Blood Of Universe

さがみ十夜

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[SIDE:L]出発

紅い蛇

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「おかしいな……」

完全に迷った。

そう思った時には既に遅し。萌葱は1人、右も左も解らない巨大なビルの中でポツリと佇んでいた。

先を見てもただ長い廊下。振り返ってもひたすらに長い廊下。
何がどうなっているのか解らない。もはや自分がどこへ行きたかったのかすら忘れてしまう程に、完全な迷子であった。






  Chapter.7:
            紅い蛇



萌葱は一人壁にもたれ掛かり、不甲斐ない自分に溜め息をついた。

周りに人が居ない事を確認し、バサリと施設の見取図を広げるが、現在位置が解らない為に全く意味を成さない。
先程から何度も紫苑の通信機に連絡を入れているが、音沙汰がない……。

「困ったな…」

だがまた小さく呟き、壁に手をついた、その時。

「…っ…わあ!!!」

ドサァ…!!!

突然の事で、しばらく何が起きたのか解らなかった。

ただ解るのは、自分は今、"床に転がっている"ということ。
転がる前に聞こえたのは、『ピンッ』という小さな電子音。おそらく、扉の開閉スイッチを押してしまったのだろう。

寄りかかっていた壁…いや、本来は扉であったそれが、スイッチを押されたことで開き、萌葱はそのまま背後に転がったのだ。

「…いたたた」

手をついて身体を起こすと、床はひんやりと冷たかった。そしてそのまま周囲へ視線を向けようとした時、人の気配にはっとした。

「お兄さん、大丈夫?」

背後から聞こえたのは、男とも女ともとれる、中性的な声。だが、萌葱が衝撃を受けたのはその声ではなく、

「ここ……女子トイレだけど」

その、言葉だった。

「っ……うわぁぁあああ!!!」

しばしの沈黙を経て、萌葱は悲鳴を上げて立ち上がった。しかし勢いをつけすぎて足元はふらつき、壁に激突。

「痛!!!」

激しくぶつけた額を押さえながら慌てて声の主を振り返るが、あまりの痛さに視界が歪んで顔がはっきりと確認できない。

「あらら…まじで、大丈夫っすか?」

言葉だけを聞くに、相手は少年のようにも思える。だが、ここは『女子トイレ』なのだ。

「ご、ごごごめんなさい!!!」

これでもかという位に頭を下げ、手探りで扉のスイッチを探すが、これがまたなかなか見つからない。

「あああのっすいません!本当にごめんなさい!!」
「いや、別にいいし~まあ落ち着きなよお兄さん」

相手の顔もろくに見られないまま完全にパニック状態の萌葱に対し、相手は動じる事もなくけらけらと軽快に笑っている。

そしてちらりと上げた視界に、赤い髪の人が映った。
真っ赤に燃えるような髪、分かったのはそれだけだった。次の瞬間にはようやく扉が開き、萌葱はもう一度

「ごめんなさい!!!」

そう叫ぶように言い放つと、そのまま長い廊下を全速力で駆け抜けて行った。

「あ、ちょっとお兄さーん?」

すぐに自分を呼び止めるような声が聞こえたが、立ち止まる気にはなれなかった。
しばらく走り続けて振り返った先には、再び何もない真っ白な廊下。人の姿はなく、何故かほっとした。

「…あ、焦った」

深い深い溜め息をつき、萌葱はまたゆっくりと歩き始めた。もう一度冷静に考えて紫苑を探そう。そう一人で頷き、再び迷子…いや、施設の一人散策を始める。

だが、それも数分の事だった。

「ねえちょっと、お兄さん」

突如背後から肩を叩かれた事により萌葱は一瞬にして全身に鳥肌がたつのを感じた。

「!!は、はははいっ!!?」

誰もいないと思っていた空間からの唐突な登場と、その人物の姿に冷や汗をかく。
そこに立っていたのは先程の少女だった。そう、萌葱が誤って侵入してしまった『女子トイレ』で出会った、紅髪の少女。

