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第三章 誰がために、彼女は微笑んで
㉟ 『殺戮』
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ジェノに残るように言われたイルリアだったが、神殿の外壁に開いた穴からすでに神殿の敷地の中に侵入していた。
神殿の関係者全てが敵なのだとしたら、自分ひとりが証言したところで何の役にも立たないと判断したのだ。
ただ、誰かに見つかって捕まってしまっては、ジェノの足を引っ張るだけなので、イルリアは見つからないように慎重に神殿の外庭を進んでいく。
結果として、イルリアのその慎重な行動が、彼女をジェノ達がいる神殿の地下へと導くことになる。
彼女が地下の入口付近を通りかかった際に、そこから声と音が聞こえてきたため、彼女はそこに降りていく事を決めたのだから。
けれど、聞こえてきたのは、阿鼻叫喚の悲鳴と、猛る獣の咆哮のような声。
彼女が二度と聞きたくなかった声。
そして、地下に降りた先では、更に地獄のような光景が繰り広げられていた。
◇
それは、別離を意味する。
けれど、ナターシャは、敬愛する<聖女>ジューナ様の偉業達成が誇らしかった。
絶望。
そう、この村の真実を知った者は、ただただ絶望するしかなかったのだ。
けれど、自分達にはジューナ様が付いていた。
いつも身を粉にして人々のために尽くす、あの気高き存在が居てくださったからこそ、みんな懸命に頑張ってこられた。
どんなにこの手を血に染めようと、自分達が神の教えに反する事となっても、私達は……。
私があの方に返すことができるものなど何もない。けれど、私は何かをして差し上げたかった。
生涯を他人のために捧げたジューナ様の名が、汚れる事などあってはならない。
この方は、人々の憧憬と崇拝を集める存在として後世まで語り継がれていくべき存在なのだから。
ジューナ様は私の行いを快くは思わないはずだ。
それは分かっている。
だが、それでも……。
◇
「皆さん。今までよく協力してくださいました。このジューナ。心より感謝致します」
ジューナは皆に頭を下げて感謝の言葉を述べる。
それを見ていたナターシャは、目頭が熱くなってしまう。
ジューナ様の、これまでの長い苦難の道程がようやく終わるのだ。
誰よりもこの村の現状を悲観し、絶望し、けれどそれに抗い続けた<聖女>の戦いの日々が。
「皆さん、後はよろしくお願い致します。そして、そちらのジェノ様にも癒やしの魔法をお掛けして、少し落ち着かれてから、事情を……」
ジューナの言葉は、突然遮られる。
「いっ、いやぁぁぁぁっ!」
それは、一人の女神官の悲鳴が響き渡ったからだ。
「どうしました、ラーシャ!」
ナターシャは素早く武器を構えて振り返って声をかける。
すでに両腕をへし折られたあの少年が暴れただけにしては、声があまりにも逼迫しすぎていた。
振り返ったナターシャは言葉を失った。
視線の先には、黒髪の少年が、ジェノが立っていた。
背中に乗って動きを封じていた神官の腹部を、ジューナに折られたはずの右腕で貫きながら。
「件の<獣憑き>ですか? ですが、この威圧感は、いったい……」
ナターシャは、自分の体が震えていることに気づく。
ジューナには及ばないまでも、武芸を人並み以上に習得したという自負がある自分が、目の前の少年に取り付いた何かに恐怖を感じている事実に、彼女は呆然とする。
端正な顔立ちの少年だったが、今はそんな面影は微塵もない。
目つきがまるで違う。人のものとは思えないその目は、ギョロギョロと次の獲物を物色しているようだ。
開かれた口からは呼吸音が漏れ、口の端から唾液が垂れている。それが、飢えた肉食獣を彷彿とさせる。
腹部を貫いた神官の体から腕を抜かずに、ジェノはその腕を乱暴に横に振った……様に思えた。早すぎて、腕が瞬間移動したようにしか、ナターシャには見えなかった。
だが、その刹那、少年の腕に刺さっていた神官の体が宙を舞い、ナターシャのわずか横を通過し、広いこの地下の祭壇の反対の壁に叩きつけられる。
無意識に、飛んでいった神官の体を目で追うと、石でできた頑丈なはずの壁が、神官の体がぶつかった箇所でへこみ、それを中心にして放射線状にひびが入っていた。
「皆さん! 構えなさい!」
ジューナの緊迫した声を聞き、ナターシャは現実に戻る。
あまりにも予想外の事態に、思考が完全に停止してしまっていた。
「キリア! 私が食い止め……」
