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第四章 あの日憧れたあの人のように
㉑ 『遠ざかった赤い線』
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リニアがジェノの家にやってきてもうすぐ半年になる。
季節はもうすっかり冬になってしまっていた。
この国の冬はそう長くはなく、雪もたまに降る程度なのだが、やはり寒くて色々と行動が制限されてしまうこの時期を嫌うものは少なくない。
ジェノも冬自体は余り好きではない。だが、普段忙しくて家を留守にしている兄が年の暮れには帰ってくるので、楽しみもある。
けれど、今年は……。
「えっ? 兄さんは、帰ってこられないの?」
夕食時にペントからの報告を聞き、ジェノはがっかりと肩を落とす。
「ええ。今年は普段以上にお仕事がお忙しいとのことで……」
ペントが申し訳無さそうに言うのを見て、ジェノは「大丈夫だよ、ペント」と口にして笑みを浮かべる。
「ペントがいてくれるし、今年は先生も一緒なんだから。僕、寂しくなんてないよ」
心配をかけまいと無理をしている部分もあるが、先生とも一緒に年を越せるのはとても嬉しいとジェノは心から思う。
「うんうん、可愛いな、君は!」
隣に座るリニアが、満面の笑顔でジェノの頭を撫でてくる。
その温かな手が、すごく心地よかった。
ペントも嬉しそうに微笑んでくれる。
ああ、なんて自分は幸せなのだとジェノは心から思い、神様に感謝する。
「坊っちゃん。デルク様はお戻りになられませんが、来週から、坊っちゃんの家が広くなりますよ」
「えっ? それって、また兄さんが頑張ってくれたの?」
「ええ。今度は何と、一階と二階に部屋が一部屋ずつも増えます。デルク様はまだ十六歳でありながら、支店の皆さんの信頼を得て、異例の高役職に就かれるとのこと。もう、ペントは嬉しくて、嬉しくて……」
ペントは瞳に涙を溜めて喜ぶ。
ジェノも、自慢の兄さんが皆に認められた事がすごく嬉しかった。
でも……。
「ペント。広くなるのは、僕の家じゃあなくて、僕達の家。僕とペント、兄さんと先生。みんなの家だよ」
思ったことを、ジェノはそのまま言ったのだが、ペントは立ち上がり、ジェノを大きな体でギュッと抱きしめる。
「ああ。坊っちゃん、坊っちゃん。本当にご立派に育ってくださって、ペントは、ペントはもう嬉しくて仕方がありません」
ペントは涙を流しながらジェノを抱きしめ続ける。
少し苦しかったけれど、ペントの温もりがすごくほっとする。
小さな頃から、物心ついた頃からずっと一緒にいてくれた人。これを口にすると、『そんな、イヨ様を差し置いて恐れ多い』と言われるのが分かっているので口にはしないが、ジェノはペントを心のなかでお母さんだと思っている。
「ジェノ。新しい部屋が増えるのなら、先生と二人でお掃除をしましょう。ペントさんの仕事を増やさないためにも」
「うん。僕、頑張るよ」
ペントは自分がやりますと言ってくれたけれど、ジェノは何とか彼女を説得した。
きっと先生と一緒ならば、掃除も楽しい。
ジェノはそう思い、来週を心待ちにするのだった。
◇
翌週になり、忌まわしいあの赤い線が、ジェノ達の居住空間から少し離れた。
約束通り、ジェノはリニアと一緒に部屋の掃除をする。
今日の剣の稽古はお休みだ。
「いい、ジェノ。掃除の基本は高い所から低いところよ。そして、家の中や部屋というものは、自分の心を映す鏡なの。これが汚れていると、心も荒んでしまうわ。常日頃から、整理整頓と掃除を欠かしては駄目よ」
「はい、先生!」
ジェノはリニアがはたきで高い所から落とした綿ゴミを、箒を使って集めていく。
それが終わったら、床の水拭き。
冬の水拭きは手が冷たいが、ペントはいつもこれをやっているのだと思うと、やる気がどんどん出てくる。
「まったく。いくら使わない部屋だからって、少し汚れすぎね。……いいえ、きっとわざとね」
「うん。ペントは綺麗好きだから、この部屋も綺麗にしたがっていたんだ。でも、キュリアが……」