僅か数分というこの速さで、誰もいなかったはずの空間の、一体どこからこの少女は現れたというのか。

萌葱は底知れぬ驚愕と疑惑を抱き少女をまじまじと見つめた。だが、気にする事なく少女は軽快に笑いかけ、そして

「こーれ。忘れ物」

言いながら、ヒラリととんでもない物を見せつけてきた。

顔面、蒼白。
一瞬にして全身の血の気が引いた。

少女がどうやって現れたか?
そんな事、どうでもいい。

今、考えるべきは目の前にヒラヒラと浮いている紙切れをどうにか取り戻さなければならないということだ。

萌葱は青ざめた顔でその紙へ手を伸ばした。
だが、それがどういうわけか寸前でかわされ、バサリと音をたてて目前に広げられた。

「これすごいね、何?このビルの館内マップ?」

放たれた言葉に、萌葱は心臓を撃ち抜かれたような衝撃に身を震わせた。
彼女が手にしている物は、先程までは自分が手にしていた物。

『この地図は我々、警察組織でなければ正規のルートで手に入れる事のできないものです。裏ルートを使わない限り、ね。…解りますか?』

萌葱の脳裏に浮かんだものは、任務前そう言って意味深く問いかけた黒耀の顔。

"これを見られたら、警務局の人間だとバレる"

この紙切れは、そんな恐ろしい代物なのだ。

『…動きによっては特務隊であると感づかれる可能性もあります。十分に用心して下さい。何より、何があっても"黒服"である事だけは、絶対に隠し通して下さい。お二人の、身の安全の為に』

あれだけ用心しろと、言われていたはずなのに。

「あ、いえあああのぅ、か、返してくださいっ」

咄嗟に出た言葉は、あまりに情けなかった。
今にも泣き出してしまいそうな程に、震えた声。

ここで動揺してはならないというのに、大失態だ。だがもはや遅い。その地図を落とした時点で、萌葱の"馬鹿"は確定した。

「もちろん。そのために追いかけてきたんだし」

はい、どーぞ。と笑顔で返されたそれを、萌葱は全財産でも隠すかの如く直ぐさま懐へしまいこんだ。

もはや死の宣告まで秒読み状態だと覚悟したのだが…
意外にもあっさりと手元に戻ってきた事により、止まりかけた心臓が、ようやく落ち着きを取り戻し始めた。

安堵、だなんて一言では言い切れぬ程の安心感を胸に、小さく息をつく。

「あ、あの、ありがとうございました。わざわざ…」
「いーのいーの。もう落ち着いたみたいだね?じゃ、次は気をつけてね、お兄さん」

無邪気に笑って、手を振りながら目の前の階段へと駆け出す少女。

何事もなく、この危機は過ぎ去る。

そう信じて、萌葱も笑顔で手を振り返した。

だが、安心も束の間。

振り返って手を振っていた為、距離を見誤ったのか…。
小柄な少女の身体が、不自然に揺れた。

背後には下り階段。
確かな足場を無くし、ぐらりと態勢を崩した少女の姿がはっきりと見えた。

そして、言葉を発するよりも前に、身体が動いていた。





「………危なかった」

まさに、一瞬。
そこに数秒と時間はかからなかっただろう。

踊り場に片膝をついた状態で小さく呟き頭上を見上げると、階段上に少女が座り込んでいた。

萌葱はゆっくりと立ち上がると、少女の無事を確認した。

「……何…今の」

少女は動揺している。
しかし萌葱の方は案外冷静だ。

まずは急な運動で乱れた呼吸を整える為に大きく深呼吸。
額の汗を拭い、服の乱れも直しながらゆっくりと階段上へと戻った。

「…大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫…!」

声をかけると少女は立ち上がり、大きく頷いて見せた。
どこにも怪我はなさそうだ。
萌葱はようやく心の底から笑顔を見せる事ができた。

「…良かっ」
「てゆうか!すごい!!!!」

だが、彼の言葉を遮ってまで身を乗り出してきた少女に、途端に笑顔がひきつった。

「なに今の!お兄さん何者!?何やったの!?すごーい!!!!」

高々と賞賛の声をあげる相手に、萌葱はただ戸惑うばかりで返す言葉が見つからない。

「え…いや…ははは」

少女を助けなければならないという一心のみで動いた咄嗟の行動だったもので、萌葱自身でも自分の動きに説明などつけられないのだ。

育ちの良さそうな優男からは想像もつかないような身体能力。
それはただ単に"運動神経が良い"などと一括りにできるものではなく、明らかに、どこかで"訓練"を積んだものと解る動きだった。