未熟な後輩を逃がそうと、ナターシャは声を掛けたが、そのときにはもう遅かった。
なかったのだ。
キリアの、上半身が……。
横に、腰から横に真っ二つにされ、キリアは上半身と下半身に分けられていた。
彼女自身、何が起こったのかわからないようで、下半身は立ったままで、上半身は床に倒れて、彼女はきょとんとした眼差しをしている。
ナターシャは、今度はなんとか目で動きを追うことができた。
左腕。こちらの腕も折られていたはずなのに、それを横に振るい、ジェノが指の先を猫の爪のように立てて斬り裂いたのだ。
「なっ、何が起こっ……ぷっで!」
ジェノはキリアの上半身に駆け寄り、無慈悲に彼女の顔面を踏み潰した。
そう、踏み潰した。全体重を一度にかけてもここまで潰れないと思えるほど、原型を全く留めない、血と肉片の塊に変えた。
そして、ジェノは口角を上げる。
楽しそうに、獲物を殺すことが楽しくて仕方がないといった酷薄で、残忍な笑みを浮かべた。
「……きっ、貴様!」
ジェノの行為に激怒したナターシャは、短剣を構えてジェノに斬りかかろうとするが、そこで、ジェノは吼えた。
人間のものとは到底思えない大きな咆哮に、ナターシャの体は竦み上がってしまう。
それは、他の神官たちも同様で、中には呼吸がままならなくなってしまうものまでいた。
けれど、窒息死する方がまだマシなのかもしれない。
これから始まる、殺戮を見なくて済むのならば。いつ自分の番が来るのかと怯えながら死ぬよりは。
「くっ! みんな、散りなさい! 固まっていたら、一気にやられる! 離れて魔法で拘束するのです!」
ナターシャは、震える自分の足を左手で強く叩いて気合を入れ、みんなに指示を飛ばす。
そして、魔法を使えない自分は、他の仲間の盾になるべく、ジェノに捨て身の特攻を仕掛けた。
一瞬でも良い。この目の前にいる<獣憑き>の化け物を止められれば、後は仲間がどうにかしてくれるはずだ。
それは、献身だった。
仲間のために、尊敬する人のために、自らの命を懸ける尊い行為。
だが、その気持ちが何のくもりもない崇高なものであろうと、尊いものであろうと、そんな気持ちだけで戦況は覆らない。
「……なっ……」
一瞬で、ジェノはナターシャの横を駆け抜けていった。彼女は逃すまいと、体を反転させようとしたところで、転倒する。
何故自分が体勢を崩したのか分からなかった。しかし、ナターシャは足に懸命に力を入れて、短剣を持っていない左手を支えに立ち上がろうとする。けれど、彼女はまたあらぬ方向に転倒してしまう。
分からない。どうして、自分は立てないのだろう?
そう考えながらも、ジェノを目で追ったナターシャが目にしたのは、何か長い物体を齧っているジェノの姿だった。
そして、その物体が、何なのかを理解した彼女は、ようやく自分の体の異変に気づく。
右の肩から先がなかった。
先ほどすれ違いざまに、ジェノの指で切り裂かれていたのだ。
血が滴り落ちる自分の右腕の残骸を見ながら、ナターシャは悲鳴を上げた。
人の体は、普段、四肢がある状態でバランスを取っている。だが、それが欠落すると、バランスが完全に狂い、重心の位置を変えなければ立つこともままならなくなってしまう。
知識としてはその事を理解していても、不意に自分の体がその状態になってしまっては、いくら武術の心得があるナターシャも立つことができない。
「あっ、ああっ……」
ナターシャは、自分の右腕が食われていく様を震えながら見つめるしかなかった。
信念があると、自分にはジューナ様を守るための忠義があると自負していたが、そんなものは、絶対的な力の前では無意味だと思い知らされ、ナターシャの心は折れた。
「やっ、やめろ。……やめろ! 私の腕を食べるなぁぁぁぁっ!」
ナターシャは混乱して、自分でも訳のわからないことを口走る。
その言葉が通じたわけではなかろうが、ジェノは興味が失せたとばかりに、ナターシャの右腕を床に捨てて、彼女の方を向いた。
「あっ、だっ、駄目だ。こっ、こっちにくるなぁぁっ!」
心が折れたナターシャは、悲鳴を上げる。
だがそこで、思わぬ声が上から、地上に向かう階段から聞こえてきた。
「ジェノォォォォォォッ!」
それは、女の声。
ナターシャが声の主を見ると、それが、ジェノと一緒にいた赤髪の少女、イルリアであることに気づく。
あの娘も、ジェノと一緒に自分を追いかけてきていた。
姿が見えないとは思っていたが、騒ぎを聞きつけてここに降りてきたのだろう。
それはほんの一瞬の時間だった。
だが、ジェノの注意もイルリアに向けられた。