「自分が命じた仕事以外を勝手にするな。そもそも、その部屋はあなた達のものではないでしょう……とか言ってそうよね」
リニアの言葉に、ジェノは頷く。
「でも、今日からはこの部屋も私達の家の一部。きちんと綺麗にして、ペントさんを驚かせましょう」
「はい!」
元気に返事をして、作業を再開する。
「ジェノ様。ひどい格好ですね」
一通りの仕事を終えて、休憩にしようと部屋を出たときだった。
キュリアが話しかけてきたのは。
「ジェノ様とお客人に掃除をさせるなど、やはりペンティシアは侍女の何たるかを理解できていないようですね。まぁ、もっとも、ジェノ様にはお似合いのお姿かもしれませんが」
新しい赤い線のギリギリに立ち、わざわざイヤミを言ってくるキュリアに、ジェノは不快感を顕にする。
そして文句を口にしようとしたが、「ジェノ、ここは先生に任せて」とリニアに小声で言われたので、ジェノは怒りをぐっと堪える。
「あら、確か、キュリアさんでしたよね? もう半年近くも同じ屋根の下にいるのに、挨拶もないものですから、自信がありませんけれど」
リニアは、はたきを片手に笑顔でキュリアに近づいていく。
「あら、それは失礼を。侍女長のキュリアと申しますわ。ですが、このお屋敷のお客人は、ヒルデ様が招き入れた方のみですので、お見知り置かれずとも結構ですわ」
「それは大変ありがたい申し出です。わざわざ嫌味を言うために、私達が部屋から出てくるまで、こんなところで突っ立って待っているような粘着質で陰険な人間の名前など、覚えたくもありませんから」
リニアは満面の笑顔で辛辣な言葉をぶつける。
「それにしても、お暇なのですね。侍女長のお仕事ってそんなに楽なんですか? ああ、その分のしわ寄せを下の者に押し付けていらっしゃるのですね。貴女の下で働く皆様の苦労が分かりますわ」
リニアは呆れたように、肩をすくめる。
「何を無礼な! 居候の分際で!」
キュリアは顔を真っ赤にし、体を前のめりにした。
その瞬間、キュリアの鼻の先には、リニアの手にしていたはたきの柄の先端が置かれていた。
「なっ……」
キュリアには、いや、ジェノにも、リニアの動きはまるで見えなかった。
気がつくと、リニアの手が伸びていたのだ。
いや、それだけではない。
キュリアの鼻の先から赤い線が走り、そこから血が垂れ始めたのだ。
「この線の中は私達の家。それは空間だってそうよ。そこに貴女は踏み込んだ。つまりは、不法侵入ね」
リニアはにっこりと微笑みながら、キュリアに言う。
「私は優しいから、一回目はこの程度の警告で済ませてあげます。でも、次にこの線を超えたら、超えた部分を全て切り落としますよ」
リニアはやはり笑顔だが、それがたまらなく威圧感がある。
「あっ、ああっ……」
キュリアは腰が抜けたのか、その場にへたり込み、自分の鼻に手をやって、血が流れていることに気が付き、体を震わせる。
「それと、今後、私の生徒を侮辱したり、くだらない逆恨みをしてペントさんを苛めたりしたら……どうなるか分かりますよね?」
リニアは最後まで笑顔で言って踵を返す。
「…………」
キュリアは腰を抜かしたまま何も言えない。
ジェノはそんなキュリアの情けない姿を見て、溜飲が下がる思いだった。
「さて、ジェノ。休憩にしましょう。今日は私が昼食を作るから、楽しみにしておいてね」
「はい、先生!」
ジェノは元気よく応える。
けれど、ここで幼いジェノは一つの違和感に気づくことが出来なかった。
それは、キュリアがわざわざジェノ達に嫌味を言うために、なぜ廊下で待っていたかということ。
本来であれば、キュリアにとってみれば、ジェノは雇い主の庇護を受けていない不肖の子に過ぎない。だから、見下しこそすれ、ただ単に嫌味を言いに来ることなど普通はありえない。
それなのに、キュリアがこのような行動に出た理由を考えなかった。
「ジェノ。大丈夫よ。先生がついているから」
「えっ? 先生、どういう事? キュリアのことなら大丈夫だよ。僕は負けないから」
無邪気に言うジェノに、リニアは微笑む。