階段を踏み外した少女。
そのまま転落を思わせた彼女の腕をとり階段上へ投げ戻したのは、瞬時に駆け寄った流れのまま。

二人の間に距離がなかったわけではない。手を振りながら軽快に駆け出していた少女の歩数分だけ、距離は開いていたはずだ。
そこを瞬時に詰めた足の速さだけでも賞賛ものだが、驚くべきはその後。

少女の代わりに落ちていく自分を守る為には、何よりも運動神経が必要だった。

咄嗟に壁を蹴って態勢を変え、宙を舞うように空中で見事身体を一回転。

そして、両足で確かに着地。
片膝と片手を床についてバランスをとり、萌葱のアクロバットは終了した。

もちろん、怪我など有るわけがない。
正直、人間業とは思い難かった。

だがこれが、"特務隊"。
中でも"Team STORM"という戦闘チームに、彼は所属している。
これが、彼等の基本能力。人間離れしていなければ、その名を授かる事など叶わないのだ。

「……えっと、怪我がなくて良かったです…じゃああの、自分は、これで」

はっきり言えば、
このアクロバットを披露した事により、少女の中での、萌葱の人物像が"普通じゃない"あるいは"不審者"として、認識されたことだろう。

ここはさっさと姿を消すに限る。
萌葱は少女に軽く頭を下げ、くるりと背中を向けた。

相手は少女とはいえ、ここ、フォメロスの事業ビル内に居るのだ。関係者であれば、萌葱が警務官であることは判断がつくはずだ。あるいは、"不法侵入者"。

どちらとも思われたくなかった。




だが








「お兄さんさ、もしかして…特務隊?」







放たれた少女の言葉に、背筋が凍り付いた。

どちらでもない、最悪のパターン。

『十分に用心して下さい。何より、何があっても"黒服"である事だけは、絶対に隠し通して下さい』

再び、黒耀の言葉が、耳の奥でこだまする。

『お二人の、身の安全の為に』

バレたら、任務はそれまでだ。

警務局の人間が密かに捜査をしていたとなれば、事業部側としては不意打ち。そして萌葱の今居る場所は、ビル内部でも特に上層部にあたる。
いくら帝国の命とは言え、捜査状無しでこの場に入り込んでいたとなれば、問題となるだろう。

特務隊なら何でも許されるというものではないのだ。

手は打ってあると黒耀は言っていたが…おそらくそれは相手が、"関係者"であった場合の事。




もし相手が、"敵"だったとしたら―…?




「ねえ、違う?お兄さん」

特務隊という存在が、その名を掲げて一般の目に触れた事は、結成以来一度もない。

ただ知られている事は
帝国が、新たな"武器"を作った。という噂のみ。名前くらいなら知っている者もいるかもしれない。
だがそれがどんなものなのか、民衆は知らない。

だが叛逆組織は別だ。
敵がその存在を恐れるようにと、これまで確実に任務を遂行してきた。

その名をはっきりと、知らしめてきたのだから。

「…何ですか?ちょっと、よく聞き取れなかったんですが」

沈黙は肯定に値する。このまま黙っているわけにはいかない。萌葱は顔を僅かに傾け、動揺を隠した。

「あれ、知らない?」

少女は確かに、を口にした。
何故、この少女は知っているのか。

警務官ではなく、
何故あえてその名を口にした…?