その隙きを突いて、動く者がいた。
「ぐっ、がっ……」
だがそこで、不意に、ジェノの体に光の輪が三つ現れ、彼の腕と胸、そして腹部、脚部を拘束しようとするのが見えた。
「皆さん、早く束縛の魔法を! そして、近くの人は、ナターシャ神官に癒やしの魔法を!」
ジューナの凛とした声が、ナターシャの耳に入る。そのことで、彼女は冷静さを取り戻す。
「私は大丈夫です! 魔法が使えるものは、ジューナ様に協力して、あの<獣憑き>を拘束しなさい!」
ナターシャはみんなに命令を飛ばす。
ジューナとナターシャの二人の声に、他の神官たちも魔法を使用し、ジェノを雁字搦めに拘束していく。
だが、それもほんの二、三秒の間だった。
ジューナの魔法もろとも、皆が放った拘束魔法を、ジェノは力で強引に引きちぎったのだ。
「魔法を腕力で引きちぎられるはずが……」
魔法に干渉できるのは、魔法の力だけのはず。それなのにどうして……
右腕の出血部を左手と体を使って抑えながらも、ナターシャは考える。
少しでも、皆が助かる方法を。
「まさか、この化け物も、<霧>の影響を……」
その結論に達したナターシャは、しかし何もできなかった。
動くこともままならない彼女は、ただ、階段を降りてくるイルリアを視界に納めることと、仲間たちの悲鳴を聞き続けることしかなかったのだ。
神殿の関係者全てが敵なのだとしたら、自分ひとりが証言したところで何の役にも立たないと判断したのだ。
ただ、誰かに見つかって捕まってしまっては、ジェノの足を引っ張るだけなので、イルリアは見つからないように慎重に神殿の外庭を進んでいく。
結果として、イルリアのその慎重な行動が、彼女をジェノ達がいる神殿の地下へと導くことになる。
彼女が地下の入口付近を通りかかった際に、そこから声と音が聞こえてきたため、彼女はそこに降りていく事を決めたのだから。
けれど、聞こえてきたのは、阿鼻叫喚の悲鳴と、猛る獣の咆哮のような声。
彼女が二度と聞きたくなかった声。
そして、地下に降りた先では、更に地獄のような光景が繰り広げられていた。
◇
それは、別離を意味する。
けれど、ナターシャは、敬愛する<聖女>ジューナ様の偉業達成が誇らしかった。
絶望。
そう、この村の真実を知った者は、ただただ絶望するしかなかったのだ。
けれど、自分達にはジューナ様が付いていた。
いつも身を粉にして人々のために尽くす、あの気高き存在が居てくださったからこそ、みんな懸命に頑張ってこられた。
どんなにこの手を血に染めようと、自分達が神の教えに反する事となっても、私達は……。
私があの方に返すことができるものなど何もない。けれど、私は何かをして差し上げたかった。
生涯を他人のために捧げたジューナ様の名が、汚れる事などあってはならない。
この方は、人々の憧憬と崇拝を集める存在として後世まで語り継がれていくべき存在なのだから。
ジューナ様は私の行いを快くは思わないはずだ。
それは分かっている。
だが、それでも……。
◇
「皆さん。今までよく協力してくださいました。このジューナ。心より感謝致します」
ジューナは皆に頭を下げて感謝の言葉を述べる。
それを見ていたナターシャは、目頭が熱くなってしまう。
ジューナ様の、これまでの長い苦難の道程がようやく終わるのだ。
誰よりもこの村の現状を悲観し、絶望し、けれどそれに抗い続けた<聖女>の戦いの日々が。
「皆さん、後はよろしくお願い致します。そして、そちらのジェノ様にも癒やしの魔法をお掛けして、少し落ち着かれてから、事情を……」
ジューナの言葉は、突然遮られる。
「いっ、いやぁぁぁぁっ!」
それは、一人の女神官の悲鳴が響き渡ったからだ。
「どうしました、ラーシャ!」
ナターシャは素早く武器を構えて振り返って声をかける。
すでに両腕をへし折られたあの少年が暴れただけにしては、声があまりにも逼迫しすぎていた。
振り返ったナターシャは言葉を失った。
視線の先には、黒髪の少年が、ジェノが立っていた。
背中に乗って動きを封じていた神官の腹部を、ジューナに折られたはずの右腕で貫きながら。
「件の<獣憑き>ですか? ですが、この威圧感は、いったい……」
ナターシャは、自分の体が震えていることに気づく。
ジューナには及ばないまでも、武芸を人並み以上に習得したという自負がある自分が、目の前の少年に取り付いた何かに恐怖を感じている事実に、彼女は呆然とする。
端正な顔立ちの少年だったが、今はそんな面影は微塵もない。