「うん。そうね。よし! 手を洗って昼食を作るわよ。もちろん、君にも手伝ってもらうからね」
「はい!」
何も知らないジェノは、元気な返事をして頷くのだった。
季節はもうすっかり冬になってしまっていた。
この国の冬はそう長くはなく、雪もたまに降る程度なのだが、やはり寒くて色々と行動が制限されてしまうこの時期を嫌うものは少なくない。
ジェノも冬自体は余り好きではない。だが、普段忙しくて家を留守にしている兄が年の暮れには帰ってくるので、楽しみもある。
けれど、今年は……。
「えっ? 兄さんは、帰ってこられないの?」
夕食時にペントからの報告を聞き、ジェノはがっかりと肩を落とす。
「ええ。今年は普段以上にお仕事がお忙しいとのことで……」
ペントが申し訳無さそうに言うのを見て、ジェノは「大丈夫だよ、ペント」と口にして笑みを浮かべる。
「ペントがいてくれるし、今年は先生も一緒なんだから。僕、寂しくなんてないよ」
心配をかけまいと無理をしている部分もあるが、先生とも一緒に年を越せるのはとても嬉しいとジェノは心から思う。
「うんうん、可愛いな、君は!」
隣に座るリニアが、満面の笑顔でジェノの頭を撫でてくる。
その温かな手が、すごく心地よかった。
ペントも嬉しそうに微笑んでくれる。
ああ、なんて自分は幸せなのだとジェノは心から思い、神様に感謝する。
「坊っちゃん。デルク様はお戻りになられませんが、来週から、坊っちゃんの家が広くなりますよ」
「えっ? それって、また兄さんが頑張ってくれたの?」
「ええ。今度は何と、一階と二階に部屋が一部屋ずつも増えます。デルク様はまだ十六歳でありながら、支店の皆さんの信頼を得て、異例の高役職に就かれるとのこと。もう、ペントは嬉しくて、嬉しくて……」
ペントは瞳に涙を溜めて喜ぶ。
ジェノも、自慢の兄さんが皆に認められた事がすごく嬉しかった。
でも……。
「ペント。広くなるのは、僕の家じゃあなくて、僕達の家。僕とペント、兄さんと先生。みんなの家だよ」
思ったことを、ジェノはそのまま言ったのだが、ペントは立ち上がり、ジェノを大きな体でギュッと抱きしめる。
「ああ。坊っちゃん、坊っちゃん。本当にご立派に育ってくださって、ペントは、ペントはもう嬉しくて仕方がありません」
ペントは涙を流しながらジェノを抱きしめ続ける。
少し苦しかったけれど、ペントの温もりがすごくほっとする。
小さな頃から、物心ついた頃からずっと一緒にいてくれた人。これを口にすると、『そんな、イヨ様を差し置いて恐れ多い』と言われるのが分かっているので口にはしないが、ジェノはペントを心のなかでお母さんだと思っている。
「ジェノ。新しい部屋が増えるのなら、先生と二人でお掃除をしましょう。ペントさんの仕事を増やさないためにも」
「うん。僕、頑張るよ」
ペントは自分がやりますと言ってくれたけれど、ジェノは何とか彼女を説得した。
きっと先生と一緒ならば、掃除も楽しい。
ジェノはそう思い、来週を心待ちにするのだった。
◇
翌週になり、忌まわしいあの赤い線が、ジェノ達の居住空間から少し離れた。
約束通り、ジェノはリニアと一緒に部屋の掃除をする。
今日の剣の稽古はお休みだ。
「いい、ジェノ。掃除の基本は高い所から低いところよ。そして、家の中や部屋というものは、自分の心を映す鏡なの。これが汚れていると、心も荒んでしまうわ。常日頃から、整理整頓と掃除を欠かしては駄目よ」
「はい、先生!」
ジェノはリニアがはたきで高い所から落とした綿ゴミを、箒を使って集めていく。
それが終わったら、床の水拭き。
冬の水拭きは手が冷たいが、ペントはいつもこれをやっているのだと思うと、やる気がどんどん出てくる。
「まったく。いくら使わない部屋だからって、少し汚れすぎね。……いいえ、きっとわざとね」
「うん。ペントは綺麗好きだから、この部屋も綺麗にしたがっていたんだ。でも、キュリアが……」
「自分が命じた仕事以外を勝手にするな。そもそも、その部屋はあなた達のものではないでしょう……とか言ってそうよね」
リニアの言葉に、ジェノは頷く。
