病院の僧侶(プリースト) と家賃という悪夢にしばられた医者

加藤かんぬき

文字の大きさ
上 下
37 / 57

ストレプトマイシン(1)

しおりを挟む
「サーキスはブラウンさん家でちゃんとやれてる?」
 今日は患者の往診日。病院の出がけにパディがサーキスに気になることを訊いた。最近、もっぱら興味があることだ。サーキスが生返事で、「まあぼちぼち」と言いかけるとリリカが説明を始めた。

「家の中でサーキスはファナに一日に十回ぐらいキスを迫ってくるそうです。『もうチュッチュッ、チュッチュッしてくるんだよ! あんなに甘えん坊って知らなかった!』ってファナが呆れてました。それも所かまわずやるものだから、おばあちゃんに見られて『こらサーキス! チューするのはあたしが見えない所でおやり!』って怒られてたそうです」

 パディが冷やかした顔になって言った。
「新婚さんだね! いいねえー!」
 サーキスは無言で耐えた。お喋りな妻を持った宿命だ。妻の友人に筒抜け。これは税金と同じものなのだ。彼は自分に言い聞かせた。

     *

 燕尾服にシルクハットをかぶった中年、ゲイル・マルクは久方ぶりに青い屋根の病院を目にして胸が高鳴り、気持ちが勝手にソワソワとしてしまう。
(久しぶりにライス先生と会える…)

 涼しい秋風を浴びても気持ちの高揚が止まらないゲイル・マルク。彼は自分が尊敬するパディに会おうとライス総合外科病院の門戸を開けた。
「こんにちはー、ライス先生! お久しぶりですゲイルです!」
 しかし、現れたのは期待外れの金髪の青年だった。

「こんにちはー! 患者さん? 違うの? パディ先生は往診に出てるぜ! ちょっと帰って来るのに時間がかかるぜ!」
(何なんだ、この口の利き方の知らない若者は! 看護師のシャツにセリーンの刺繡…。僧侶か…。こんな落ちこぼれのような若者でよっぽど僧侶不足と見える。医学と神学は相容れない。まさにそれを具現化したような光景だ)

「なら待たせてもらうよ。私は先生の知り合いでゲイル・マルクという。待合室で座っている。ああ、お構いなく」
 そう語る彼にサーキスは驚いた。
「え…、そうなんだ…」

 ゲイルが椅子に座っていると壁の陰からさっきの青年がチラチラとこちらを見ている。するとやがて金髪の青年はコーヒーを持って来た。それをテーブルに置き、正面の席に腰を下ろした。
 ゲイルはこの年頃の男が嫌いだった。粗野で無鉄砲で女を口説くことしか考えていない。どうせこの病院へ来たのも職にあぶれて仕方なく、だろう。

(私はこんな輩と話す舌は持たないぞ…)
「あの、ストレプトマイシンとかペニシリン…」
「え⁉」
 サーキスの意外な言葉にゲイルは思わず声が漏れた。

「結核とか肺炎の薬ってゲイルさんが作ったんだよね! いつか会ってみたいと思っていたぜ! あ、失礼いたしました! 俺、ここで働いている僧侶のサーキス・リアム・ブラウンです!」
 サーキスから握手を求められて思わず応じてしまう。

「感激だぜ! 俺も肺炎とかは誰かが治して欲しいって思っていたから…。で、ゲイルさんが最初に結核の薬を作ったって聞いたから、もしかしたら結核にかかった人を助けたい一心でストレプトマイシンを作ったんじゃないかと思ったんだ。先生はそれを教えてくれなかったし」

 ゲイルは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。話をしてみれば最初の印象と全く違う。この男はたぶん勤勉な人間だ。ストレプトマイシンと言いにくい名前もスラスラと言っている。普段からそれを口にしているのだろう。

「結核にかかったのは私の妻だ。具合が悪く、寝たきりだった。妻の看病で私は仕事もままならず、妻に付きっきりだった…。五年以上も前のことだ」
(私はこんな初対面に何を話しているんだ…)
「…しばらくして不動産屋のフォードさんが家賃の取り立てに来た」

「フォードさん!」
「知り合いかい?」
「そりゃ、有名人だもん! パディ先生にいつも因縁をふっかけてくるよ!」
 ゲイルは思わず笑ってしまった。

「ははは! それはライス先生のことが好きだからだよ! …それで、フォードさんは家賃を請求してきたが、私は仕事をしていなかったので金を払えなかった。そしたら、ボロクソ言われたよ。ごくつぶしだの脳無しだの。それでフォードさんはライス先生を連れて来た。それが先生との初めての出会いだった。

 そこに同伴していた僧侶に妻の肺を透視してもらった。先生はそれはやはり結核だと言う。そして今この国では治療方法がないと。とりあえず妻の部屋は窓を開けて換気を良くして、妻の部屋にいる時は必ずマスクみたいな物で口を覆うようにアドバイスされた。

 それから、ライス先生から私の前職を訊かれたので数学の教師だと答えた。それなら私に薬を作ることができるかもしれないと。そしてライス先生は提案した。サイネリア薬品という小さな薬品会社がある。

 そこに在籍させてもらって妻の看病をしながら、自宅で薬を作れと。試作品が完成したら、会社の方で大量生産すればいい。初めは赤字になるだろうが、儲かれば大金が手に入るだろうと」

「あの、それってできたならって話でしょ? その間に製薬会社は損するんじゃない? それに在宅勤務ってゲイルさんにただ都合がいいだけだよね? その場にいたフォードさんは、『パディちゃーん! お前、そんなこと言って薬屋さんが納得するって思うの? 一体ペイアウトできるまで何年かかるのー?』とか言ったはずだぜ」

「ふふっ。君は物真似がうまい。似たようなことを言ってたよ。でも、すでにフォードさんは同意しているようだった。私はフォードさんの計らいでサイネリア薬品に入社できた。挨拶も無しに一度も会社へ出社しないままでだ。

 それからライス先生は畑の土と顕微鏡、温度計を持って来た。顕微鏡はその時に初めて見た。すごかった。目に見えない小さな物が見えるんだ。それも先生が仕組みを職人に教えて作らせたんだ。細長い筒の前と後ろにガラス玉を付けると物が大きく見えるらしい。職人はそれを苦心して改良してようやく作り上げたそうだ」

 それを裏から糸を引いていたのは説明するまでもなくフォードである。顕微鏡と同時に作られた双眼鏡や望遠鏡は地中海などで飛ぶように売れた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

白衣の下 先生無茶振りはやめて‼️

アーキテクト
恋愛
弟の主治医と女子大生の恋模様

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。

海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。 ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。 「案外、本当に君以外いないかも」 「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」 「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」 そのドクターの甘さは手加減を知らない。 【登場人物】 末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。   恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる? 田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い? 【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

処理中です...