ギーズなんて規格外サイズのミミズがいる世界において、最も恐れられる獣を直視する勇気はありませんでしたので良しとしました。
 一度だけ見たはぐれ獣魔だって、牙とかが巨大でどえらい怖かったですし。なので、獣魔獣じゅうまじゅうを見たのは封印石に入った後、単なる巨石になった姿のみです。
 それだけでもかなりやばそうな存在感を放ってましたから、つくづく自分がただの鍵で良かったと、胸を撫で下ろしたものです。
 もう二十三歳でしたし、少年誌的なスポ根というかバトルとか胸熱展開は特に求めていなかったので。いや、見るのは好きなんですが、当事者は勘弁です。希望は傍観者とかモブです……って話が盛大に逸れていました。その上、夫の頬ずり攻撃がやんでません。ほっぺた削れそうです。

「確か……獣魔獣じゅうまじゅうを封印したおかげで、獣魔の発生率は下がってた筈ですよね?」

 軽くこれまでのことをおさらいしつつ、当時聞いていた話を持ち出せば、クレイヴは形良いあごをあたしの肩にのせ、珍しく小さな溜息をついた。
 ちょ、あの、耳元でそれをやられると大変困るのですが。背筋がびくってしました。あと髪がくすぐったいです。

「そうそう、そうなんだよー……。なのに今回はやたらと多く湧いていてね……かといって、君が手伝ってくれた封印にほころびがある訳でもなし、ちゃんと封印石の中で獣魔獣じゅうまじゅうは眠ってたんだ」
「確認しに行ったんですか?」

 問いかけに、クレイヴが頬ずりを軽いキスに変えて、「まあね」と答えた。
 ぎゃあああ! だからくすぐったいですってっ。あと恥ずかしいからやーめーてーっ。
 ……にしても、封印石の確認にまで行ったなんて、事は結構大事おおごとなようである。
 一年前に獣魔獣じゅうまじゅうを封印した巨石は現在、皇国の神殿内に保管されている。変化があれば神殿から連絡が来る手筈になっているそうだけど……特に異状はなかったのだとか。
 それを聞いて少しほっとする。この世界に来た当初は、獣魔絡みの凄惨せいさんな話も多く耳にしたから。

「一応、封印の強化はしておいたけどね。こう頻繁になってくると、いい加減に出勤拒否したくなるよ」
「気持ちはわかりますが、せめて欠勤連絡だけは入れてあげてくださいね。他の魔導師さん達が困るといけないので」
「サエって本当に真面目だよね……そんなところも可愛いけれど」

 報連相ほうれんそうは社会人の常識である。あとは日本人としての気質かもしれない。苦笑していたら夫にごろごろと猫のように甘えられて、ちょっと嬉しくなった。
 しかし、夫がラスボスを倒してくれたのは良いものの、あたしにとっての人生のラスボス(勿論レイリアお義母様のことですよ)とはハッピーエンドの後にエンカウントしたのだから、獣魔のことを含め、物事はそう上手くいかないものなんだろう。


