上 下
1 / 1

私の初恋

しおりを挟む
 どんよりとした曇り空の下、愛菜の葬式が執り行われるのをすっぽりと抜け落ちた表情で愛梨は見ていた。


 両親は愛菜の死を悼み、お経中ずっと泣いている。
 母親は、時たま何故泣かないのかと少し非難めいた目を愛梨に送る。
 どうして。

 愛梨としては泣くほどの衝撃ではないのだから仕方ないという気持ちだ。
 なのにどうしろというのか。
 さらに愛梨から表情が抜け落ちていく。






 愛菜の骨は焼かれて今は仏壇にある。
 何年も、前のことだ。
 双子の姉である愛菜は写真の中で永遠に幼く無邪気なまま。

 愛梨の中では常に愛菜に対する嫉妬と劣等感が渦巻くのだ。
 どれだけの時を経ようが消えないこの感情。

(愛菜、愛菜。明るくて、皆に愛される可愛い愛菜。私だけは貴方が嫌い)


 愛菜は当時の愛梨と違い、とても活発で明るくて、皆の中心だった。

 そんな愛菜を遠くから眺めて、気づいた愛菜に引っ張られてようやく輪に入る愛梨。
 惨めだった。
 幼かった愛梨は、感情の名前に対するボキャブラリーが少なくて、いつももやもやを抱え込むだけ。


 両親は愛菜、愛菜、愛菜。思い出したように愛梨。
 愛梨を忘れていたのを誤魔化そうとへらりと笑う。

 ただ悲しくて。




 八歳の時、親が転職して引っ越しをした。

 引っ越し自体は別に構わなかった。
 でも愛菜は少し嫌そうでむずっていて、そうして迷惑をかけても可愛がられる姿を見ていなくてその頃はずっと俯きがちだった。


 ただ唯一悲しかったのは、透との別れ。

 透は唯一、愛梨と愛梨を差別せずに接して友達になってくれた相手なのだ。
 きっと心の中では愛菜の方が優先順位が高かっただろうに、優しさゆえにしなかった子。

 嬉しくて、愛梨は透について回ってよく困らせていた。
 でも透は一歳上で、妹ができたみたいだと愛梨と愛菜を可愛がる。

(できれば私だけを可愛がってほしかった)

 そこまで望むのは欲張りだろう。
 愛梨は幼い頃からしっかりと弁えていた。


 透の特別ではなくても愛梨の特別は透だったので、別れは唯一悲しかった。

 子供という生き物は連絡ツールを持っていない。
 親を介さなければ連絡など取れやしないのだ。
 愛菜ならねだれただろうが、愛梨にはそんなこと言い出せなかった。




 引っ越しの片付けが終わって一息ついた。

 愛菜は新しい環境に興味津々で、嫌がる愛梨の腕を掴んで両親に内緒で家を出る。

「ねぇ危ないよ、愛菜ぁ」
「大丈夫大丈夫!楽しいでしょ?」

 愛梨が半べそなのをお構いなしに笑い飛ばす。
 愛菜は自分が世界の中心だと思っているに違いない、と愛梨は内心毒を吐いていた。
 でも表情は保つ。
 表情がないのは「普通」ではないのだと知っているから。



 そしてとうとう、愛菜はやらかした。


 愛菜は前の近所にはなかった大きな公園に目を輝かせ、周囲に注意せずに飛び出す。
 愛菜と愛梨の手はいつの間にか離れていた。





 頭が痛い。

 表情が保てない。


 母親は無残な姿となった愛菜に泣き縋る。
 どうして、どうして。
 止まらない涙をそのままにそう繰り返す。

 父親は母親の背に手を当て、ひたすらに目を瞑る。


 そこに愛梨はいない。


 死んでもなお愛菜を中心に回る世界に、涙が一筋溢れる。
 一拍後。
 これは死を悼むものではないのだと分かり自分がいやらしい生き物に思えてくる。

 そしてそもそも涙にさえ気づいてもらえないことに、惨めさが降り積もる。


(ねぇ愛菜、私、愛菜になってもいい?)

