彼は、英雄とは呼ばれずに

トド

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プレリュード

⑦ 『私のご主人様と私の先生①』

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 爆発音が聞こえる。
 それと一緒に、この部屋の階下の踊り場に避難したであろう侍女仲間の悲鳴も耳に入ってくる。

 侍女の中でもマリアの専属であるメイは、主人であるマリアに請われ、一緒に主人の部屋で護衛の男性二人で待機をしていた。

 メイはナイフを護身用に手にしているが、まったく上手く扱える自信はない。だが、いざという時には、マリアを逃がすための盾になる覚悟だけは出来ていた。
 
 今こうして自分が生きているのは、マリアのおかげである。その大恩人である彼女のためならば、メイはいつでも命を投げ捨てるつもりだ。

「お二人共、狼狽えてはなりません。セレクト先生は優秀な魔法使いです。おそらくこの音は、先生の魔法によるものです」
 マリアは不安げな顔をする護衛二人を鼓舞する。

 この世のものとは思えないほど美しいマリアの厳かな声に、護衛達は「はい! 失礼致しました!」と応え、表情を引き締める。
 けれど、メイは分かっている。マリアも不安で仕方がないことを。

 セレクト先生は、確かに優秀な魔法使いなのだが、彼はあまりその力を使おうとしない。そんな彼が、爆発音がするほどの魔法を使わなければいけない程の相手。不安にならないほうがおかしい。

 マリアのすぐ隣に立つメイは、わずかに震えるマリアの手をこっそり握る。

「……メイ……」
「大丈夫ですよ。セレクト先生を信じましょう」
 マリアにしか聞こえない大きさの声で、メイは囁く。
 するとマリアは、「ええ、そうね」と小声で応え、手を握り返してくれた。



 ◇



 メイは、この街の職人の娘として生を受けたらしい。
 らしいというのは、彼女が物心つく頃には、父親は病で亡くなってしまっていたからだ。
 
 その後は母が、女手一つでメイを育ててくれた。
 生活は楽ではなく、そんな母を助けようと、メイも幼い頃から母を助けるために、針仕事や家事仕事などを手伝った。

 同年代の子が、綺麗な服を着ているのが羨ましかった。
 自分に与えられるのは、近所の子のお下がりで、ツギハギだらけの服がほとんどだったから。

 同年代の子が、外食を楽しむのが羨ましかった。
 自分は外食などしたことがない。そして家の食卓に並ぶものは、いつも粗末な料理ばかりだったのだから。

 同年代の子が、お父さんとお母さんに仲良く遊んでもらっているのが羨ましかった。
 父親という存在をメイは知らない。そして、母は生きていくためにいくつもの仕事を掛け持ちでこなしていたため、遊んでもらったことなどなかった。
 
 そして、そんな母も、長年の無理が祟り、メイが十二歳の時に病を患って働けなくなってしまった。

 稼ぎ頭であった母が倒れた。
 その時点で、メイの人生はもう詰んでいた。

 まだ十二歳の自分を雇ってくれる場所などない。
 そして、母の家族や知り合いもこの街には居ないし、母と親しくしてくれていた友人の家も、新たに子供一人を育てる余裕などなかった。

 あとは、この体を売るしか無い。
 だが、こんな薄汚い小娘を買ってくれる男性など居ないだろう。それならば、母のために奴隷として……。

 メイはそう考え、涙が出てきた。
 どうして私はこんな苦しい思いをして生きていかなければいけないのかと。

 生まれてきて、良かったと思えた事などなにもない。
 ただただ理不尽で、つらい日々が続いた。けれど、奴隷などになれば、更に苦しい地獄のような日々が待っているのは想像に難くない。

「ああっ、どうせこんなに辛いのならば……」
 メイは母親を殺して、自分も死のうと考えた。
 もう、自分達母娘が助かる道などないのだから。

 そう考えると、気が楽になった。
 そして、どうせ死ぬのであればと、母の教えで決して悪事は働かなかったが、一度だけ悪事を、盗みをしようと考えた。

 幸い、今日はこの街の新しい領主がやってくるらしいので、みんなその出迎えを行う。必然、店の防犯は甘くなるのだ。

「もう一度だけ、チーズを乗せた、柔らかなパンが食べたいな……」
 いつだったかの誕生日に食べさせてもらえた最大のご馳走を思い出し、メイは空腹を抱え、栄養失調でフラフラの体をなんとか動かし、家を出てパン屋に向かうことにした。

 目的の店まではすぐだった。
 そして、目論見通り、店の店主は店からでて、新しい領主様の馬車をひと目見ようとしている。

 メイは店の裏路地の方に回り込み、店主に見つからないように店に忍び込んだ。
 そして、目的のパンを掴み、店を素早く脱出しようとしたが、そこでカクンと足の力が抜けて、倒れてしまった。

 当然音がなり、店主が大慌てで店の中に入って来た。
 汚い身なりの女の子が、店の商品を手づかみで持って倒れている。現行犯だ。

「この悪ガキ! ウチのパンを盗もうとするとは!」
 店主は怒りの形相で近づいてくる。
 メイはもう逃げ道がないことを悟り、手にしていたパンにかじりついた。

 柔らかなパンだった。甘いパンだった。久しぶりに、心から美味しいと思えた。

 もういい。どうなっても構わない。チーズを食べられなかったのは残念だが、もう生きることに疲れてしまった。
 このまま自警団に突き出されて罰を受けよう。その前に、店の主人に殴られるのならばそれを受け入れよう。
 ……もう、どうでもいい。