「――さて、食事も取ったし身も清めたし。やっと一息つけたよ」
「で、ですね……っ」

 クレイヴの遅めの朝食が終わり、その後片付けも済んだお昼過ぎ。あたし達は夫婦の寝室へと移動していた。
 窓際で、んーっと伸びをしたクレイヴが大きく息を吐き、吹き込む風が彼の濡れた髪をなびかせている。硝子ガラス越しの青に、濃い藍色のコントラストが美しい。
 魔術を使えば一瞬で乾かすこともできるのに、こうして自然に乾かす方が好きなんだとか。
 肌は湯上がりのためかほんの少し上気していて、男性とは思えない色気を放っている。我が夫ながら、ここまで美丈夫という言葉を体現している人は他にいないのではないかと思うほどだ。
 格子窓から差し込む真昼の太陽が、絨毯じゅうたんに白いタイル模様を描き、足下がぽかぽかと温かい。
 パロウならすぐに丸くなってしまいそうな陽気である。
 絶好のお昼寝日和びより。ベッドはすぐそこ。
 隣には、水もしたたる美形様。なんだかそわそわしてしまっても仕方がない気がするのだけど、如何いかがだろうか。
 クレイヴの「ご飯を食べたらサエと部屋でゆっくりしたいなぁ」という鶴の一声により、あたしまで寝室に連行されてしまったけれど、そもそもこれがいけない。夫と寝室で二人きり……しかも久しぶりとくれば、こんな気分になってもしょうがないと思うのだ。
 いや、あたしの頭がアレなだけなんでしょうか……
 大きな格子窓の前、吹き込む風で涼を取るクレイヴの隣に立っているせいか、湯上がりの良い香りが鼻先をかすめて、何とも言えない気分になる。
 伏せた長いまつげや、高い鼻梁びりょうの目立つ精悍せいかんな横顔に、つい見とれてしまう。
 今は魔導師としての礼服ではなく、簡素な黒いシャツとズボンという格好なのに、優美さは少しも損なわれていないから不思議だ。むしろ身を包むローブがなくなった分、均整の取れた逞しい身体の線があらわになって、見ていると妙に緊張してくる。
 いやまて、今は昼だ、静まれ、と思わずみずからに言い聞かせてしまうほどで、いつになったら自分は慣れるのか、と呆れた。
 美人は三日で飽きるというけれど、あれ絶対に嘘なんじゃないかなと思う。

「あ、今ネイが母さんに吹っ飛ばされた」
「え」
「大丈夫、反動で今度は飛び込んでいったから」
「相変わらず激しいですね……」

 格子窓の外に目をやっていたクレイヴがふっと笑って呟く。どうやらお義母様とネイがまだ鍛錬を続けているらしい。窓に近づいてみると、青い空の下、広がる緑の上で剣をぶつけるあかと銀の二色が見えた。
 いや、見えたって言っていいのかな、あれ。尋常じゃない速さだけど、走ってるっていうより飛んでますけど。
 鍛錬と言うより決闘じゃないのか。あ、お義母様がネイの頭を飛び越えた。どんな脚力よ。
 二人の頭を見下ろしながら、あたしは感嘆と呆れの混じった複雑な溜息をついた。
 あたし達夫婦の寝室は二階にあり、部屋の窓からはちょうど屋敷の外庭が見える。
 オルダイア家の屋敷には大小様々な部屋があって、あたしも詳しくは把握していないが、規模としてはお城ぐらいの広大さがある。確か昔、東京ドームが約五ヘクタールくらいだと聞いたことがあるけれど、庭を含めればその倍はあると見ていいだろうか。
 まあ簡単に言えば、無茶苦茶広くて、でっかいのだ。
 あたしも普段使う部屋しか行き来しないし、探検なんてした日には迷子になること確実なので、無謀なチャレンジには挑んでいない。
 外観は……うーん、かの有名な魔法学校を思い浮かべてもらうといいかもしれない。屋根は三角ではなく半円状で、階段は動かないし、壁に飾った肖像画もしゃべったりはしないけれど。
 ともあれ、そんな広い家の数ある部屋の一つが、あたしとクレイヴの寝室になっている。室内には重厚なアンティークの家具が備えられていて、天井には「硝子ガラス細工を何個使ってますか? おいくらですか?」とそろばんを弾きたくなるようなきらびやかなシャンデリア。
 ちなみに、普通の家は油を用いたランプなどで部屋を照らすそうだけど、このオルダイア家ではヴルガお義父様が作ったという魔術洋燈リュミエールが至る場所に取り付けられていて、クレイヴが帰宅するたびに魔力を供給してくれている。しかも自動点灯式。豪華な見た目に反して電気いらずの超絶エコライフだ。
 この魔力供給、クレイヴ本人の身体の負担にならないか聞いたところ、寝たら戻るからという回答だった。
 魔術って便利だなぁとつくづく思ったもんです。温暖化とかなさそうだもの。空気は綺麗だし緑は多いし。獣魔のことさえなければ、この世界は楽園とすら言えるだろう。

「毎日やってるんだから母さんも飽きないよね。俺は少しでも時間があるなら、サエと二人でいたいけど」
「またまた」

 窓の外を眺めていた夫が、こちらへ振り向く。普段と同じ軽口かと思っていたのに、次の瞬間向けられた瞳にどきりとした。

「……本当だよ。仕事だって、サエといるためにしている。俺の行動の全ては、君が理由だ」

 あたしの方に身体を向けて、一歩踏み込んだクレイヴがゆっくりと、だけどきっぱりと言い切る。
 瞳の中には悪戯いたずらな、なのに真剣さも感じられる光があって、ぐっと胸をかれた気がした。

