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ときには、心休まる休息を
④ 『星空』
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太陽がそろそろ西の空に沈む頃になって、バルネアはようやくその考えに行き着く。
「……何をやっているんだろう、私は……」
バルネアはようやく完成したメニュー表を見ながら、頭痛をこらえるように頭を片手で抑えて嘆息する。
これが今度の料理コンテストのものであればなんの問題もないのだが、昼過ぎから今までの時間を掛けて懸命に作り上げたこのメニュー表は、明日、ティルという少年に食べてもらうためのものだった。
「今日がうちのお店を使える最後の日だったのに……。ううっ、どうしよう。コンテストのメニューをまるで考えないで終わっちゃった……」
もうコンテストまで間がない。
今日は料理長にダメ出しをされたメニューの改良をしなければいけなかったはずなのに。
「……そもそも、どうしてあんな約束をしちゃったんだろう? 明日からもコンテストに向けて頑張らなくちゃいけないのに……」
あまりにも自分の作った料理を美味しそうに、幸せそうに食べるものだから。
そしていい笑顔をするものだから、それが嬉しくてもう一度その顔を見たいと思ってしまった。
「……現実逃避をしたいのかな? ……でも、ダメよ。今回が最後のチャンスなんだから!」
そう自分に気合を入れようとしたバルネアだったが、不意に店の裏口から聞こえてきた猫の鳴き声に気を取られてしまう。
「あっ、ニャン達のご飯の用意もしてなかったわ!」
バルネアは大慌てで昼前に作った料理の残りを持って裏口に向かう。
裏口の扉を開けると、猫が二匹、店のドアを引っ掻いていた。
「お待たせ。ニャン、ニャー。今日はいつもよりも豪勢だから許してね」
丸々と太った二匹の猫――真っ白な毛並みの猫と薄茶色と白の混ざった毛並みの猫に謝罪をし、バルネアは二匹専用のエサ入れに持ってきた料理を配膳する。
この二匹の猫は野良猫なのだが、バルネアがこの店で働く前から、こうやって定期的に店にやってきては店の残飯を催促するようになっていた。
店の先輩が餌付けしたのが原因らしい。
スンスンとバルネアの料理の匂いをかぎ、二匹の猫は満足気にそれを口にする。
バルネアはほっと胸を撫で下ろす。
料理長にはだめだと言われたが、猫達はバルネアの料理を認めてくれたのだ。
「みんなが残り物をあげるものだから、すっかり舌が肥えちゃったのよね、ニャンとニャーは」
この二匹が影の料理長だと言われているのはそんな理由があるからだ。
「こぉ~ら。美味しいのなら美味しいって言ってよ。……って、言えるわけないわよね」
バルネアは苦笑して小さく嘆息する。
「ニャンたちには喜んでもらえているけど、料理長にはダメだって言われてしまったのよね。……まったく、いったい何が足りないのかしら……」
バルネアは膝を曲げて、美味しそうに自分の料理を味わう猫の頭を撫でる。
フワフワとした毛並みが心地いい。
「……そっか。今日で最後なんだね。あなた達にご飯をあげるのも……」
しんみりとした気持ちで猫を撫でていたバルネアだったが、不意に人の気配を感じてそちらに視線を移す。
「……あれって……」
店の向かいの道路を歩く、ランプと何かの包みを片手に歩く小柄で線の細い少年。
先ほどまでバルネアがその顔を思い浮かべながらメニュー作りをしていた人物だった。
「ティ~ル。こんな時間に何しているの?」
駆け寄って声をかけると、彼は驚いて小さくすくみあがった。
「わっ! ……あっ、ああっ。きっ、君は、バルネア……さん……」
「もう、バルネアでいいわよ。同い年なんだし、私も貴方のこと『ティル』って呼びたいし。ねっ、いいでしょう?」
相手の意志を無視して、バルネアは強引に呼び捨てで呼び合うことを決める。
「あっ、うん。君がいいのなら……」
「そんなの、いいに決まってるわよ。……それで、何をしているの?」
ティルは何かの包みを両手で抱えて歩いていた。
こんな時間にどこかに届け物を運んでいるということはないだろう。
「……今日もいい天気だから、星を見ようと思って……」
「星? 星を見てどうするの?」
「……いろいろと勉強しないといけないことがあるんだ。僕は航海士見習いだからね」
そう言ってティルは苦笑する。
「それと、僕は星を見るのが好きなんだ。だから、天気が良い日は毎晩、星を見て過ごしているんだよ。……さすがに明日も仕事があるから、それに差し支えがない時間には戻って休むけどね」
ティルの行動はバルネアの予想だにしないことだった。
しかし、夜遅くまで星を見るというのはどういう楽しみがあるのだろうかと興味を惹かれる。
「うん。思わぬことが料理のアイデアになるかも分からないし……」
バルネアはそう思い、無茶な提案をティルに持ちかける。
「ねぇ、ティル。私にも貴方の見ている景色を見せてくれないかしら? 今日はもう家に戻ろうとしてたところだから、店の戸締まりをしたら時間が取れるから」
「えっ? だっ、だめだよ! 女の子が夜道を出歩くなんて危険だよ……」
「大丈夫よ。料理作りに熱中しすぎて、夜道を一人で歩いて帰るなんてザラなんだから。それに、いざというときの逃げ足にも自信があるし。ねっ? いいでしょう?」
バルネアはティルにそう頼み込み、強引に同行を迫る。
「でっ、でも……」
「それに、どっちにしろこれから一人で夜道を帰らなくちゃいけないのは変わらないわよ。すぐに戸締まりをしてくるから少しだけ待っていて」
