親愛なる記者の備忘録

駄犬

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うだつの上がらない

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 初めの取材相手は「小林一葉」で決まりである。病院を出るのに合わせて接触を図り、あわよくば取材を取り付けれれば御の字だ。こんな邪な思いで病院内を忙しなく見回す今の私は、両手を広げて施しを求める路上の某に値する。座持ちは底をつき、言い訳など仕様もない。目を回す勢いでひたすら「小林一葉」の顔を探した。時間にして正味三十分だろうか。不意に壁掛け時計へ目をやろうと視線を動かした先に、手元の携帯電話に表示された女性の顔と瓜二つの人物を見つけた。私は椅子から立ち上がり、真っ直ぐ「小林一葉」と思しき女性に近付いていく。努めて平静に、押し掛け営業の明るさを胸に抱いて、口を開く。

「申し訳ありません。少しお時間を頂けますか?」

 如何にも怪訝な顔をする「小林一葉」に私はこう続けた。

「私はフリーランスの記者をしている者で」

 しかし、言い終わる前に機嫌を損ねた猫のように瞬く間にそっぽを向かれ、私との対話を拒否した。予期しない事故に巻き込まれた直後の心情を慮れば、私のような身分を快く受け入れるはずがない。それでも、幾ばくかの望みを掛けてこの場に挑んでいる。

「これだけでも受け取ってもらえると嬉しいのですが」

 私は名刺を差し出す。当初予定していた取材の約束は後回しにし、「小林一葉」の記憶に残るように心を入れ替えた。だが、不浄なる物を見るかのように、私の名刺を睥睨するその警戒心からして、まともに会話を交わすのも難しいと感じた。

「……」

 ただ、「小林一葉」は私の差し出した名刺を不承不承ながら受け取り、ゴミの滓を扱うようにズボンのポケットへ粗雑に仕舞った。

「ありがとうございます」

 お目溢しを狙った小賢しい抜け駆けに我ながらうだつが上がらない。見境なく媚びへつらい、紙面上ではそれはそれは大層な言い回しで執筆を行う。泣き笑いにも似た感情の振れ幅は、職業に通底するある種のペルソナであり、この矛盾した口と手の動きに欺瞞を感じ、むやみに実存性を問うような事はしない。「小林一葉」から受ける蔑視を軽薄な微笑でやり過ごす際も、自然の摂理として享受した。

「小林一葉」の背中を見送ると、顔色に合わせて捏ねた手は、気怠げにポケットへ逃げ込んだ。名刺を渡した事を進展と呼んで満足するには些か物足りないが、今回に限っては丁度いい案配になるだろう。誤って吹きかけた口笛を、携帯電話の着信音に咎められる。待合室とはいえ、部外者が緊急性もない電話のやりとりを太平楽にこなすのは慎むべきだ。私は足早に病院を出て、外気の中で応答する。

「はい、高谷です」

 それは開口一番に私を冷笑し、呆れたような調子で聞いてきた。

「どうだった? いい記事は書けたかい?」

 彼に頼った事を今更後悔する事もないが、あからさまに人を蔑む態度で接してくる事へ辟易とする。

「いや、まだこれから色々調べていく途中で」

「はぁ? こういうニュースは速度が大事だろうが」

 その通りだ。聴衆の関心が集まっている時にこそ、記事を素早く作成して、どれだけ耳目を集められるかを計算するべきだ。だがしかし、私の手はそう動かなかった。今回の陥没事故を科学的見知から解き明かし、必然的に起きたものとして捉えたくなかったのだ。何か裏で糸を引く存在がいるのではないか。そのような陰謀論めいた思考が働き、迂闊に文字を打ち込んで記事を作成する気分になれなかった。それは、根なし草に等しい私が持つ、なけなしの矜持である。

「ありがとう。君の忠告は胸に刻んでおくよ」
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