「そ、そそそ、れは、ありがとうございますっ……?」
「はは、どうしてそこでお礼なのかな。嬉しいけど。まあいいや……おいで、サエ」
「わっ」

 クレイヴは先ほどまで大量の食事を平らげていたとは思えない優雅な仕草で、おいでの「で」を言い切る前にあたしの手を掴み、引き寄せた。
 そしてそのまま、真綿でくるむようにふわりと両腕で抱き込んでくる。
 あたしの身体が、すっぽりとクレイヴの腕の中に収まった。

「改めて。ただいま……サエ」
「はい、お帰りなさいクレイヴ。それと、お仕事お疲れ様でした」
「ん、ありがとう」

 クレイヴの大きな手が、あたしの後頭部を撫でる。
 少々強引な抱き寄せ方だったのに、触れるてのひらは優しく温かい。布越しの彼の体温に、あたしは自分の熱が上がっていくのを感じていた。なんていうか、気恥ずかしくて、こそばゆい。
 だって考えてもみてほしい。こんな美形が、自分の身体を抱いているのだ。悶絶もんぜつする以外に何ができようか。
 薄いシャツ越しにある引き締まった胸板は、大胸筋の形をありありと表しているし、腹筋は硬く、うっすら割れているのがわかる。ある程度は鍛えてるんだ、と前に聞いてはいたけれど、顔が良いだけでなく脱いだら凄いなんて。我が夫ながらけしからん。

「また思考を飛ばして俺を置いてけぼりにしてるね? いつまで経っても、サエは慣れないよね。そこが可愛いけど」

 あれこれ考えて夫の色気から思考を離そうとしていたのがばれたのか、彼が耳元でくすくす笑い声をこぼした。服越しに触れたクレイヴの胸板が、その振動で少し揺れる。
 ぎゃああ、やめてくだされっ。耳に息を直接吹き込むのはっ。顔が、顔が爆発するーっ! 
 ただでさえハグされてて、密着度が半端はんぱないのにっ! 
 一週間ぶりなんだから、せめて妻に心の準備時間をくださいよっ! 
 昼間っからだだ甘い空気と色気を垂れ流す夫に、あたしは口を魚のようにぱくぱくと開閉させた。
 この世界に来て二年。クレイヴとは一年の交際期間をて結婚している。
 なのでまあ色々と……恋人同士の経験も、夫婦としての経験も済んではいるものの、どうにもこうにも、この魅力過多な夫を前にすると、まだまだあたしはテンパってしまう。
 なんとかしたいと思ってはいるが、性分なので致し方ないという有様だ。
 元の世界でさほど異性と関わりがなかったことも影響しているのかもしれない。クレイヴに関しては、OL時代の先輩だったお姉様方ですら、少女のように頬を染めそうな気はするが。

「夫婦水入らず……っていうのもしたいけど、愛しい奥さんに離れていたお詫びをしておかないとね」

 ぎゅうぎゅう抱き締めていた腕を緩めて、クレイヴは右手に黒い一角獣の錫杖しゃくじょうを出現させると、中空に一文字を描き、シャンッと打ち鳴らした。
 途端、昼間の室内が満点の星空に様変わりする。
 空気は一気に静けさと夜の気配をまとい、優しい風が、頬をふわりと撫でていく。
 空間転移。いつもながら、もの凄い芸当だ。
 空一面と言わず、右も左も、足下までも星の海。深い紺藍こんあいの夜空に浮かぶ無数の銀色のまたたきを見ていると、さながら星のヴェールに包まれているように思える。
 時間帯が変わっていることからして、恐らくどこか遠方に転移したのだろう。時差がある国まで、星を見に「ちょっとそこまで」ができるのは、やっぱり異世界様々だと思う。
 ロマンチックとか、ファンタジーっぽいとかの言葉では言い表せないくらいに壮麗な天然のプラネタリウムを前に、あたしは歓声を上げた。