「あれー?名前、違ったかな?何かそんな感じの名前だと思ったんだけどなー」

萌葱にとって、恐ろしい程に張り詰めた空気。
横目の視界に、うーんうーんと頭を左右に動かして考えこむ少女の姿が映る。

地図を見せられたあの瞬間よりも、心拍数は格段に早まっている。
だが、今度ばかりは、動揺を見せるわけにはいかなかった。

「あの、何が言いたいんですか?」

動揺を隠すように、萌葱は深々と溜め息をついて見せた。

この少女は一体、何者だ…?
イクス上層部の関係者で、ただの噂好きか?
または警務局の関係者で、特務隊の存在を知っている?
だが特務隊の存在については無闇に口外してはならないと、現状では全ての警務官が誓約を結ばされているはずだ。

この、どちらかでなければ……

「実は警務官の知り合いがいてさ、その人ってば口の軽い人で~いつだったかなぁ…何かすごい特殊部隊が出来たって大騒ぎしてたんだよね」

…後者か。
誓約など、所詮はただの署名、口約束。その程度のものか。不真面目な警務官もいたものだ。

それがもし、特務隊内部の極秘情報を口外しようものなら、死罪に値するというのに。
もとい、極秘情報を得ることなどただの警務官には不可能な事だが。

「特殊部隊…ですか」

…そんな事より。

「そう!なんかこう、俺達ヒーローだぜ!!って感じらしいじゃん!」

……まさか、この少女が"敵"かもしれない等と疑ったのが間違いだったか。

無邪気な発言に、萌葱は思わず噴き出しそうになった。

「さっきのお兄さん、超ヒーローっぽかったからさ、そうかなー?なんて思ったんだけど!」
「ヒーローって…!」

妙に気恥ずかしいのはなんだろう。

萌葱は先程、自分自身がうっかり見せてしまったアクロバットを思い出そうとするが、この数十分の間に色々な事が起こりすぎて何が何だか訳がわからなくなってきた。

頭が、少々混乱気味だ。

「じゃないとしたらぁ、お兄さん、警務局のちょっと偉い人でしょー」
「違いますよ…ただの…執事です」

混乱のあまり、うっかり今の自分の扮装を忘れてしまいそうにもなったが、ここは馬鹿でも挽回しなければならない。

「執事?うっそ、あんな運動神経の良い執事さんなんて頼もしー!でも一人で何してんの?誰かのお迎え?」
「いや、あの…実は……迷っちゃいまして」

だが、残念ながらうまい言い訳が思い付かなかった。

「え!あんなマップもってるくせに迷子とか!ウケる!」
「ははは…ですよねー…」

そこはもう、空笑いをするしかない。
さて、どうしたものか。このままこの少女と一緒に居て大丈夫なのか?だがもはや、疑う事にも疲れてしまった。

ここまでの疲れが何だか一気に覆いかぶさってきたような気怠さを感じる。
こんな無邪気な少女が、叛逆組織のテロリストなわけがない。そんな勝手な確信が、萌葱の中に生まれていた。

だが、その時。


Rrrrrrrr


突如鳴り響いた電子音に、萌葱の肩が震えた。同時に、気怠さが吹き飛ぶ。

鳴ったのは、萌葱の腕に装着していた通信機。
ボタン一つ押せば相手のホログラム映像が立体で映し出され、相手の姿を見ながら会話をする事ができるという、今時誰もが手にしている小型の通信機器だ。

おそらく、鳴らしているのは、特務隊の誰かしらであろう。

「出ていいよー」

少女は簡単にそう言うが、受話ボタンを押せば相手の姿が映し出されてしまうのだ。迂闊に人前で開くことはできない。

だが、おかしい。

ストームの面々とは、一般人であるというカモフラージュ用に着用していたブレス型の通信機の他に、密かに仕込んでいるピアス型の機器を利用して連絡がとれるはずだった。こちらは映像を映し出す事はできずただ音声を拾い合うだけのものだが。