「でも、今日からはこの部屋も私達の家の一部。きちんと綺麗にして、ペントさんを驚かせましょう」
「はい!」
元気に返事をして、作業を再開する。
「ジェノ様。ひどい格好ですね」
一通りの仕事を終えて、休憩にしようと部屋を出たときだった。
キュリアが話しかけてきたのは。
「ジェノ様とお客人に掃除をさせるなど、やはりペンティシアは侍女の何たるかを理解できていないようですね。まぁ、もっとも、ジェノ様にはお似合いのお姿かもしれませんが」
新しい赤い線のギリギリに立ち、わざわざイヤミを言ってくるキュリアに、ジェノは不快感を顕にする。
そして文句を口にしようとしたが、「ジェノ、ここは先生に任せて」とリニアに小声で言われたので、ジェノは怒りをぐっと堪える。
「あら、確か、キュリアさんでしたよね? もう半年近くも同じ屋根の下にいるのに、挨拶もないものですから、自信がありませんけれど」
リニアは、はたきを片手に笑顔でキュリアに近づいていく。
「あら、それは失礼を。侍女長のキュリアと申しますわ。ですが、このお屋敷のお客人は、ヒルデ様が招き入れた方のみですので、お見知り置かれずとも結構ですわ」
「それは大変ありがたい申し出です。わざわざ嫌味を言うために、私達が部屋から出てくるまで、こんなところで突っ立って待っているような粘着質で陰険な人間の名前など、覚えたくもありませんから」
リニアは満面の笑顔で辛辣な言葉をぶつける。
「それにしても、お暇なのですね。侍女長のお仕事ってそんなに楽なんですか? ああ、その分のしわ寄せを下の者に押し付けていらっしゃるのですね。貴女の下で働く皆様の苦労が分かりますわ」
リニアは呆れたように、肩をすくめる。
「何を無礼な! 居候の分際で!」
キュリアは顔を真っ赤にし、体を前のめりにした。
その瞬間、キュリアの鼻の先には、リニアの手にしていたはたきの柄の先端が置かれていた。
「なっ……」
キュリアには、いや、ジェノにも、リニアの動きはまるで見えなかった。
気がつくと、リニアの手が伸びていたのだ。
いや、それだけではない。
キュリアの鼻の先から赤い線が走り、そこから血が垂れ始めたのだ。
「この線の中は私達の家。それは空間だってそうよ。そこに貴女は踏み込んだ。つまりは、不法侵入ね」
リニアはにっこりと微笑みながら、キュリアに言う。
「私は優しいから、一回目はこの程度の警告で済ませてあげます。でも、次にこの線を超えたら、超えた部分を全て切り落としますよ」
リニアはやはり笑顔だが、それがたまらなく威圧感がある。
「あっ、ああっ……」
キュリアは腰が抜けたのか、その場にへたり込み、自分の鼻に手をやって、血が流れていることに気が付き、体を震わせる。
「それと、今後、私の生徒を侮辱したり、くだらない逆恨みをしてペントさんを苛めたりしたら……どうなるか分かりますよね?」
リニアは最後まで笑顔で言って踵を返す。
「…………」
キュリアは腰を抜かしたまま何も言えない。
ジェノはそんなキュリアの情けない姿を見て、溜飲が下がる思いだった。
「さて、ジェノ。休憩にしましょう。今日は私が昼食を作るから、楽しみにしておいてね」
「はい、先生!」
ジェノは元気よく応える。
けれど、ここで幼いジェノは一つの違和感に気づくことが出来なかった。
それは、キュリアがわざわざジェノ達に嫌味を言うために、なぜ廊下で待っていたかということ。
本来であれば、キュリアにとってみれば、ジェノは雇い主の庇護を受けていない不肖の子に過ぎない。だから、見下しこそすれ、ただ単に嫌味を言いに来ることなど普通はありえない。
それなのに、キュリアがこのような行動に出た理由を考えなかった。
「ジェノ。大丈夫よ。先生がついているから」
「えっ? 先生、どういう事? キュリアのことなら大丈夫だよ。僕は負けないから」
無邪気に言うジェノに、リニアは微笑む。
「うん。そうね。よし! 手を洗って昼食を作るわよ。もちろん、君にも手伝ってもらうからね」
「はい!」
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