 店主の男が近づいてくる。そして、肩まで伸びた髪を掴まれた。
 ああ、これから自分は殴られるのだと、メイは理解した。

 だが、そこで……。

「あの、すみません。これから、この街の新しい領主様の馬車が通るのですが、何かありましたか?」
 不意に、聞いたことがない男性の声が聞こえた。それと同時に、掴まれていた髪が離される。

 メイがそちらを向くと、ブラウンの髪の穏やかそうな風貌をした、二十歳前後の中肉中背の男性が立っていた。

「なんだ、あんたは!」
 泥棒に入られて気が立っている店主は、不機嫌そうに男性に尋ねる。

「ああ、すみません。私の名前はセレクトと申します。今日からこの街の領主になる方の家庭教師です」
「えっ? なっ、あっ、新しい領主様の関係者様ですか?」
 店主は驚き、態度を一瞬で改めて、背筋を伸ばして緊張した面持ちになる。

「それで、何があったのですか? まもなく馬車が通りますので、揉め事は困るのですが」
「あっ、いえ、その、この小汚いガキが、うちの店のパンを盗もうとしたんですよ。それで、捕まえようと……」
 店主はしどろもどろになりながらも、セレクトと名乗った男に状況を説明する。

「なるほど。事の経緯は分かりました。ですが、今日は特別な日です。まして、領主様の馬車が通る経路でのトラブルは困ります。ですから……」
 セレクトはそう言うと、腰につけた革袋から小銀貨を一枚取り出し、それを呆然とする店主に手渡した。

「これで、この子のしたことを許して頂けませんか? それと、この子に美味しいパンをお腹いっぱい食べさせてあげて下さい」
 セレクトはもう一枚小銀貨を取り出し、更に店主に渡す。

「まっ、待って下さい。領主様の関係者様からお金を巻き上げたなんて噂が立っては、ウチの商売が成り立たなくなってしまいます!」
 店主は慌ててお金を返そうとしたが、セレクトは苦笑する。

「なるほど、以前の領主が、皆さんに横暴な行為をしていたというのは本当のようですね。ですが、今日からこの街は生まれ変わります。新しい領主様は、街の皆さんと一緒にこの街を発展させていくことを望んでいますので」
 セレクトはそう言うと、倒れたままパンを抱えているメイに近づいてきた。

「ごめんね。おでこに触るよ」
 優しい声だった。そして、温かな手が額に触れたかと思うと、全身が温かな温もりに包まれた。

「うん。これで少しはマシなはずだ。ただ、栄養が足りなそうだね」
 セレクトは店主に、「先程のお金で足りなければ仰って下さい」といい、静かにメイの体を抱きかかえる。

「代金は払ってあるから大丈夫だよ。適当に選んでもいいけれど、君が食べたいと思うパンはどれか教えてくれないかな?」
 セレクトはそう言ってメイに微笑みかけてくれた。
 薄汚い格好をした自分を抱えたせいで、自らの服が汚れてしまうことも厭わずに。

「……チーズ……」
「んっ? ああ、チーズを食べたいんだね」
 セレクトはにっこり笑い、店主に頼んでチーズを使ったパンを選んでもらう。

 そんなことをしている間に、歓声が巻き起こる。
 どうやら、新しい領主様の馬車が近づいてきてしまったようだ。

「ああ、ごめん。流石に私が顔を出さないとまずいから、このまま外に出るよ。大丈夫。君はそのままパンを食べていていいからね」
 セレクトは、埃にまみれたパンの代わりに、チーズを挟んだ柔らかなサンドイッチを手渡してくれた。

 それからセレクトは、メイを抱きかかえたまま店の外に出る。

 メイには驚きの連続で、呆然とし、ただただセレクトのなされるがままにするしかなかった。

 しばらくすると、豪華な馬車がゆっくりとこちらに向かってくるのが見えた。綺麗な白い馬車に乗っているのは、絵本の中に出てくるような美しい少女だった。
 
 馬車はそのまま通り過ぎていくとメイは思っていたのだが、不意にその歩みが止まる。
 そして、お付きの人間が止めるのも聞かずに、美しい少女が馬車から降りて、自分とセレクトの前にやって来た。

「セレクト先生、その娘は?」
「前領主の、悪政の犠牲者です」
 少女の問に、セレクトはそう答えただけだった。
 パン泥棒だとは一言も言わなかった。

「なるほど。これは早急な対策が必要ですね」
 少女は静かにそう言うと、不意に笑顔になり、埃まみれのメイの頭を綺麗な白い手が汚れることも気にせずに撫でた。

「大丈夫です。これから、この街は生まれ変わります。貴女達がお腹いっぱい食べられる街に変えてみせますから」
 少女の笑顔は本当に優しかった。そして、それと同時に確かな強さを持っていた。

 こうして、メイは、セレクトとマリアの二人に出会ったのだった。
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