そこをあえてブレス型の回線を利用するとは、何か特別な意味があるのだろうか。

そして萌葱がやや表情を曇らせ、ふと自分の耳に触れたその瞬間、

『取れ。今すぐ、出ろ』

完結だがとても聞き覚えのある少女の声が耳の奥に低く響いた。こちらは、ピアス型の方からだ。

間違いない、この通信には意味がある。

萌葱は言われるままにブレスの受話ボタンを押した。すると



『ちょっと執事!?どこほっつき歩いてんのよ!!!こんな可愛いお嬢様を一人にするなんて最低!!!!連れ去られたらどうするのよ馬鹿執事ー!!!!』



映し出された映像は
"ホログラムなし"
という文字のみ。

ただ、やたらと耳につく甲高い少女の声が、わんわんと廊下中に響き渡った。
声に聞き覚えはある。
だが、思い描いた人物とは全く、別人のようだった。

「あ…えーと……は!?」

あまりに予想外すぎて、萌葱の返答は言葉にならなかった。

『は!?じゃないわよ!!ロビーよロビー!メインロビー!!!それくらい馬鹿でも解るわよね!?これ以上待たせたらお父様に言い付けるから!!!さっさと来なさいよ!!?このっ無能ー!!!』

だが戸惑っている余裕など与えず、電話の相手は早口で捲し立てると一方的に通話を切った。

一時の、沈黙。
目の前に立っている少女が、目を白黒させている。

「…今のが、"ご主人様"?」

苦笑して、一言。
その言葉に、萌葱もまた口元を引きつらせた。
相手は、紫苑だ。おそらく、たぶん、きっと……

「はは……お、お嬢様、です」
「強烈だねー!」

今度は無邪気に笑う少女を前に、萌葱は引きつった表情をなかなか戻せないまま小さく肩を竦めた。

「あの…メインロビーに行くには…」
「この廊下をずっと端まで行って右に曲がるとエレベーターが見えるから。それで一番下まで下りたらすぐだよ」

最後まで問うまでもなく、少女は解りやすく教えてくれた。

「ありがとうございます!では…」
「じゃあねー!助けてくれてありがとー」

笑顔で見送ってくれる少女に軽く会釈をし、萌葱は再び彼女に背を向けた。

すると

『走れ。早くしろ。ぶっ殺すぞ』

また耳の奥で、恐ろしい程に低い声……先程の甲高い声の主と同一人物であろうその声に、萌葱は鳥肌がたつのを感じた。

…仕方がない、走ろう。

そして、長い廊下を一気に走り抜けた。振り返る事なく、とにかく急いで。
言われた通り突き当たりを右に曲がると、エレベーターの扉が数機分、横並びに待っていた。
そこまで、止まるわけにはいかない。急がなければ"お嬢様"に殺される。

そして

「っ!!わあ!!!!」

エレベーターのすぐ目前まで走り抜けたところだった。

それこそ、彼を待ち構えていたかのように突如その扉が開き、素早く伸びてきた腕によって、萌葱は無理矢理中へと引きづり込まれた。

あまりの勢いに態勢を崩し機内に転がると、直ぐさま扉は閉まり、エレベーターは下降を始めてしまった。
先程あれほどまでのアクロバットなアクションを披露した男とは思えない鈍臭さ…。
冷や汗をかいたのも束の間、目前に見えたものは、真っ白なハイヒール。