ティルの反対を押し切り、バルネアは店に戻って後片付けを手早く終えて戸締まりをし、律儀に店の前で待っていたティルと一緒に星を見るために二人で歩き出した。
街の入口から少し外れた高台で、ティルは足を止めた。
どうやらここが目的の場所のようだ。
「うわぁ~。こんなに綺麗に星が見える場所があったのね」
空を見上げると満天の星空が広がっていて、バルネアは感嘆の声を上げる。
「うっ、うん。照明用の松明の明かりも近いから、危険も少ないし、星を観測するにはもってこいの場所なんだ。……街の入口の警備に見つかりにくいっていうのもあるんだけど……」
「あっ、もしかして、秘密の場所だったの?」
「いや。秘密でも何でもないよ。ただ夜は僕以外の人がいるところを見たことはないけどね」
ティルは苦笑し、手にしていた包みを開いて望遠鏡と何かを取り出した。
「……これは六分儀だよ。天体の高度測定や自分の位置の割り出しなどに利用されるものなんだ」
バルネアの視線の先にあるものを見て、ティルはその器具の名前を教えてくれた。
「ろくぶんぎ? へぇ、聞いたこともないわね。どうやって使うものなの?」
「あっ、うん。陸の上で使うものじゃないんだけど、いつも持っているようにって先輩に言われているんだ。えっと、これは海の上で……」
ひと通りその道具の説明を聞いたが、バルネアにはよくわからないものだった。
ただ、説明するティルの顔が嬉しそうで、バルネアは笑顔で話を聞き続ける。
「……あっ、ごめん。僕ばかり一方的に話してしまって……」
「いいわよ、そんなことを謝らないで。でも、本当に星を見るのが好きなのね、貴方は」
昼間はバルネアが質問するばかりで、ティルが自分から発言することは殆どなかった。
弁に熱がこもるほどに、彼にとって星の観察は重要な事なのだろう。
「ははっ……。変な趣味だってよく言われるけどね……」
ティルはそう言って苦笑する。
その笑顔が少し淋しげに思えて、バルネアは口を開く。
「……毎日、一人で朝まで星を見ているの?」
「うん。僕はお酒は飲めないし、他に特にこれといった趣味はないから……。いつもここで星を見ているんだ……」
一層淋しげにティルは微笑む。
昼間の自分に向けてくれた笑顔とあまりにも違うその笑みに、バルネアの心が痛んだ。
「……ティル。あなたには夢はないの? 私にはあるわよ。世界一の料理人になるって夢が。そのために毎日頑張っているんだから」
「……すごいね、君は……。僕には夢なんてないから、少し羨ましいよ」
ティルはそう言って顔を俯ける。
「……ねぇ、ティル。『瓜を蒔けば瓜が取れ、豆を蒔けば豆が取れる』ということわざを知っているかしら?」
不意にバルネアはそんな話題をティルに振る。
「いや、知らないよ。……でも、それって当たり前のことなんじゃあ……」
「うん。そのとおり。当たり前のことよ。つまり、物事には原因があるから結果があるっていう意味ね。だから、何事もまずはやってみなくちゃ始まらないの。何かを得ようと思ったらそのための努力をしなくちゃだめってことよ。
趣味がないのなら、なにかを始めてみたらいいんじゃないかしら? 結果としてそれが趣味や夢に変わっていくかもしれないじゃない」
「ははっ、そうかもしれないね……」
バルネアの叱咤にも、ティルはやはり淋しげに微笑むだけだった。
それに釣られて、バルネアは小さく息を吐いた。
「……なんて偉そうなこと言ったけど、私も貴方のことをどうこういう資格なんてないのよね……」
「えっ? どういうこと?」
「……私ね、今度の料理コンテストに参加するんだけど、優勝できなかったら夢を失ってしまうの。世界一の料理人になるって夢を……。だから頑張らなくちゃいけないんだけど……」
ティルに話しても仕方がないことだというのに、バルネアは自分の身の上話を始めてしまう。
ティルを励まそうとしていたのに、これでは逆効果だと思ったが後の祭りだった。
だが、ティルはそれを黙って聞いていてくれた。
「……『世界一の料理人』って、世界で一番料理で人を笑顔にする事が出来る人のことだと私は思うの。そして、料理を食べてくれる人を笑顔にするためには、心をこめて最高の料理を作らないといけない。
でも、そのためにはどうしても技術が必要なの。自分の思いを形にするための力が…‥。だから私はどうしても『銀の旋律』に入らなくちゃいけない。……そして、今回が最後のチャンスなの……」
自分に言い聞かせるようにバルネアは言葉を紡いだが、そこで今まで黙って話を聞いていたティルが口を開いた。
「……どうして、最後のチャンスなのかな? 他にも料理店はいくつもあるよね? 僕もたくさんの国に行ったことがあるわけじゃないけど、世界って広いと思うよ」
きょとんとした顔で、ティルは尋ね返してくる。
「もう、分かってないわね。『銀の旋律』よ、『銀の旋律』! 世界でも指折りの名店! そのお店に入ってもっと腕を磨いていかないと、私の夢はかなわないんだから」
「……僕から見れば、君も十分すごい料理人なんだけど、『銀の旋律』ってお店の料理はそんなに違うのかな?」
バルネアが説明しても、ティルはいまいち『銀の旋律』という店の凄さを、そこで働けるということの重大さが分からないようだ。
「『銀の旋律』で食事をしたことがないのね。あの店で料理を食べたらすぐに分かるわよ。今の私なんか比較にならないわ。あの店の料理は特別なの。だから、どうしてもそこに入って腕を磨かないといけないのよ!」
幼い頃、一度だけ両親に連れて行って貰って、『銀の旋律』で食事をした。
それは夢の様なひとときだった。
すべてが計算尽くされた完璧な料理の数々。