 もういやらしい惨めな生き物なのなら他人に成り代わってもどうせ同じではないだろうか。

 葬式中、愛梨はずっと愛菜に問いかけていた。





 少しずつ愛菜に似せていく。


 最初は控えめな笑顔を。
 次は嬉しいだろう時に満面の笑み。
 慣れてもらえたら夕飯は肉じゃががいいと我儘を言い、当たり前になったら出かけたいとおねだりをする。

 段々と、愛菜ではなくて愛梨が真ん中になっていく。

 母親は塞ぎ込み気味だったのが治った。
 父親は母親のそんな姿を見て気が緩んだ。


 引っ越したばかりの時に愛菜が亡くなったため学校には最初から愛梨一人。
 双子なんて言われない。
 たまに話題に出されるくらい。

 愛菜がいなければ、愛梨はきちんと見てもらえた。

 それが嬉しくて、でも愛菜には永遠に勝てないようで辛かった。







 順風満帆な大学生。

 そんな夢を見て送る大学生ライフ。


 そこの先輩として、まさか透がいるなんて思っていなかった。



「愛菜?」
「……え」

 愛梨は小さく息を呑む。

 もう周りは誰も口に出さない言葉なのに呼ばれた名前に恐怖する。
 今更自分に付き纏うのかと。


「……透?」

 振り返った先にいたのは愛梨の特別だった。

「うん。うわぁ、久しぶりだね」

 近づいて来た透は愛梨の頭を優しく撫でる。

「愛菜じゃなくて愛梨だよ?」
「え??うん、わかってるよ。…………なんかごめんね?」

 愛梨は笑顔で首を横に振る。

「んーん。わかってないのに謝んないで?あの時ちっさかったもん。双子だし、あやふやにもなるよね」
「ごめん、何て言った?」
「いや、なんでも」

 また首を横に振る。

(逆に嬉しいくらいだもん。今度は透の特別になれるかな?)




 透は沢山話したし、とカフェテラスに場所を移動させる。
 その移動中、よく愛梨の姿を観察する。

(ーー気のせいか?)

 感じたのは本当に微かな違和感。
 何か、何かが、当てはまっていないような感覚。



 あまりにも見すぎたのだろう。
 ふと愛梨と視線が合う。

 愛梨は首を軽く傾げて、そして口を開く。

「なぁに?」

 あどけない口調。

 そうだ、これは彼女の癖だ。


 そのくせして、他は全て置き換わっている。
 何故、わざわざ癖をなくした。
 いや、変えたのか。

 コーヒーで口を湿らせて、躊躇うことを尋ねる。

「愛菜は?」

 笑顔が消え一瞬だけ泣きそうな表情になったかと思うと無になった。

「引っ越してすぐ、事故で死んじゃった……」
「………………そうなんだ」

 これ以外になんと返したらいい。
 迷ったすえにこれを言った。

 別に愛梨が死んだのではないのなら、他は全てどうだって構わないのだから。







 沢山の間をとってから出た、たった一言。
 その声は小さい上に掠れていて、明らかに無理矢理出していた。

(あぁ。やっぱり私は愛菜になれないんだ)


 無表情になってしまった透の顔を覗き込む。

「ねぇ透。私のこと恋人にしてくれない?」

 傷心につけ込む。
 別にそんなことは皆しているだろう。
 だからズルだなんて思わないでほしい。


「…………え。え、うん。いいよ」

 戸惑った表情を繕うように張り替えられた笑顔。

 それでもいい。
 一瞬で構わない。
 透の特別になりたいのだ。





 付き合ってすぐ駅まで手を繋いだ。
 手汗がすごかった。

 キスをする。
 胸の鼓動が激しすぎて相手に伝わってしまうかと思った。

 ハグをする。
 透の体温が想像以上に熱く感じて驚いた。

 借りている部屋に招く。
 進展はなかった。

 三回目に部屋へ招いた時それとなくエッチをしようと誘う。
 焦らなくていいのだと諭された。
 愛梨は不満でろくに話を聞いていなかった。



 大学特有の長い夏休み、愛梨は透をデートに誘う。

 透はバイトをしているから完全に自分の都合になってしまうのを申し訳なく思った。
 それを愛梨に言っても合わせるのは当然だと言いきょとんと微かに首を傾げてしまう。
 そんなことが悲しかった。


「愛梨に我儘言ってほしいなぁ」
「俺じゃなくて本人に言え!」

 キッと友人に睨まれるが尤もである。

「冷たい」
「惚気るな。リア充死ね!」
「……リア充なのかな」
「はぁ?違うのかよ!?」

 違う気がする。

「まいいや。それよりさ、透。お前って双子ちゃんのもう片方が好きなんじゃなかったっけか」
「………………」
「うぇ!? な、なんだよそのジト目」

 この友人は頭はいいくせにアホなのだとこういう時に強く思うが、しかしそれもこの友人の愛されキャラの秘訣なのだ。


「頭いいくせにアホだよね」
「おおっと突然の罵りアホはお前じゃね?」
「うるさい」

 スパンと友人の頭を叩き、いい音が鳴ったと満足する。

「俺の初恋は愛梨だと何回も言ってるよね?」
「おう。んでもってあまり笑わない静かな子なんだろ?」
「だからアホって言われるんだよ」
「んあ?」

 本気でわかっていなさそうな友人に呆れた目を送ってやる。

 察しろ。
 というか気づけ。


「俺が今付き合ってるのも愛梨だからね?」
「おう。…………? え」

 やっとわかったらしい友人に対して思いっきりため息を吐く。

「え、キャラ変? 透、それでもあの子のこと好きなの?」
「当たり前だから。性格じゃなくて、もっと根本的なところから好きなの。そんなのあんま関係ないの。俺はずっと愛梨だけを愛してるから」