「わぁ……! 素敵……!」

 幻想的な光景に夢中になるあたしを見て、クレイヴが微笑む。

「気に入ってもらえて良かった。この地方だと今の季節は特に星が綺麗だからね。帰ったらサエと一緒に見たいと思ってたんだ。……ほら、下を見てごらん。ここには巨大な湖が広がっていて、風がなければこうして鏡面みたいに空を映し出すんだ」

 クレイヴが、満足そうに目を細めながら足下を示す。そこには頭上と同じ、光る砂を振りまいたような星空が広がっていた。かつて日本にいた時にテレビで見た、塩の湖を彷彿ほうふつとさせる天空の鏡の姿に、賞賛以外の言葉が出なくなる。

「凄く、凄く綺麗です……!」

 わ、わ、と両手で頬を押さえ感嘆の溜息をつくと、クレイヴがくすくす笑いつつ、「サエは素直で可愛いね」と、また赤面しそうな台詞せりふを口にした。
 が、言われているあたしは正直、目の前の光景で感情が手一杯である。
 絵にも描けない美しさという言葉を聞いたことがあるけれど、まさにそれだろう。
 かつて日本でOLをしていた頃、綺麗な景色に憧れるだけだったことを思うと、感動すら覚える。以前は世界の絶景だとか、死ぬまでに行くべき場所だとか、そういうのを画面越しに見るたび憧憬どうけいを抱き、しかし経済的にも時間的にも諦めていた。仕送りをしていた身では海外どころか国内ですら、旅行することは叶わなかったからだ。
 あの当時見ていた美しい景色といえば、深夜、残業あがりに自転車で仰ぎ見た夜桜くらいだろうか。街灯に照らされた淡い色はとても綺麗だったけれど、一人で寂しくなかったと言えば嘘になる。
 だけど今はそうじゃない。この美しい光景を、一緒に見てくれる人がいる。それが本当に嬉しい。

「元の世界にいた時も、こんな風に綺麗な景色を見に行きたいと思ってました。でも叶わなくて……今はこうしてクレイヴと一緒に見られるのが、凄く嬉しいです」

 正直に気持ちを吐露とろすれば、身体を抱く腕にぐっと力が込められた。見ると、クレイヴの整った彫りの深い顔が、これまでにないくらい破顔している。長いまつげ縁取ふちどられた藍の瞳が、じっとこちらを見つめていた。

「俺も、俺も嬉しい。何よりサエがいてくれることが。君が俺の妻であることが、何より幸せだ。まさか自分の生に、こんなご褒美ほうびがあるなんて思わなかった」

 そう告げた後、クレイヴは顔を寄せ、あたしのひたいに軽い口付けを落とした。触れるだけの優しいものだったのに、その部分が燃えたように熱くなる。

「寒くない?」
「だ、大丈夫です。クレイヴとくっついてるから、暖かいです」

 にっこりとつややかに微笑む夫に、どぎまぎしつつ誤魔化すみたいに答える。
 恐らく魔術で周囲の温度を調節してくれているのだろう。寒くはなかったけれど、少しでも彼に触れていたくて、くっついたままでいる。そんなあたしの考えを察したのか、クレイヴがふっと笑みを深めた。
 彼の藍色の瞳に、まつげの影が落ちる。
 濃く深い褐色かっしょくの肌が、星の明かりに照らされなまめかしく輝いていた。

「サエ、最近は呼び出しが多くてごめん。寂しい思いをさせたかな」

 夜空よりあざやかな藍の瞳が、申し訳なさそうにじっとあたしを覗き込む。

「寂しくなかったって言ったら嘘になりますが、お義母様もパロウ達もいるし、大丈夫です」
「それは俺が寂しいな。俺はサエがいないと、一日だって平常じゃいられないのに」

 あたしの返答がお気に召さなかったのか、クレイヴは子供みたいに唇を尖らせて呟いた。そんな夫の仕草にくすくす笑いながら、あたしは腰を抱く手に自分のてのひらを重ねる。

「また大袈裟おおげさな」
「本当だよ……もし君が元の世界に帰りたいなんて言ったら、俺はサエを閉じ込めてしまうかもしれない」
「えええ」

 甘いを通り越してちょっと不穏な台詞せりふに声を上げると、もう一度本当だよ、と笑って言われた。


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