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11,花壇の影

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 案件、と書かれた紙をめくると、一枚の写真が挟まっていた。少し年季の入った、けれど綺麗なマンションの写真が。

 『飛び降りマンション』。
 6年前、このマンションに一人暮らししていた男が、自室のベランダから飛び降りた。事が起こったのは真夜中のことで、住民は誰もそのことに気づかぬまま、翌日男は遺体で発見されたという。
 遺書もなく、結局投身した理由は分からなかったが、警察は自殺と処理し遺族が部屋を引き取った……ところから異変が起こる。

 何度も、同じベランダからその男が下り続けてるのだ。

 姿を見た者は数知れない。あるときは黒い影で、あるときは、真っ白い顔を窓越しに覗かせながら男は下へとおりていく。
 気味が悪いと、当然ながら住民の引っ越しが相次いだ。困ったオーナー夫婦が寺社に頼み、お祓いをしたところ、男の飛び降りる姿はなくなったという。築15年経っているが、補修を小まめに行って大切にしてきたマンションだ、これでもう安心と彼らはほっと胸をなでおろした。

 しかし、一ヶ月ほど経った頃、2人目の自殺者が出た。
 マンションとはなんの縁もない人間で、住んでいるところも駅で2つほど違う。けれど、偶然にも部屋の定期点検で業者の者がドアを開けていたその間に部屋に入った彼は、1人目の男と全く同じ場所から身を投げたのだった。

 その頃から、再び男がおりる姿を見かけるようになった。しかも、以前は無表情に近いどこか悲痛な顔だったのに、必ずこちらを見て笑っているという。
 それが、全ての部屋から見えるのだ。
 お祓いをした寺社の者にもう一度お願いしたが、様子を見て手に負えないと夫婦に告げた後、行方が知れなくなった。
 飛び降りる男の顔は、日を増すごとに笑みを深くしていく。楽しくて仕方がないというように。引っ越しは加速度的に増えた。事情があって残っている者も、カーテンは必ず閉めているという。




 まなさんから渡された書類を読む。黒塗りの車の中は、静かで走行音しか聞こえない。ぱらり、と僕が紙をめくる音がやけに大きく聞こえた。
 これ、大丈夫なのだろうか。
 ちらりと隣に座る壱夏を見ると、彼は無表情に外の景色を眺めていた。まったくこちらを見ようとしない。
 家を出て車に乗せられてから、ずっとこの調子だ。

 じゃら。

「……」
 紙をもう1枚めくったところで、手首についた枷に繋がる、細い鎖が音を出した。
 片方は、壱夏の左手に繋がるそれ。
「…………」
 もう一度、隣に座っているのに目を合わそうともしない壱夏を見る。
 これ見よがしに、鎖ごと手首を振ってみるけど反応はない。
 僕は書類を膝に置いて、枷を引っ張った。しかし、どんなに力を入れても金属部分はびくともしない。
「淳平様」
「なん、です、か!まなさん!」
「鎖を引っ張らないのですか?」
「千切れたら、使えなくなると、思って!」
「お気遣いありがとうございます。ですが、暴れる依頼者に使う特別仕様ですのでご安心を。変に力を入れると怪我しますよ?」
 バックミラー越しに目が合ったまなさんが、可愛らしく小首を傾げて、恐ろしいことを言った。
「外してもらえませんか!?」
「今回の依頼は結構危険なところなので……」

 それはこの依頼書を見ればなんとなく察する。だから。

「家で待ってるって言ってるのに……」
「すみません、妥協案ということで」
 今朝、黙って行こうとしたことで、信用が無くなった結果である。確かに、きちんと話さずに逃げようとしたことは事実だけど、この扱いは……犬か。
 恨みがましく壱夏を見るが、彼はまるで僕なんていないかのように視線をそっぽにむけたままだった。







 たどり着いたのは、見上げるほど高い8階建てのマンション。
 西洋風の、お洒落なエントランスで車は停止した。書類で見た先入観からか、閑散とした玄関前のためか、降り出しそうな空と相まって、どこか寒々しい。
「どうぞ」
 運転席から下りたまなさんが壱夏側の扉を開けた。
 初夏の風が車内に入ってくる。下りる壱夏に引かれて、手の鎖がぴんと張る。僕は、その無言の合図に観念して引きずられるように外に出た。