その美しさも味もすべてが初めての経験で、バルネアはそれに魅入られた。
こんな料理を作れるようになりたい。
このお店で働きたい。
それがバルネアの目標になった。
「……だから、頑張らなくちゃいけない。もしも今度のコンテストで優勝できなかったら全てを失ってしまう。でも、なんだか……疲れちゃって……」
小さくバルネアは息を吐く。
「……そうなんだ。君も大変なんだね。羨ましいだなんて言って、ごめん……」
「いいわよ、謝らないで。私の方こそごめんなさい。変な話を聞かせちゃって……」
そう言って二人の会話が少しの間途切れる。
だが、またティルがその沈黙を破って口を開いた。
「……その、僕は君がどれほど大変な思いをしているのかわからないから、こんなことしか言えないけれど……」
ティルは申し訳無さそうに言い、静かに言葉を続けようとする。
その言葉を聞くまでもなく、バルネアは彼が自分に何を言おうとしているのか予想がついた。
「きっと、『がんばって』とかよね……」
毎日毎日、自分ができるかぎり精一杯頑張っていることをティルは知らない。
それに、今日話すようになったばかりの他人のことだ。
そんなことを気遣ってくれるはずがない。
だが、ティルの口から発せられた言葉は、バルネアの予想とは異なっていた。
「……疲れたのなら、少し休んだらいいんじゃないかな? 努力をすることが大事なのはわかるけれど、ときには休息も必要だと思うよ」
そう言ってティルは微笑んだ。
その微笑みは憂いを含まない笑顔。
昼間に自分に向けてくれた満面の笑顔だった。
「…………」
予想外の言葉に、バルネアはどう反応していいのか分からない。
「……僕の実家は小さな料理屋でね。だから、君がすごい料理人だということは分かるんだ。そしてそこまでの腕を身につけるには、きっと僕なんかが想像もつかないような努力をしたからだと思う。さっき、君自身が言っていたように、ずっと頑張ってきたんだよね、きっと……」
「……ティル……」
バルネアはティルの名前を呼ぶ。
だが、二の句がつながらない。
何を言えばいいのかわからない。
ただ、バルネアの瞳から涙が一滴こぼれ落ちた。
「あっ、その、ごめん。勝手なことを言って……」
「……ううん。違うの。これは、その、嬉しかったから……。おっ、おかしいわよね。今日話すようになったばかりなのに、なんだか貴方と話していると……ずっと前からの知り合いだったような気がするわ……」
「……うん。僕もだよ。……でも、僕は以前から……えっと、君の事は知っていたんだ」
「えっ?」
ティルの告白に、バルネアは驚く。
「前にも、猫に餌をあげているのを通りがかりに何度か見かけた事があったんだ。いつも、嬉しそうに笑顔で猫に餌をやっていたよね。それに、厨房にいる君の姿を客席から見かけた時も君はいつも笑顔で元気に料理を作っていた。
でも、今日、街中で出会った君はひどく思いつめた顔をしていたから、思わず声をかけてしまったんだ」
「……そっか。私のことを知っていたんだ。ふふっ、もしかして気にかけていてくれたのかしら?」
「あっ、いや、その……。……分からないんだ、こんな気持ちは初めてで……」
冗談で言ったはずだったのだが、そう言って顔を赤くするティルにつられて、バルネアも恥ずかしくなって赤面する。
なんとも気まずい空気が流れたが、なんとか話題を変えようとバルネアは強引に話を切り替えることにする。
「そっ、そう言えば、貴方のお家も料理屋さんだと言っていたわよね? どうしてお店を継ごうとは思わなかったの?」
「……僕は男だからだよ。僕の故郷は小さな島でね。そこでは男は船乗りになる人がほとんどなんだ。だから周りのみんなに言われるままに僕も船乗りになったんだ。まぁ、他にやりたいことがあったわけじゃないから、特に後悔はしていないけど……」
「……もったいない。もったいないわよ、それって! 料理人って素敵な職業なのよ」
他人のことながら心底そう思い、バルネアは声を荒げる。
だが、ティルは笑顔でそれを受け止めた。
「ははっ。君は本当に料理が大好きなんだね。だから、あんなふうに楽しそうに料理をするんだ。
……うん。大丈夫だよ。今の君は疲れているだけだよ、きっと。少し休んだらまた元気を取り戻せる。そこまで思いつめるほどに大好きなものが君にはあるんだから」
ティルは嘆息し、
「やっぱり君が羨ましいな。僕も何か君のように……」
そう言葉を続ける。
「だから、それはこれからいくらでも探す事ができるでしょうが! まずは自分の好きなことを見つけることよ。そしてそれを見つけたら、一生懸命頑張るの!」
「うん。そうだね。でも、たまには休息も必要だよ、バルネア。君の場合は特に注意が必要みたいだ」
「っ……」
初めてティルの口から名前で呼ばれて、満面の笑顔を向けられて、バルネアは言葉に詰まる。
どうしてこんなに顔が熱くなるのか、バルネア自身にも分からない。
「わっ、分かったようなこと言わないでよ。……そっ、その、正直当たっていると自分でも思うけど……」
バルネアの言葉に、ティルはただ黙って微笑む。
それがまるで自分を見抜かれてしまっているようで、バルネアは不満そうに口を尖らせる。
「むぅ、なんだか私ばかり貴方に見透かされていく感じがするわ。不公平よ、そんなの。……そうだ、ティル。貴方の好きな料理って何かしら? いろいろな国に行った事があるんでしょう? 貴方が食べて美味しいと感じた料理のことを教えて!」
足がつかれてきたので、バルネアは芝生の上に静かに腰を下ろし、ティルにも隣に座るように手招きする。