 そーゆーとこ尊敬するわ、と言われるが透の中では当たり前のことなのでピンとこない。


「いやぁ、あの子透の話のお姉ちゃんの方だと思ってたわ」
「だよね。俺も少し話してからじゃないと気づけなかった」
「あの子人気者だよな。お前には劣るけどさ」

 愛菜の真似っ子をする愛梨は必死で可愛い。
 昔の立ち振る舞いも可愛かったけれど、今の方が俺と沢山話してくれるからありがたい。
 にまーと頬が緩む。

「うん、可愛いよね」

 どうして友人は苦虫を噛み潰したように顔を顰めるのだろうか。

「ん?」


 友人はゾクッと恐ろしい寒気が背筋を通り過ぎたのを感じる。

「お前やっぱおそろしーわ」

 少しだけ茶化すように言う。
 でないとやっていけない。

 そんなことはない。
 透はそう言い返したかったが、口を開いたところで思いとどまる。
 たしかに思考が普通でない時というのを自分でも感じることがあり、否定の言葉が消えたのだ。


「うん、そーかもね」

 なんだか可笑しくなって笑う。

「こえーよ」

 ドン引きされた。

 透は普段は上手く擬態して生きているくせに、初恋の妹ちゃんのこととなると腹の底が現れる。



 前、そんなに執着するなら何故探さないのかと尋ねたことがある。
 その時の言葉で「あ、こいつヤバい」と本気で悟った。

「権力と財力をつけるために決まってる。その二つがあれば大体のことは黙らせられるからね」
「いや、恋人ができてたらどうすんの」
「愛梨には悟られないように別れさせる。それか始末する」

 即座にキッパリスッパリとイイ笑顔付きで返された。


「…………うん。お前、おそろしーわ」

 女子よ、透の一挙一挙にキャーキャー騒いでいる女子よ、こんな男のドコがいいのだ。

 そう考えて現実逃避をするくらいには友人関係を続けるか躊躇うような出来事であった。






 あまり人が来ない女子トイレの個室に駆け込む。
 鍵を勢いよく閉める前から、留めきれなかった涙が溢れ出ていた。


「愛梨に我儘言ってほしいなぁ」
「俺じゃなくて本人に言え!」
「冷たい」
「惚気るな。リア充死ね!」
「……リア充なのかな」
「はぁ? 違うのかよ!?」


 盗み聞きするつもりはなかったが取っていた講義が突然休講になってしまい、透と同じ時間に空きが出た。
 だからきっと透の友達とカフェにいるだろうと当たりをつけて来たはいいが、なかなか入る間を見つけられないでいた。

 嬉しさで顔が赤くなる。

 今は一人なため、周囲にはきっと挙動不審に思われる。

 別にいい。
 それよりも、こうして透の本音らしきものを聞く方が重要だから。


「まいいや。それよりさ、透。お前って双子ちゃんのもう片方が好きなんじゃなかったっけか」
「………………」

 一気に突き落とされた。
 愛梨は視界が黒くぼやけていき俯くが、これ以上会話を聞きたくなくて急いでその場を離れる。

 辺りの雑音がやけに耳につく。
 それでも早歩きで何処か人のいない場所を目指して行き、何も考えないようにすることで涙を堪えようとした。



 トイレの中で無意味に声を上げて泣きたいのを口をキツく手で押さえて耐えながらただ、この激情が過ぎ去ってくれと祈るしかなかった。

(わかっていたでしょう、愛梨)

 弱い自分に嘲笑を向ける。

(恋人になったことであの人の特別は最初から私だったのかもしれないなんて勘違いをして、勝手に悲しんで、なんてバカなの)


 そこまで考えふと思う。

 自分が今流している涙は透の特別でないことに対する悲しみなのか、それともただ自分を憐れんでなのか。

 どっちもなのだろう。

 自分を憐れむ涙は駄目だ。
 もう十分みっともない自分がさらにみっともなくなる行為は避けなくてはならない。
 たとえそのみっともなさが見えているのが自分だけだとしても、だ。