「それでは私はオーナーと話してきますので」
 ドアはロックせず、まなさんが柔らかい微笑みと共に踵を返す。
「ふぁ」
 思わず笑顔で手を振ってしまったところで、隣に立つ壱夏があくびをした。

 まなさんもいなくなったことだし、問答無用でここまで連れてきた奴に、文句の1つでもと思って壱夏を見て――――僕は動きを止めた。

 いつの間にか、壱夏があの木製の猿のお面をつけていたから。
 服は普通の、白いシャツにズボンと上着。それに愛嬌のある猿の顔が相まって、なんというか。
 胡散臭い。
「何でお面?」
 思わず聞けば、猿がこちらを見る。
 妙な威圧感に僕は思わずたじろいだ。しかもまだ拗ねているのか、無言のままだからちょっと怖い。
 もう、勝手にしろ!
「別に言いたくなきゃ」
「猿に始まり狐に終わるから」

 お面の奥から、少しくぐもった壱夏の声。久しぶり、といっても数時間ぶりくらいだが、会話が成立したことに、知らず僕はほっと肩の力を抜いた。

「……何それ」
「狂言。マスクにサングラスよりは、ご利益ありそうだろ」
 聞くと、これにはあっさり返事があった。
 確かに言われてみれば、そういうところで使われそうなお面だ。妙なリアルさと最大限にデフォルメされた表情。なにより、漂う重み。
 しかし。
「ご利益ぅ……?」
 その状態でバットのケースを背負い直した壱夏は、どう見ても不審者である。
 明らかに子どもだという背丈でなければ――――、いや今の段階でも通報されて文句は言えない。

 拝み屋としての、衣装みたいなものかと思う。でも、それっぽい着物は着てないし、彼の性格上虚仮威しのような真似をするだろうか。

 そこまで考えて、違う理由が閃いた。
 『マスクやサングラスよりは』。
 つまり、前提はいわくありげなお面を相手に見せることじゃなく。

「顔を隠す必要があるってこと?」


 猿顔の少年は、ほんの少し沈黙して、肩を竦めた。

「悪霊を祓う霊感少年、その上顔が良いんじゃ世間様が放っとかないだろ?」
「そうですね!」
 悪びれなく言い切った壱夏に、凡人が反論できるわけもなく。腹立ちまぎれに同意したところで、彼は外壁にそって歩き出した。
「ちょ、……あーもう!」
 もちろん繋がれた僕も、その背中を追うはめになる。

 村ではまずお目にかかれない高さを眺めつつ、裏手に回る。渡された書類によると、男が飛び降りたのは建物の横の花壇のところ。
 行ってみれば今もそこにはいろんな花が咲いていて。手入れの行き届いた様子を見れば、オーナー夫婦がこのマンションをいかに大事にしているのかが伝わってきた。
 土が見えないほど、幾重にも重なる花弁と葉。僕は思わずそっとその1つに手を伸ばした。


 死にたいと。
 ここと違うところへ行きたいと願って飛び降りたのに、同じ場所に居続けなければならないなんて、どんな気持ちなのだろうか。


「うわ!?」
 ひやりとした体温と共に、急に視界が真っ暗になって、僕は悲鳴を上げた。

「間違っても、同情なんて向けるなよ」

 後ろから、そんな言葉が聞こえた。
 壱夏に目隠しをされた手を掴んで、言われたことを反芻する。同情、誰に。僕はさっき何を考えて。

 その時、上から生ぬるい風が吹いた。
 どさ。すぐ前に重い袋が落ちたような音。

「死んだ方が楽だなんて、誰が言ったんだか」
 息を飲んで硬直している間に、手が外れて視界の明るさが戻ってくる。暗闇と陽光。その2つが混じるわずかな一瞬だけ、花壇の草花を押しつぶすように横たわる黒い塊が見えた。
 様な気がした。

「……」
 でも瞬きをして凝視してもそこには何もない。誰もいない。ただ花が咲いているだけだ。
 けれど、ぞくりと鳥肌が立つ。

 もしかして今、目の前に、落ちた?
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