「……おい、無能。踏まれたくなかったら今すぐ起きろ」

見上げると、日に焼けていない真っ白な足と、真っ白なワンピース。それから……

「っ!!紫苑さん!!!!」

…危うくスカートの中身を覗いてしまうところだった。

「よう、馬鹿執事」

萌葱は跳び跳ねるように身体を起こすと、額の汗を拭った。

先程の通信はこの機内からしていたのか…。

エレベーター内は完全防音だ。扉さえしまっていればあれだけ声を張り上げても、外まで響き渡る事はなかっただろう。

それにしても。

「紫苑さん…さっきの通信」
「てめぇが馬鹿やらかすから!あんなクソ演技するはめになったんだろーが!!ざけんなよ!?今すぐ帰って黒耀に報告するからな!!」

素晴らしい演技でした。可愛い声でしたよ?
なんて、言いたい衝動をこらえ…

「ああ…"お父様に言い付ける"んですね」

そんな冷やかしで

「いたたたたた!!!!ごめんなさいごめんなさい!!冗談ですー!!!」

痛い目を見た。
ハイヒールは凶器だと、普段履く事のない彼女でも解るのだろうか。

「…そのヒールで足踏むのは拷問ですよ…」

萌葱はあまりの痛さに踞り、踏まれた左足の甲をさすった。血でも滲み出しているのではないかと言う激痛に、声も震える。

「おい馬鹿。あの女の顔、覚えてるか」
「は、はい!?誰のですか!?」
「あの女だよ!!!今さっきテメェが迂闊に接触した!!!!」
「え!?はい!?…えっと…っ」

完全に裏返った間抜けな声に、紫苑は目を細めてカツカツと床を蹴った。
苛立ちを隠そうともしない彼女の前で何とか顔を思い出そうとするが

「紅い髪の…ちょっと少年っぽいような……」

頭に浮かんだ要素は、それだけだった。紫苑が盛大に舌打ちをしてガツンと壁を蹴る。

「……あの子が…何か」
「別に。怪しいと思っただけだ。お前だって思ったろ」

紫苑の言葉に、萌葱は深く頷いた。

「紫苑さん、見てたんですか?」
「…お前、俺に通信入れてから、発信スイッチ切らなかったろ。おかげで、こっちから通信ができなかった」

自分の左耳に付けていたピアスを軽く触り、小さく溜め息つく紫苑。じとり、と睨まれた事で萌葱ははっとした。

迷子の道中、何度か紫苑に通信を入れたが、彼女は彼女でスクルニーの前で迂闊な通信は出来なかった。だがいざ彼が姿を消した隙に抜け出し返答しようとしても、ただ雑音が聞こえるばかりで相手には繋がらない…。

どうやら萌葱は最後に連絡をした後、発信スイッチを切らぬまま行動していたらしい。

そして、ブレスの着信が鳴った時、咄嗟にピアスに触れた。そこでようやく紫苑側からの通信が可能となったのだ。

…と、なれば。

「お前等の会話は全部、俺にも筒抜けだった」

音声だけとはいえ、紫苑は萌葱とあの少女のやり取りを一部始終、キャッチしていた事になる。

「つーかあれ、本当に女か?」
「女の子ですよ!だって女子トイレに居たんですから!」
「女装の変態かもしれねえぞ!」
「は!?そんなわけ…あ、ああーちょっと!?変な事言わないで下さいよ!また顔の印象が薄れるっっ」
「ああクソ!使えねー奴!!!」

そしてさすが、これでも任務慣れしている紫苑はすかさず録音を開始していた。
顔は覚えていなくとも、声さえ残っていれば、何かしらの情報を得られるかもしれない。

敵か味方か、解らない。
ただ、怪しい事は確かだった。

「あの、何者だと思いますか…?」
「知るか!!…とにかく、用心しながら帰るぞ。いいか?また、ヘマすんじゃねえぞ」
「は、はい…すいません」

エレベーターは一階まで直通で下降すると、静かに停止した。

ゆっくりと、扉が開く。

ここからLSまで真っ直ぐに帰還する事は出来ない。もし何者かに正体を見破られていたとしたら、尾行がつく。その可能性は高かった。

「あの、このまま外に出て良いんでしょうか。スクルニーさんに挨拶とか…」
「あのデブにはもう帰るって話はつけてある」
「…そうですか」

静かにメインロビーに出た二人は、美しい受付嬢に軽く挨拶をすると、ビルの外に出た。

ようやく吸えた、新鮮な空気。室内では感じられなかった爽やかな風に、ほっと気持ちが落ち着いた。

だが、自分達が特務隊である以上、何処にいようとも油断はならないのだ。萌葱はこの度の一件で、それを重々と理解した。

「お嬢様…どうします?」
「のどが渇いた。どっか連れてけ」

一つ小さく息を吐き、一歩、また一歩と進みながら、周囲に警戒する。

「…それ、さっきの可愛い声で言ってみて下さい」
「テメェ…後で縛り首な」
「冗談ですよ…」

だが、ふと視界に入った一台の車に、二人の足が止まった。萌葱にはあまり見覚えのない車だ。
しかし紫苑の方はやれやれと溜め息をつき、車の前に立ち楽しそうにこちらへ手を振っている人物に、悪態をついた。