 愛梨の涙は完全に止まっていた。

「別れよう」

 しかし、最後に一筋だけ涙が溢れる。    
 隠すようにハンカチで拭い取り、なかったことにした。

「ちょっとの間でも透の特別になれたんだからもういいじゃない」

 その言葉は結局行き場を得ずに消え失せた。







「別れよっか、透」

 透の顔を見て言えない愛梨はお城を眺め、何気ないように切り出した。
 右手では何となく頭上のカチューシャを弄っている。

「ーーーーは?」 

 透の想定していなかった反応に愛梨は見るつもりのなかった透の方を向く。
 透はあまりにもネズミの男の子のカチューシャと不似合いな不機嫌の悪い声だった。

「え」


 眉は完全に顰められ表情は抜け落ち目は驚くほど冷酷で、愛梨は訳もわからずに震えてしまう。
 繋がれたままの手をぎゅうぎゅうと凄い力で握られる。

「痛っ」
「どうして?」
「な、何が?」

 初めて聞く温度のない声にさらに怯える。

「どうして、別れるなんて言うの?」
「だって、私は愛梨なんだもん」
「うん、愛梨だね」
「愛菜じゃないの」
「当たり前でしょ」


 すんなり別れてしまうと思っていたのに。
 そして愛梨はまたトイレでひっそりと最後の涙を流すものだと思っていた。

「…………? 透、私を愛菜の代わりにしてたんじゃないの?」
「どうしてそうなった」

 さっきの「は?」が最低の声音だと思ったが今の方が低くさらに恐ろしい。

「だって透の友達、透は双子ちゃんのもう片方が好きって」
「は?」

 透は軽く考えるように愛梨の手を握っていない右手を顎に当てる。



 長い沈黙だった。
 今だけは雑音が耳に全く入ってこず、愛梨は透が口を開くことだけを待っていた。

(透の中でそんなに軽い出来事だったの?)


「は」

 剣の抜けた声で、愛梨はこんな時だというのに少し安心する。

「愛梨、どこまで聞いてたの?」
「さっきの言葉で、透が黙るところまで」

 透の冷酷だった目が溶けて、何故かアホの子を見る生温かい眼差しとなった。


 愛梨は首を捻るしかないのだが、説明してくれないのだろうか。

「愛梨って昔性格違ったでしょ?」
「うん」
「で、よくその頃の話をしながら大好き大好き言っていたからあのアホの中で名前はすっぽ抜けてたみたいでね」
「…………つまり」
「俺は昔からずっと愛梨が好きってこと」


 愛梨は今、熱中症で倒れて夢の中にいるのだきっと。
 デート中だったから都合の良い夢を見てしまったらしい。

 そうでないとあり得ない。

 透が愛梨を好きだなんて。

 あの愛菜の影でしかなかった愛梨を、わざわざ愛菜より好きでいてくれたなんて信じられない。


「うそ」
「嘘じゃないよ」
「絶対うそ」

 首をぶんぶんと振り、すぐに透に固定される。

「絶対嘘じゃない」
「…………愛菜の代わりなんかじゃない?」
「違う。愛菜なんてどうでもよかった」


 愛梨の中では、愛菜にも笑顔で話しかける透の姿が浮かび上がる。

 あの頃の二人はどこか愛梨が入れない雰囲気を纏って話すことが多々あった。
 それでもなんとか頑張って愛梨が話に入っても、何でもないと誤魔化されて話を切られた。

「うそ。私より愛菜と楽しそうに話してた。私が入ると話を切って逸らしたじゃん」
「あ~、そんな風に思ってたんだ」

 透が困ったように苦笑する。



 愛菜のことが透は嫌いだったが、愛梨は慕っていたため透は愛菜も普通に見えるように接していた。

 愛梨が孤立していたのは愛菜がそう仕向けていたからなのだ。
 そしてそんな愛梨を慰めて一緒の輪に入れて、そんなサイクルで愛梨に自分は駄目なのだという考えを愛菜はほぼ無意識で植え付けていた。
透の方が愛梨を好きなのに愛菜が愛梨を独占して威嚇して回り人を近づけない。

 透は愛菜を同族だと認識した。
 愛菜も透を同族だと認識した。

 そこからは二人きりだと嫌味大会で、同族嫌悪というものは実際にあるのだと実感する日々だった。


(そんな姿を楽しそう、と肝心な本人には思われてたのか……)

 透と愛菜は真剣に愛梨を巡るバトルをしていたため、大好きな愛梨にそう思われる中していたのだと思うと複雑になる。

「同族嫌悪だったんだあれは」
「同族嫌悪」
「そう。愛菜のことは好きどころか嫌いだった」



 十年経ってから知る新事実に愛梨は目を瞬かせる。

 回らない頭で何を言おうか考えるが、いい言葉は思いつかない。
 だからつい、愛梨は本音が漏れてしまった。

「じゃあ、私のこと愛してる?」
「うん、愛してる。愛梨、可愛いね」

 とろりと甘い言葉が素直に身に染み渡ってゆく。
 これまでも透から言われていた言葉だというのに、愛梨の心の持ちようだけでこれほどまでに甘く感じるものなのか。

 口が勝手に満面の笑みを浮かべる。
 一筋だけ涙が流れるがどうでもよかった。


「私も。透、愛してる」





 



しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...