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8,ほっさん

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「う、わ……」
 車から出て、思わずそんな声が出た。

 大きな正面門から入ったところに立つ。左右を見ても果てが見えない塀が、ぐるりと敷地を囲んでいた。
 白い砂利を敷いた地面。日本庭園のような整理された庭。松の木。そして荘厳な母屋。他にもいくつかの建物。見えるだけで片手分ある白漆喰の蔵が、夕暮れに紅く染まっていた。

 一歩、前に出る。汚れひとつもない玉砂利が、靴の下で音を立てた。
「何ぼーっとしてんの。こっち」
 遅れて車から降りた壱夏が、ぽかんと口を開けている僕に言う。振り向くと、彼は人が5人横並びで入れそうな玄関を指さしていた。
 小学校時代、彼に、家に呼ばれた、なんて子の話は聞いたことがない。
 だから普通に考えれば有り難いんだろうけど。
「一杭、その」
「壱夏」
「壱夏くんあのさ」
「いちか」
「…………壱夏」

 名前一つで話が進まないことに脱力して、僕は呻いて手を差し出した。
「荷物、……返してください」

 段ボール1個と鞄。
 文字通り僕の全所有物は、この頑丈な車に積まれたまま。何を言ってもおろしてくれなくて、結局ここまで来てしまった。
 あの後、ひとまず火葬場までは待ってもらって、その後壱夏に車に乗せられた。
 その間、この問答を何度繰り返したことか。そして今回も、壱夏は平然と言った。
「部屋に運んどくよ。今日からここに住むんだから」
「だから、その話は」
「『淳平君をよろしくお願いします』って塩崎さんも泣いて土下座してただろ」
「いやいやいや、なんかもうよくわかんないけど確かにその空気に飲まれたけど!」
 まさか火葬場でガチ泣きの大人を見ることになるとは。
 恐ろしいのは、その様子を見ても一切動じない壱夏様である。僕の方が先にギブアップして、追い立てられるように車に乗ったのだが……なぜだろう、身売りをした気分になるのは。

 とん、と軽やかな音を立てて、運転席に座っていたまなさんが車のドアを閉める。トランクが開いていたら荷物を出そうと思ったが、黒光りのボディに隙はなかった。

「家具や服は好みもあると思うので、改めて出入りの業者に頼みますね。他に入り用の物があればなんなりと」
 にっこり笑った彼女の手には、眩しく光る鍵が握られている。
「いえ、ですから……。壱夏」
 僕は顔を上げて壱夏を見た。彼は片眉を上げて首を傾けた。

 施設、がどういうところかは詳しくはわからない。
 でも似たような境遇の子がたくさんいるのだろう。親が居ない子、理由があって預けられた子、それぞれ理由があって。

「何?」
 壱夏は、見知らぬ世界を前に途方に暮れている僕を助けてくれようとしている。
 それは、とても嬉しい。けど、単なる子どもの思いつきに、のし掛かってはいけない。

「ありがとう」

 僕には、『何もない』と言ってくれたあの言葉だけで充分だから。

「でも、友だちだからって、そこまでしてもらうわけにはいかないよ」
 カシャン
「?」
 金属音がしてそちらを見ると、まなさんが車の鍵を落としていた。目を見開いて固まる様子を見て、たじろぐ。
 何かおかしなことを言っただろうか。
「……今」
「え?」
 視線を戻すと、壱夏が僕を睨んでいた。異様な雰囲気に半歩後ろにさがると直ぐに、彼に胸ぐらを掴まれた。
「なんて言った」
「っそ……そこまでしてもらうわけにはっ」
「違う、その前!」
「え、えぇええ」
 僕何か言ったっけ!? 慌てて周囲を見ると、まなさんと目が合った。彼女の口が、動く。4文字。
「と、……とも、だ、…………ごめん! 違うよね! はい、そう思ってるのは僕だけでした!」
 失言の内容に気づいて、青ざめた。

 壱夏のことを、たまに話をするだけで友だちだと勝手に思っていたこと。
 自分の勘違いが恥ずかしくて、僕はぶんぶんと首を振った。
「僕は壱夏と友だちなんかじゃありません!」
「はぁぁあ!? 今更なに訂正してんだ!!?」
「どうすりゃいいんだよ!」
 ドスの効いた声に悲鳴を上げる。ちゃんと謝ったのにもう遅いの!?



「おう、来たか!」



 そこで、縁側の窓が開いて、着物をだらしなく着崩した人が出てきた。
 離れているのにすごいお酒と煙草の匂いがして、僕は思わす息を止めた。
「そいつが新しい居候かぁ?」
 あくびをしながら庭に下りた彼は、首の後ろをぼりぼりと掻く。そして、彫りの深い顔に生えた髭を撫でながら、僕の目の前まで来た。
 背が高い人だ。筋肉質な体が、着物の合わせ目から覗いていた。
「俺ぁ一杭(ひとくい)保然(ほぜん)。気軽にほっさんとか、保然(ほぜん)さんとか呼んでくれ」
「は、初めまして。有馬(ありま)淳平(じゅんぺい)といいます」
「おう。じゅんぺーくんな、じゅんぺーくん。まぁここを自分の家と思ってゆっくりしてくれ」

 壱夏のお父さんだろうか。それにしては、雰囲気が似ていない。なんというか、全体的に。

「いやぁ、クソガキが俺に頼み事なんて何事かと思ったら」
「っ」
 そんなことを考えていると、大きな手が伸びてきて、顎を掴まれた。そのまま無理やり上を向かされる。

「可愛ーい顔してんじゃねぇの、ちょっと地味だけど。なるほどなるほど、壱夏坊ちゃんはこんなのが好みだっ……!?」
 目の前の保然さんが突如硬直したかと思うと、白目を剥いて僕から手を離した。

「触るな」

 泡を吹いて庭に倒れた保然さんを前に、壱夏が蹴り上げていた足を下ろした。遅れて、彼が股間を蹴り上げたと気づく。
「ぐ、ぐぐぐううう、本気でやりやがったなクソガキ……!」
 保然さんは小さく蹲ってぷるぷる震えている。
 その痛みを想像して血の気の引いた僕の手を、壱夏がとった。
「おっさん、淳平の半径100m以内に近づくなよ、殺すぞ」
「ほっさん!つーか無理じゃないかなそれ! 今日から一緒に住むんでしょ!?」
「屋敷の端と端ならいけますよ」
「まなちゃんつれない!!」
 蹲る保然さんが悲鳴を上げた。まなさんもすがすがしい顔で、案外鬼畜なことを言う。
「行くぞ」
 そのまま引きずられるように、僕は壱夏についていった。

「いいの? お父さんにあんな」
「あれはただの後見人。俺が成人するまでの」
「……壱夏の親は?」
「父さんは死んだ。母さんは俺が生まれてすぐに実家に戻ってる。どこにいるかも知らないし、興味もない」

 声にはなんの乱れもなかった。
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