「えっ? そっ、そう言われても……。うっ、う~ん、何が美味しかったかな……」
そう言いながら遠慮がちにティルはバルネアの隣に腰を下ろす。
その時のティルの顔が赤く見えたのは、松明の明かりのせいだけではないだろう。
バルネアは少しだけ溜飲が下がる思いだった。
ティルは暫く悩んでなかなか答えを出せないでいたので、バルネアが助け舟を出す。
「ここの近くなら、ビラッセ共和国に行ったことはあるわよね? そこの魚介料理は食べたことがあるでしょう?」
「あっ、うん。そういえば、チーズも有名だよね。……えっと、僕が行くのは大衆料理屋で、『潮風のささやき』っていうお店で食べていたんだけど……」
バルネアが話を振ると、ティルもそれに乗ってきた。
「おっ、有名どころね。あのお店の料理も美味しいわよね。でっ、貴方のお気に入りの料理ってなんだったのかしら?」
「えっ、え~と、魚介類も美味しいんだけど、やっぱり海での生活が長いと、肉料理のほうが食べたいって思ってしまうんだ。だから……」
「……ふむふむ。たしかにあのお店は牛肉料理も美味しいわよね。チーズを使っても肉の味が濃厚で、チーズの味に負けないのよね。あっ、そういえば、チーズといえば……」
バルネアは笑顔でティルと料理談義を続ける。
ティルも嬉しそうにそれに付き合ってくれた。
バルネアは話に熱中しながらも、ティルの話を元に明日の昼食のメニューを一度白紙に戻して、頭のなかで再構築して行く。
「……後は、ええと、どこで食べたかな……。あっ、そうだ、たしか……」
「あらっ? そこは行ったことがないわ。でっ、どんな料理が出てきたの? たしかあそこの名産は……」
「あっ、うん。いつも日替わりの定食を食べていたんだけど、先輩が給料日に……」
話をしているうちにティルの表情から硬さが抜けて、笑顔が増えてきた。
バルネアは満足気に微笑む。
「えっと、どうしたの?」
不意にバルネアが満面の笑顔を浮かべたことを怪訝に思ったのだろう。
ティルがそう尋ねてきた。
「ティル。私、貴方の趣味を一つ見つけたわよ。貴方は美味しい料理を食べることが好きなのよ」
「……えっ? でっ、でも、それは趣味って言わないんじゃあ……」
ティルの言葉に、バルネアは「えい」と冗談で彼の頭を叩く真似をする。
「何を言っているのよ。食事は生きていく上で欠かすことができない大切なことよ。『医者より料理人を召し抱えよ』ってことわざもあるくらいだしね。そんな重要な事を楽しいと思えることって、とても素敵なことよ」
バルネアは得意気にそう言うが、ティルは釈然としないのか、なんとも複雑な顔をする。
「でっ、でも、人間だったら、だれでもおいしい食事には興味があるんじゃあ……」
「そんなことないわよ。食事に興味が薄い人だっているもの。それに、貴方は普通の人よりも食事に感心を持っているわよ。だって、私と料理の話を色々としてくれたじゃない。食事に興味を持ってない人なら、こんなに話が続くわけがないわ。
更に付け加えるのなら、うちのお店に頻繁に食べに来てくれていたことも理由の一つよ。『銅の調べ』は大衆向けの料理店だけど、他のお店よりも少々割高だもの。お金を多少多く払っても美味しいものを食べたいって思っているのよ、貴方は」
呆気にとられるティルに、バルネアは微笑みながらそう断言する。
「でっ、でも、それが趣味になっても、夢にはならな……」
バルネアはティルの口の前に右手の人差し指を立てて、彼の言葉を遮る。
「そんなわけないでしょうが。私の『世界一の料理人になる』っていう夢だって、私が美味しいものを食べたいからっていう理由もあるのよ。つまり、美味しいものを食べるのが好きっていうのは、私の夢の原動力の一つなのよ」
バルネアは呆然とするティルを尻目に言葉を続ける。
「……そうね、ティル。貴方の場合は『世界中の美味しいものを食べつくす』なんて夢はどうかしら? お金も時間も掛かるから生半可な気持ちで叶う夢じゃないわよ。でも、やりがいがありそうだとは思わない?」
真摯な表情で言うバルネアに、ティルは暫く呆然としていたが、不意に、ぷっと吹き出し、声を上げて笑い出した。
「なっ、なによ。そんなに笑わなくてもいいじゃない……」
「ごっ、ごめん。でっ、でも、可笑しくて。……そっ、そうだね。確かにやりがいはありそうだ」
ティルは笑い声を何とか堪えてそう呟くと、ふぅ、と小さく嘆息する。
「ははっ。こんなに笑ったのはいつ以来かな。すごいね、やっぱり君は……」
「むぅ~。私の事バカにしているでしょう?」
ジト目でティルを見るバルネア。
ティルは「そんなことはないよ」と言い、微笑む。
「……ずるいなぁ、その笑顔……」
ティルの笑顔に、文句の言葉もかき消されてしまった。
どうしてこの人の笑顔はこんなにも眩しいのだろうと、バルネアは不思議に思う。
「えっと、どうしたの?」
「もう、なんでもないわよ。……そうだ、ティル。今までは貴方の好きな料理を話してもらったけど、今度は逆に貴方の苦手な食べ物の話を聞かせてくれないかしら? どうしても食べられないものとかも知っておきたいから。ねっ、いいでしょう?」
「えっ、あっ、うっ、うん……。特に苦手なものはないんだけど……えっと、そうだな……」
バルネアの笑顔の問に、ティルは頬を紅潮させ、懸命に頭を抱えながら答えを探す。
「ふふふっ、悪く無いわね。ティルが私のことを意識してくれるのって」
バルネアは悪戯っぽい笑みを浮かべながら心の中で呟く。
少々意地が悪いなとは自分自身でも思わないでもないが、それはお互い様だろう。
もっとも、ティル自身はバルネアが彼の笑顔に惹かれていることをはっきりとは分かっていないようだが。