「何で…アイツが」
「知り合いですか?」

心底嫌そうに顔を歪める紫苑と、満面の笑みを浮かべて近付いてくる相手。二人を交互に見やり、萌葱は首を傾げた。二人の関係性は全く解らない。

「やあやあ!おつかれ~♪君達の乗って来た車は既に"お屋敷"に戻ってるから!帰りは僕が送るよ、お嬢様♪」

明るく、陽気な話し方の、男。
長めの銀髪を緩やかに顔の横でまとめた、それなりに小綺麗な格好の男だ。

「"旦那様"がね、二人の事が心配だってワタワタ落ち着かないから、ああそうだ!ってどういうわけか成り行きで~"主治医"の僕がふらっと迎えに来させられたというわけなんだけどー」

だが言っている事が何だか纏まりがなくて、怪しい。

「てゆうかマジで!聞いてた通り!超可愛いね!似合ってるよー!その服!!」

そして近付いてきた流れのまま、紫苑に手を触れそうになった瞬間に

「あの、すいません」

萌葱はさりげなく彼女と男の間に身を滑り込ませた。顔付きは、"お嬢様を守る執事"。
身体で紫苑を隠すように立ち、じとりと男を真正面から睨んだ。

完全なる不審者扱いをされた相手はきょとんと目を丸くする。

「あー…あ!君は!そうかそうか!うん、素晴らしいねっ執事君♪でもまあとりあえず車に乗ってよ!ちょっと寄り道して美味しいものでも食べてこー!」

だが次の瞬間には男はまた陽気な口調で笑い、軽快な足取りで車の前へ戻っていた。
そして、後部座席の扉を開けて二人を待つ。

「はあ…仕方ねぇな」
「あの、紫苑さん…?」

車に乗り込んでくれるのを満面の笑みで待つ男。

怪しいが、どうやら知り合いである事は確からしい。紫苑が『行くぞ』と合図をして前に出た事で、萌葱はひとまず彼女の後に続いた。

そして紫苑が先に乗り込み、次に萌葱が乗ろうとした時

「…初めましてだね、期待の新人くん」

男はそう呟いて、にこりと笑った。どきり、と萌葱の心臓が跳ねた。

「…貴方は」
「敵じゃないよ、安心して」

だがぽんと優しく肩を叩かれた事で、萌葱は自然と車内に乗り込んでいた。

「ただの、医者だから」

そしてもう一言そう付け足して笑うと、男は静かに扉を閉めた。

「さー行こうか!何食べたい?おごるよー」

運転席に乗り込むなりまた陽気な声をあげる男に、紫苑がふぅと小さく息をつく。

「…美味いもん」

ようやく肩の力が抜けたのか、紫苑は続けて大きな欠伸をしながらぼそりと答えた。

「はいはいお嬢様は甘いものねー解ってる解ってる!執事くん知ってる?お嬢様は性格に似合わず甘いものが好物なんだよー」
「っるせぇな変態!!さっさと車出せ!!」
「はいはい、恥ずかしがらなくてもいいのにねー♪」

意外と仲の良さそうな二人。
紫苑もどうやら彼には気を許しているようだ。
そんな様子に、ようやく萌葱の力も抜けた。また、どっと疲れが全身にのしかかって瞼が重くなる。

