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12,靄

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 隣の壱夏がバッドの入った細長い鞄を振り上げた。
 反射的に、僕は壱夏の胴にしがみつく。
「ストップ!」
 彼が何をしようとしているのか、予想ができたから。
「待って! 待ってあげて!!」

 閑散とした公園でよかった。何もない花壇に向かって鞄を振り下ろそうとするお面の子どもと、それを必死にとめる僕。端からどう見えるかなんて考えるのも怖い!
 しかし僕の制止にかかわらず、壱夏は鞄を振り下ろす。

 下敷きになった花はぐじゃぐじゃに潰れ、突かれた土は辺りに飛び散った。風圧に、頼りない花の茎が揺れる。いくつもの花びらが、つむじ風に巻かれて宙をのぼった。
 僕は呆然とそれを見送った。

「……今」
 低く呟く猿の視線が、地面から宙にあがる。ちょうど、大人が目の前に立ってるあたりに。
「手を、伸ばしたな」

 次の瞬間、壱夏が面を外した。鋭く尖る目の見据える先が、2階、3階へとあがっていく。僕もつられてマンションの外壁を見た。
 けれども、何も見えない。
「い、壱夏……?」
 そろりと呼びかけると、しがみついたままの少年が、笑った。

「―――――ち、ーーけた……」

 それは、無邪気な、わずかな伸びを伴う言葉。遊び終わった子が言うかもしれない、そんなありふれたフレーズで。
 ふっと陽が陰った。
 雲が太陽を隠したのかと思って瞬きした僕は、いくつもの窓が並んだ壁を見て息を飲んだ。

 凄まじい速さで、黒い影が直角の外壁を昇っていく。四つん這いで蠢くそれは手がやけに長く、首をねじ曲げ、歪な体で歪な軌道を描きながら、上階を目指して進んでいた。
 けれど僕が呼吸を止めるほど驚いたのは、彼の存在ではない。

 『それ』を、数十倍はある山椒魚のような姿の靄が追っていたからだ。

 霞むようにぼやけたその形を認識した瞬間に、全身の毛穴が開いた。
 どっと汗が噴き出す。歯の根が合わず、初夏の温かな気候の中なのに、震えが止まらない。
 おぞましい。自分の全身が『山椒魚』に拒否反応を示していた。
 きっと、大量のウジやゴキブリの沸いた肉を見てもこんな気持ちにはならないはずだ。それほど強烈な、嫌悪感。
(こ、こにいたくない……っ)
 凍りついたように体が動かない。もし動くなら、目を閉じて耳を塞ぐことができるのにそれすら。

 あぁあぁあぁうぁぁあ。春夜の猫のような声で叫ぶ何かが、男の影を追って壁をゆっくりのぼっていく。
 獲物を嬲るようにゆっくり動いていた山椒魚が、男に追いつく。2つが同化する。
 わずかに、遅れて。何か太細さまざまな枝を折るような音と、大量の水を撒き散らす音、聞き取れない声で叫ぶ悲鳴が、頭の中に響いた。







 花壇の前に何かの祭壇がつくられる。
 三段の棚と、しめ縄となにかよく分からないお供え物。その前で、和装に着替えた壱夏がよく響く声で何かを唱えている。マンションの人たちだろう、後ろに並んだ大人達は神妙な顔でそれを聞いている。

 車に戻っていた僕は、なんだか笑い出したい気持ちでそれを見ていた。
 何を真剣にしているのか。あのマンションに、もう怖いものはいないのに。

 耳の奥に響いた悲鳴を思い出して吐き気がぶり返し。僕は改めて後部座席に横になって、水滴の浮かぶペットボトルを額にのせた。

 一時間ほど前の事を思い出す。
 山椒魚の『食事』を見た僕は気分が悪くなってその場で吐いた。出すものを出し切って顔を上げた時には、もう靄は消えていて太陽も元通り。背中をずっと擦ってくれていた壱夏は無言で手錠を外し、僕を車のところまで連れて行った。
 スペアキーを取り出して扉をあけ、後部座席に座るよう誘導する。
「…………」
 ここまでずっと2人とも無言だった。
 壱夏は猿のお面を被りなおしてしまったし、僕は僕で影とか靄とか、聞きたいことは色々あったけれど―――――盛大に吐いてしまった手前、少しどころじゃなく気まずい。
 気分が悪いことを心の中で言い訳にして、うつむいていると。

 ぺとりと、冷えた手が額につけられた。

 とても冷たい、柔らかいそれ。髪の生え際から目を覆うくらいの、意外と大きい手だ。
 目の前が暗くなる。けれど額に当たる人の気配に、僕はそこでようやく呼吸を思い出した。

「壱夏様、淳平様?」
 知った声がかかって、手が離れる。目を開けると、まなさんが、後ろに年配の夫婦を伴ってそこにいた。大きな目をさらに大きくしていた彼女は、座席に座ったままの僕と立っている壱夏を見比べた。
 そこで。
「ま、まさかこのマンションが何か……っすみません、すみません」
 まなさんの後ろにいる、女性が顔を真っ青にして前に出る。何度も頭を下げられて、僕の方が面食らった。年はいくつくらいだろう。涙が流れる頬や目尻には皺が目立ち、痩せて枯れ木のようになった手が震えていた。
 よさないか、と男の人が女性の肩に手を置いた。
「すみません。一人目の自殺者が出てからずっと騒ぎ立てられていまして、……」

 衰弱しきった様子で、彼が言葉を濁す。

「こちらのマンションのオーナー夫妻です。どうされますか」
 猿のお面の少年にまなさんが問う。
「僕は平気だから」
 それを受けて、身じろぎした壱夏が何かを言う前に、僕はその体を押し出した。
 お面は、しばらくじっと僕の顔を見てから、言った。
「鍵は絶対に閉めてろよ」
「僕の方が年上だってわかってる?」
 小さい子どもに言うような台詞に、軽く笑ってしまった。

 車のドアを閉める。恐縮した様子の夫婦と壱夏が何か話していたけれど、扉越しには聞こえなかった。
 1人になると気持ち悪さがぶり返してきて、僕は後部座席で横になって小さく丸まった。
 コンコン
 外からノックされる音がした。やっとのことで顔を上げると、すぐにまなさんが扉を開けて、冷たいペットボトルを額にあててくれた。
「具合はどうですか」
「ふかふかソファのおかげで大分マシです……」
 わずかに頭を動かす。ひんやりとしたペットボトルの中の液体が、ちゃぽんと揺れた。
「見ましたか」
「……見ました」

 何が、とは言わないがそれだけで通じた。
 まなさんは何か言いたげに、小さな唇を開いて―――――閉じた。

「すみません。これから『儀式』をしなければいけなくて……」
「大丈夫ですよ、待ってますから、気にしないでください」
 なんだか熱っぽい頭でそう返す。
「鍵は必ず閉めて下さいね」
「それ壱夏からも言われました」
 音がしない丁寧な動作で、車のドアが閉まった。
 窓の外ではいろんな人が忙しなく『儀式』の準備をしていた。




 最後の断末魔の悲鳴が耳にこびりついている。
 いなくなってよかったんだと、僕は自分に言い聞かせた。
 マンションのオーナー夫婦のためにも、今、祭壇の前で拝んでいる住人のためにも。
 影の男に、同情なんてしていない。
 大丈夫だ。だから。
(……そんなに、泣きそうな顔するなよ)

 吐いてから、車に戻るまでずっと、顔を強ばらせていた壱夏が頭を過ぎる。その顔に呼びかけて、僕はまどろみの中に落ちた。 
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