懸命に考えるティルを見つめながらバルネアは微笑む。
そして二人で夜が更けるまで、いろいろなことを話し合ったのだった。
「……何をやっているんだろう、私は……」
バルネアはようやく完成したメニュー表を見ながら、頭痛をこらえるように頭を片手で抑えて嘆息する。
これが今度の料理コンテストのものであればなんの問題もないのだが、昼過ぎから今までの時間を掛けて懸命に作り上げたこのメニュー表は、明日、ティルという少年に食べてもらうためのものだった。
「今日がうちのお店を使える最後の日だったのに……。ううっ、どうしよう。コンテストのメニューをまるで考えないで終わっちゃった……」
もうコンテストまで間がない。
今日は料理長にダメ出しをされたメニューの改良をしなければいけなかったはずなのに。
「……そもそも、どうしてあんな約束をしちゃったんだろう? 明日からもコンテストに向けて頑張らなくちゃいけないのに……」
あまりにも自分の作った料理を美味しそうに、幸せそうに食べるものだから。
そしていい笑顔をするものだから、それが嬉しくてもう一度その顔を見たいと思ってしまった。
「……現実逃避をしたいのかな? ……でも、ダメよ。今回が最後のチャンスなんだから!」
そう自分に気合を入れようとしたバルネアだったが、不意に店の裏口から聞こえてきた猫の鳴き声に気を取られてしまう。
「あっ、ニャン達のご飯の用意もしてなかったわ!」
バルネアは大慌てで昼前に作った料理の残りを持って裏口に向かう。
裏口の扉を開けると、猫が二匹、店のドアを引っ掻いていた。
「お待たせ。ニャン、ニャー。今日はいつもよりも豪勢だから許してね」
丸々と太った二匹の猫――真っ白な毛並みの猫と薄茶色と白の混ざった毛並みの猫に謝罪をし、バルネアは二匹専用のエサ入れに持ってきた料理を配膳する。
この二匹の猫は野良猫なのだが、バルネアがこの店で働く前から、こうやって定期的に店にやってきては店の残飯を催促するようになっていた。
店の先輩が餌付けしたのが原因らしい。
スンスンとバルネアの料理の匂いをかぎ、二匹の猫は満足気にそれを口にする。
バルネアはほっと胸を撫で下ろす。
料理長にはだめだと言われたが、猫達はバルネアの料理を認めてくれたのだ。
「みんなが残り物をあげるものだから、すっかり舌が肥えちゃったのよね、ニャンとニャーは」
この二匹が影の料理長だと言われているのはそんな理由があるからだ。
「こぉ~ら。美味しいのなら美味しいって言ってよ。……って、言えるわけないわよね」
バルネアは苦笑して小さく嘆息する。
「ニャンたちには喜んでもらえているけど、料理長にはダメだって言われてしまったのよね。……まったく、いったい何が足りないのかしら……」
バルネアは膝を曲げて、美味しそうに自分の料理を味わう猫の頭を撫でる。
フワフワとした毛並みが心地いい。
「……そっか。今日で最後なんだね。あなた達にご飯をあげるのも……」
しんみりとした気持ちで猫を撫でていたバルネアだったが、不意に人の気配を感じてそちらに視線を移す。
「……あれって……」
店の向かいの道路を歩く、ランプと何かの包みを片手に歩く小柄で線の細い少年。
先ほどまでバルネアがその顔を思い浮かべながらメニュー作りをしていた人物だった。
「ティ~ル。こんな時間に何しているの?」
駆け寄って声をかけると、彼は驚いて小さくすくみあがった。
「わっ! ……あっ、ああっ。きっ、君は、バルネア……さん……」
「もう、バルネアでいいわよ。同い年なんだし、私も貴方のこと『ティル』って呼びたいし。ねっ、いいでしょう?」
相手の意志を無視して、バルネアは強引に呼び捨てで呼び合うことを決める。
「あっ、うん。君がいいのなら……」
「そんなの、いいに決まってるわよ。……それで、何をしているの?」
ティルは何かの包みを両手で抱えて歩いていた。
こんな時間にどこかに届け物を運んでいるということはないだろう。
「……今日もいい天気だから、星を見ようと思って……」
「星? 星を見てどうするの?」
「……いろいろと勉強しないといけないことがあるんだ。僕は航海士見習いだからね」
そう言ってティルは苦笑する。
「それと、僕は星を見るのが好きなんだ。だから、天気が良い日は毎晩、星を見て過ごしているんだよ。……さすがに明日も仕事があるから、それに差し支えがない時間には戻って休むけどね」
ティルの行動はバルネアの予想だにしないことだった。
しかし、夜遅くまで星を見るというのはどういう楽しみがあるのだろうかと興味を惹かれる。
「うん。思わぬことが料理のアイデアになるかも分からないし……」
バルネアはそう思い、無茶な提案をティルに持ちかける。
「ねぇ、ティル。私にも貴方の見ている景色を見せてくれないかしら? 今日はもう家に戻ろうとしてたところだから、店の戸締まりをしたら時間が取れるから」
「えっ? だっ、だめだよ! 女の子が夜道を出歩くなんて危険だよ……」
「大丈夫よ。料理作りに熱中しすぎて、夜道を一人で歩いて帰るなんてザラなんだから。それに、いざというときの逃げ足にも自信があるし。ねっ? いいでしょう?」
バルネアはティルにそう頼み込み、強引に同行を迫る。
「でっ、でも……」
「それに、どっちにしろこれから一人で夜道を帰らなくちゃいけないのは変わらないわよ。すぐに戸締まりをしてくるから少しだけ待っていて」
ティルの反対を押し切り、バルネアは店に戻って後片付けを手早く終えて戸締まりをし、律儀に店の前で待っていたティルと一緒に星を見るために二人で歩き出した。
街の入口から少し外れた高台で、ティルは足を止めた。