『自動運転を開始します』
と、そんな音声の後に発進した車の窓から外を眺め、萌葱は息を吐いた。

「新人くん、寝ててもいいよ」

聞こえた言葉にふと顔を車内へ戻すと、運転席の彼がこちらを振り返り笑っていた。

何となく、気持ちの落ち着く笑顔だった。

悪い人ではなさそうだ…。

「…大丈夫です、ありがとうございます」

だが萌葱は小さく首を振って笑い返した。

LSに帰還し、報告を終えるまでが任務だ。まだ気を緩ませるわけにはいかない。

そして、萌葱は座席に深く座り直し、また窓の外を眺め始めた。



あの少女との出会いを、思い出しながら―。











To be continue ...
――――――――――――――
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新設された超弩級砲艦を旗艦とし新造艦と老朽艦の入れ替え任務に就いていたが、駐留基地に入るには数が多く、月の1つにて物資と人員の入れ替えを行っていた。 大型輸送艦は工作艦を兼ねた。 総勢250艦の航宙艦は退役艦が110艦、入れ替え用が同数。 残り30艦は増強に伴い新規配備される艦だった。 輸送任務の最先任士官は大佐。 新造砲艦の設計にも関わり、旗艦の引き渡しのついでに他の艦の指揮も執り行っていた。 本来艦隊の指揮は少将以上だが、輸送任務の為、設計に関わった大佐が任命された。    他に星系防衛の指揮官として少将と、退役間近の大将とその副官や副長が視察の為便乗していた。 公安に近い監査だった。 しかし、この2名とその側近はこの艦隊及び駐留艦隊の指揮系統から外れている。 そんな人員の載せ替えが半分ほど行われた時に中緊急警報が鳴り、ライナン星系第3惑星より緊急の救援要請が入る。 機転を利かせ砲艦で敵の大半を仕留めるも、苦し紛れに敵は主系列星を人口ブラックホールにしてしまった。 完全にブラックホールに成長し、その重力から逃れられないようになるまで数分しか猶予が無かった。 意図しない戦闘の影響から士気はだだ下がり。そのブラックホールから逃れる為、禁止されている重力ジャンプを敢行する。 恒星から近い距離では禁止されているし、システム的にも不可だった。 なんとか制限内に解除し、重力ジャンプを敢行した。 しかし、禁止されているその理由通りの状況に陥った。 艦隊ごとセットした座標からズレ、恒星から数光年離れた所にジャンプし【ワープのような架空の移動方法】、再び重力ジャンプ可能な所まで移動するのに33年程掛かる。 そんな中忘れ去られた艦隊が33年の月日の後、本星へと帰還を目指す。 果たして彼らは帰還できるのか? 帰還出来たとして彼らに待ち受ける運命は?

【本格ハードSF】人類は孤独ではなかった――タイタン探査が明らかにした新たな知性との邂逅

シャーロット
SF
土星の謎めいた衛星タイタン。その氷と液体メタンに覆われた湖の底で、独自の知性体「エリディアン」が進化を遂げていた。透き通った体を持つ彼らは、精緻な振動を通じてコミュニケーションを取り、環境を形作ることで「共鳴」という文化を育んできた。しかし、その平穏な世界に、人類の探査機が到着したことで大きな転機が訪れる。 探査機が発するリズミカルな振動はエリディアンたちの関心を引き、慎重なやり取りが始まる。これが、異なる文明同士の架け橋となる最初の一歩だった。「エンデュランスII号」の探査チームはエリディアンの振動信号を解読し、応答を送り返すことで対話を試みる。エリディアンたちは興味を抱きつつも警戒を続けながら、人類との画期的な知識交換を進める。 その後、人類は振動を光のパターンに変換できる「光の道具」をエリディアンに提供する。この装置は、彼らのコミュニケーション方法を再定義し、文化の可能性を飛躍的に拡大させるものだった。エリディアンたちはこの道具を受け入れ、新たな形でネットワークを調和させながら、光と振動の新しい次元を発見していく。 エリディアンがこうした革新を適応し、統合していく中で、人類はその変化を見守り、知識の共有がもたらす可能性の大きさに驚嘆する。同時に、彼らが自然現象を調和させる能力、たとえばタイタン地震を振動によって抑える力は、人類の理解を超えた生物学的・文化的な深みを示している。 この「ファーストコンタクト」の物語は、共存や進化、そして異なる知性体がもたらす無限の可能性を探るものだ。光と振動の共鳴が、2つの文明が未知へ挑む新たな時代の幕開けを象徴し、互いの好奇心と尊敬、希望に満ちた未来を切り開いていく。 -- プロモーション用の動画を作成しました。 オリジナルの画像をオリジナルの音楽で紹介しています。 https://www.youtube.com/watch?v=G_FW_nUXZiQ

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