どうやらここが目的の場所のようだ。
「うわぁ~。こんなに綺麗に星が見える場所があったのね」
空を見上げると満天の星空が広がっていて、バルネアは感嘆の声を上げる。
「うっ、うん。照明用の松明の明かりも近いから、危険も少ないし、星を観測するにはもってこいの場所なんだ。……街の入口の警備に見つかりにくいっていうのもあるんだけど……」
「あっ、もしかして、秘密の場所だったの?」
「いや。秘密でも何でもないよ。ただ夜は僕以外の人がいるところを見たことはないけどね」
ティルは苦笑し、手にしていた包みを開いて望遠鏡と何かを取り出した。
「……これは六分儀だよ。天体の高度測定や自分の位置の割り出しなどに利用されるものなんだ」
バルネアの視線の先にあるものを見て、ティルはその器具の名前を教えてくれた。
「ろくぶんぎ? へぇ、聞いたこともないわね。どうやって使うものなの?」
「あっ、うん。陸の上で使うものじゃないんだけど、いつも持っているようにって先輩に言われているんだ。えっと、これは海の上で……」
ひと通りその道具の説明を聞いたが、バルネアにはよくわからないものだった。
ただ、説明するティルの顔が嬉しそうで、バルネアは笑顔で話を聞き続ける。
「……あっ、ごめん。僕ばかり一方的に話してしまって……」
「いいわよ、そんなことを謝らないで。でも、本当に星を見るのが好きなのね、貴方は」
昼間はバルネアが質問するばかりで、ティルが自分から発言することは殆どなかった。
弁に熱がこもるほどに、彼にとって星の観察は重要な事なのだろう。
「ははっ……。変な趣味だってよく言われるけどね……」
ティルはそう言って苦笑する。
その笑顔が少し淋しげに思えて、バルネアは口を開く。
「……毎日、一人で朝まで星を見ているの?」
「うん。僕はお酒は飲めないし、他に特にこれといった趣味はないから……。いつもここで星を見ているんだ……」
一層淋しげにティルは微笑む。
昼間の自分に向けてくれた笑顔とあまりにも違うその笑みに、バルネアの心が痛んだ。
「……ティル。あなたには夢はないの? 私にはあるわよ。世界一の料理人になるって夢が。そのために毎日頑張っているんだから」
「……すごいね、君は……。僕には夢なんてないから、少し羨ましいよ」
ティルはそう言って顔を俯ける。
「……ねぇ、ティル。『瓜を蒔けば瓜が取れ、豆を蒔けば豆が取れる』ということわざを知っているかしら?」
不意にバルネアはそんな話題をティルに振る。
「いや、知らないよ。……でも、それって当たり前のことなんじゃあ……」
「うん。そのとおり。当たり前のことよ。つまり、物事には原因があるから結果があるっていう意味ね。だから、何事もまずはやってみなくちゃ始まらないの。何かを得ようと思ったらそのための努力をしなくちゃだめってことよ。
趣味がないのなら、なにかを始めてみたらいいんじゃないかしら? 結果としてそれが趣味や夢に変わっていくかもしれないじゃない」
「ははっ、そうかもしれないね……」
バルネアの叱咤にも、ティルはやはり淋しげに微笑むだけだった。
それに釣られて、バルネアは小さく息を吐いた。
「……なんて偉そうなこと言ったけど、私も貴方のことをどうこういう資格なんてないのよね……」
「えっ? どういうこと?」
「……私ね、今度の料理コンテストに参加するんだけど、優勝できなかったら夢を失ってしまうの。世界一の料理人になるって夢を……。だから頑張らなくちゃいけないんだけど……」
ティルに話しても仕方がないことだというのに、バルネアは自分の身の上話を始めてしまう。
ティルを励まそうとしていたのに、これでは逆効果だと思ったが後の祭りだった。
だが、ティルはそれを黙って聞いていてくれた。
「……『世界一の料理人』って、世界で一番料理で人を笑顔にする事が出来る人のことだと私は思うの。そして、料理を食べてくれる人を笑顔にするためには、心をこめて最高の料理を作らないといけない。
でも、そのためにはどうしても技術が必要なの。自分の思いを形にするための力が…‥。だから私はどうしても『銀の旋律』に入らなくちゃいけない。……そして、今回が最後のチャンスなの……」
自分に言い聞かせるようにバルネアは言葉を紡いだが、そこで今まで黙って話を聞いていたティルが口を開いた。
「……どうして、最後のチャンスなのかな? 他にも料理店はいくつもあるよね? 僕もたくさんの国に行ったことがあるわけじゃないけど、世界って広いと思うよ」
きょとんとした顔で、ティルは尋ね返してくる。
「もう、分かってないわね。『銀の旋律』よ、『銀の旋律』! 世界でも指折りの名店! そのお店に入ってもっと腕を磨いていかないと、私の夢はかなわないんだから」
「……僕から見れば、君も十分すごい料理人なんだけど、『銀の旋律』ってお店の料理はそんなに違うのかな?」
バルネアが説明しても、ティルはいまいち『銀の旋律』という店の凄さを、そこで働けるということの重大さが分からないようだ。
「『銀の旋律』で食事をしたことがないのね。あの店で料理を食べたらすぐに分かるわよ。今の私なんか比較にならないわ。あの店の料理は特別なの。だから、どうしてもそこに入って腕を磨かないといけないのよ!」
幼い頃、一度だけ両親に連れて行って貰って、『銀の旋律』で食事をした。
それは夢の様なひとときだった。
すべてが計算尽くされた完璧な料理の数々。
その美しさも味もすべてが初めての経験で、バルネアはそれに魅入られた。
こんな料理を作れるようになりたい。
このお店で働きたい。
それがバルネアの目標になった。
「……だから、頑張らなくちゃいけない。もしも今度のコンテストで優勝できなかったら全てを失ってしまう。でも、なんだか……疲れちゃって……」
小さくバルネアは息を吐く。
「……そうなんだ。君も大変なんだね。羨ましいだなんて言って、ごめん……」
「いいわよ、謝らないで。私の方こそごめんなさい。変な話を聞かせちゃって……」
そう言って二人の会話が少しの間途切れる。
だが、またティルがその沈黙を破って口を開いた。
「……その、僕は君がどれほど大変な思いをしているのかわからないから、こんなことしか言えないけれど……」
ティルは申し訳無さそうに言い、静かに言葉を続けようとする。
その言葉を聞くまでもなく、バルネアは彼が自分に何を言おうとしているのか予想がついた。
「きっと、『がんばって』とかよね……」
毎日毎日、自分ができるかぎり精一杯頑張っていることをティルは知らない。
それに、今日話すようになったばかりの他人のことだ。
そんなことを気遣ってくれるはずがない。
だが、ティルの口から発せられた言葉は、バルネアの予想とは異なっていた。
「……疲れたのなら、少し休んだらいいんじゃないかな? 努力をすることが大事なのはわかるけれど、ときには休息も必要だと思うよ」
そう言ってティルは微笑んだ。
その微笑みは憂いを含まない笑顔。
昼間に自分に向けてくれた満面の笑顔だった。
「…………」
予想外の言葉に、バルネアはどう反応していいのか分からない。
「……僕の実家は小さな料理屋でね。だから、君がすごい料理人だということは分かるんだ。そしてそこまでの腕を身につけるには、きっと僕なんかが想像もつかないような努力をしたからだと思う。さっき、君自身が言っていたように、ずっと頑張ってきたんだよね、きっと……」
「……ティル……」
バルネアはティルの名前を呼ぶ。
だが、二の句がつながらない。
何を言えばいいのかわからない。
ただ、バルネアの瞳から涙が一滴こぼれ落ちた。
「あっ、その、ごめん。勝手なことを言って……」
「……ううん。違うの。これは、その、嬉しかったから……。おっ、おかしいわよね。今日話すようになったばかりなのに、なんだか貴方と話していると……ずっと前からの知り合いだったような気がするわ……」
「……うん。僕もだよ。……でも、僕は以前から……えっと、君の事は知っていたんだ」
「えっ?」
ティルの告白に、バルネアは驚く。
「前にも、猫に餌をあげているのを通りがかりに何度か見かけた事があったんだ。いつも、嬉しそうに笑顔で猫に餌をやっていたよね。それに、厨房にいる君の姿を客席から見かけた時も君はいつも笑顔で元気に料理を作っていた。
でも、今日、街中で出会った君はひどく思いつめた顔をしていたから、思わず声をかけてしまったんだ」
「……そっか。私のことを知っていたんだ。ふふっ、もしかして気にかけていてくれたのかしら?」
「あっ、いや、その……。……分からないんだ、こんな気持ちは初めてで……」
冗談で言ったはずだったのだが、そう言って顔を赤くするティルにつられて、バルネアも恥ずかしくなって赤面する。
なんとも気まずい空気が流れたが、なんとか話題を変えようとバルネアは強引に話を切り替えることにする。
「そっ、そう言えば、貴方のお家も料理屋さんだと言っていたわよね? どうしてお店を継ごうとは思わなかったの?」
「……僕は男だからだよ。僕の故郷は小さな島でね。そこでは男は船乗りになる人がほとんどなんだ。だから周りのみんなに言われるままに僕も船乗りになったんだ。まぁ、他にやりたいことがあったわけじゃないから、特に後悔はしていないけど……」
「……もったいない。もったいないわよ、それって! 料理人って素敵な職業なのよ」
他人のことながら心底そう思い、バルネアは声を荒げる。
だが、ティルは笑顔でそれを受け止めた。
「ははっ。君は本当に料理が大好きなんだね。だから、あんなふうに楽しそうに料理をするんだ。
……うん。大丈夫だよ。今の君は疲れているだけだよ、きっと。少し休んだらまた元気を取り戻せる。そこまで思いつめるほどに大好きなものが君にはあるんだから」
ティルは嘆息し、
「やっぱり君が羨ましいな。僕も何か君のように……」
そう言葉を続ける。
「だから、それはこれからいくらでも探す事ができるでしょうが! まずは自分の好きなことを見つけることよ。そしてそれを見つけたら、一生懸命頑張るの!」
「うん。そうだね。でも、たまには休息も必要だよ、バルネア。君の場合は特に注意が必要みたいだ」
「っ……」
初めてティルの口から名前で呼ばれて、満面の笑顔を向けられて、バルネアは言葉に詰まる。
どうしてこんなに顔が熱くなるのか、バルネア自身にも分からない。
「わっ、分かったようなこと言わないでよ。……そっ、その、正直当たっていると自分でも思うけど……」
バルネアの言葉に、ティルはただ黙って微笑む。
それがまるで自分を見抜かれてしまっているようで、バルネアは不満そうに口を尖らせる。
「むぅ、なんだか私ばかり貴方に見透かされていく感じがするわ。不公平よ、そんなの。……そうだ、ティル。貴方の好きな料理って何かしら? いろいろな国に行った事があるんでしょう? 貴方が食べて美味しいと感じた料理のことを教えて!」
足がつかれてきたので、バルネアは芝生の上に静かに腰を下ろし、ティルにも隣に座るように手招きする。
「えっ? そっ、そう言われても……。うっ、う~ん、何が美味しかったかな……」
そう言いながら遠慮がちにティルはバルネアの隣に腰を下ろす。
その時のティルの顔が赤く見えたのは、松明の明かりのせいだけではないだろう。
バルネアは少しだけ溜飲が下がる思いだった。
ティルは暫く悩んでなかなか答えを出せないでいたので、バルネアが助け舟を出す。
「ここの近くなら、ビラッセ共和国に行ったことはあるわよね? そこの魚介料理は食べたことがあるでしょう?」
「あっ、うん。そういえば、チーズも有名だよね。……えっと、僕が行くのは大衆料理屋で、『潮風のささやき』っていうお店で食べていたんだけど……」
バルネアが話を振ると、ティルもそれに乗ってきた。
「おっ、有名どころね。あのお店の料理も美味しいわよね。でっ、貴方のお気に入りの料理ってなんだったのかしら?」
「えっ、え~と、魚介類も美味しいんだけど、やっぱり海での生活が長いと、肉料理のほうが食べたいって思ってしまうんだ。だから……」
「……ふむふむ。たしかにあのお店は牛肉料理も美味しいわよね。チーズを使っても肉の味が濃厚で、チーズの味に負けないのよね。あっ、そういえば、チーズといえば……」
バルネアは笑顔でティルと料理談義を続ける。
ティルも嬉しそうにそれに付き合ってくれた。
バルネアは話に熱中しながらも、ティルの話を元に明日の昼食のメニューを一度白紙に戻して、頭のなかで再構築して行く。
「……後は、ええと、どこで食べたかな……。あっ、そうだ、たしか……」
「あらっ? そこは行ったことがないわ。でっ、どんな料理が出てきたの? たしかあそこの名産は……」
「あっ、うん。いつも日替わりの定食を食べていたんだけど、先輩が給料日に……」
話をしているうちにティルの表情から硬さが抜けて、笑顔が増えてきた。
バルネアは満足気に微笑む。
「えっと、どうしたの?」
不意にバルネアが満面の笑顔を浮かべたことを怪訝に思ったのだろう。
ティルがそう尋ねてきた。
「ティル。私、貴方の趣味を一つ見つけたわよ。貴方は美味しい料理を食べることが好きなのよ」
「……えっ? でっ、でも、それは趣味って言わないんじゃあ……」
ティルの言葉に、バルネアは「えい」と冗談で彼の頭を叩く真似をする。
「何を言っているのよ。食事は生きていく上で欠かすことができない大切なことよ。『医者より料理人を召し抱えよ』ってことわざもあるくらいだしね。そんな重要な事を楽しいと思えることって、とても素敵なことよ」
バルネアは得意気にそう言うが、ティルは釈然としないのか、なんとも複雑な顔をする。
「でっ、でも、人間だったら、だれでもおいしい食事には興味があるんじゃあ……」
「そんなことないわよ。食事に興味が薄い人だっているもの。それに、貴方は普通の人よりも食事に感心を持っているわよ。だって、私と料理の話を色々としてくれたじゃない。食事に興味を持ってない人なら、こんなに話が続くわけがないわ。
更に付け加えるのなら、うちのお店に頻繁に食べに来てくれていたことも理由の一つよ。『銅の調べ』は大衆向けの料理店だけど、他のお店よりも少々割高だもの。お金を多少多く払っても美味しいものを食べたいって思っているのよ、貴方は」
呆気にとられるティルに、バルネアは微笑みながらそう断言する。
「でっ、でも、それが趣味になっても、夢にはならな……」
バルネアはティルの口の前に右手の人差し指を立てて、彼の言葉を遮る。
「そんなわけないでしょうが。私の『世界一の料理人になる』っていう夢だって、私が美味しいものを食べたいからっていう理由もあるのよ。つまり、美味しいものを食べるのが好きっていうのは、私の夢の原動力の一つなのよ」
バルネアは呆然とするティルを尻目に言葉を続ける。
「……そうね、ティル。貴方の場合は『世界中の美味しいものを食べつくす』なんて夢はどうかしら? お金も時間も掛かるから生半可な気持ちで叶う夢じゃないわよ。でも、やりがいがありそうだとは思わない?」
真摯な表情で言うバルネアに、ティルは暫く呆然としていたが、不意に、ぷっと吹き出し、声を上げて笑い出した。
「なっ、なによ。そんなに笑わなくてもいいじゃない……」
「ごっ、ごめん。でっ、でも、可笑しくて。……そっ、そうだね。確かにやりがいはありそうだ」
ティルは笑い声を何とか堪えてそう呟くと、ふぅ、と小さく嘆息する。
「ははっ。こんなに笑ったのはいつ以来かな。すごいね、やっぱり君は……」
「むぅ~。私の事バカにしているでしょう?」
ジト目でティルを見るバルネア。
ティルは「そんなことはないよ」と言い、微笑む。
「……ずるいなぁ、その笑顔……」
ティルの笑顔に、文句の言葉もかき消されてしまった。
どうしてこの人の笑顔はこんなにも眩しいのだろうと、バルネアは不思議に思う。
「えっと、どうしたの?」
「もう、なんでもないわよ。……そうだ、ティル。今までは貴方の好きな料理を話してもらったけど、今度は逆に貴方の苦手な食べ物の話を聞かせてくれないかしら? どうしても食べられないものとかも知っておきたいから。ねっ、いいでしょう?」
「えっ、あっ、うっ、うん……。特に苦手なものはないんだけど……えっと、そうだな……」
バルネアの笑顔の問に、ティルは頬を紅潮させ、懸命に頭を抱えながら答えを探す。
「ふふふっ、悪く無いわね。ティルが私のことを意識してくれるのって」
バルネアは悪戯っぽい笑みを浮かべながら心の中で呟く。
少々意地が悪いなとは自分自身でも思わないでもないが、それはお互い様だろう。
もっとも、ティル自身はバルネアが彼の笑顔に惹かれていることをはっきりとは分かっていないようだが。
懸命に考えるティルを見つめながらバルネアは微笑む。
そして二人で夜が更けるまで、いろいろなことを話し合ったのだった。
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