目つきがまるで違う。人のものとは思えないその目は、ギョロギョロと次の獲物を物色しているようだ。
開かれた口からは呼吸音が漏れ、口の端から唾液が垂れている。それが、飢えた肉食獣を彷彿とさせる。
腹部を貫いた神官の体から腕を抜かずに、ジェノはその腕を乱暴に横に振った……様に思えた。早すぎて、腕が瞬間移動したようにしか、ナターシャには見えなかった。
だが、その刹那、少年の腕に刺さっていた神官の体が宙を舞い、ナターシャのわずか横を通過し、広いこの地下の祭壇の反対の壁に叩きつけられる。
無意識に、飛んでいった神官の体を目で追うと、石でできた頑丈なはずの壁が、神官の体がぶつかった箇所でへこみ、それを中心にして放射線状にひびが入っていた。
「皆さん! 構えなさい!」
ジューナの緊迫した声を聞き、ナターシャは現実に戻る。
あまりにも予想外の事態に、思考が完全に停止してしまっていた。
「キリア! 私が食い止め……」
未熟な後輩を逃がそうと、ナターシャは声を掛けたが、そのときにはもう遅かった。
なかったのだ。
キリアの、上半身が……。
横に、腰から横に真っ二つにされ、キリアは上半身と下半身に分けられていた。
彼女自身、何が起こったのかわからないようで、下半身は立ったままで、上半身は床に倒れて、彼女はきょとんとした眼差しをしている。
ナターシャは、今度はなんとか目で動きを追うことができた。
左腕。こちらの腕も折られていたはずなのに、それを横に振るい、ジェノが指の先を猫の爪のように立てて斬り裂いたのだ。
「なっ、何が起こっ……ぷっで!」
ジェノはキリアの上半身に駆け寄り、無慈悲に彼女の顔面を踏み潰した。
そう、踏み潰した。全体重を一度にかけてもここまで潰れないと思えるほど、原型を全く留めない、血と肉片の塊に変えた。
そして、ジェノは口角を上げる。
楽しそうに、獲物を殺すことが楽しくて仕方がないといった酷薄で、残忍な笑みを浮かべた。
「……きっ、貴様!」
ジェノの行為に激怒したナターシャは、短剣を構えてジェノに斬りかかろうとするが、そこで、ジェノは吼えた。
人間のものとは到底思えない大きな咆哮に、ナターシャの体は竦み上がってしまう。
それは、他の神官たちも同様で、中には呼吸がままならなくなってしまうものまでいた。
けれど、窒息死する方がまだマシなのかもしれない。
これから始まる、殺戮を見なくて済むのならば。いつ自分の番が来るのかと怯えながら死ぬよりは。
「くっ! みんな、散りなさい! 固まっていたら、一気にやられる! 離れて魔法で拘束するのです!」
ナターシャは、震える自分の足を左手で強く叩いて気合を入れ、みんなに指示を飛ばす。
そして、魔法を使えない自分は、他の仲間の盾になるべく、ジェノに捨て身の特攻を仕掛けた。
一瞬でも良い。この目の前にいる<獣憑き>の化け物を止められれば、後は仲間がどうにかしてくれるはずだ。
それは、献身だった。
仲間のために、尊敬する人のために、自らの命を懸ける尊い行為。
だが、その気持ちが何のくもりもない崇高なものであろうと、尊いものであろうと、そんな気持ちだけで戦況は覆らない。
「……なっ……」
一瞬で、ジェノはナターシャの横を駆け抜けていった。彼女は逃すまいと、体を反転させようとしたところで、転倒する。
何故自分が体勢を崩したのか分からなかった。しかし、ナターシャは足に懸命に力を入れて、短剣を持っていない左手を支えに立ち上がろうとする。けれど、彼女はまたあらぬ方向に転倒してしまう。
分からない。どうして、自分は立てないのだろう?
そう考えながらも、ジェノを目で追ったナターシャが目にしたのは、何か長い物体を齧っているジェノの姿だった。
そして、その物体が、何なのかを理解した彼女は、ようやく自分の体の異変に気づく。
右の肩から先がなかった。
先ほどすれ違いざまに、ジェノの指で切り裂かれていたのだ。
血が滴り落ちる自分の右腕の残骸を見ながら、ナターシャは悲鳴を上げた。
人の体は、普段、四肢がある状態でバランスを取っている。だが、それが欠落すると、バランスが完全に狂い、重心の位置を変えなければ立つこともままならなくなってしまう。
知識としてはその事を理解していても、不意に自分の体がその状態になってしまっては、いくら武術の心得があるナターシャも立つことができない。
「あっ、ああっ……」
ナターシャは、自分の右腕が食われていく様を震えながら見つめるしかなかった。
信念があると、自分にはジューナ様を守るための忠義があると自負していたが、そんなものは、絶対的な力の前では無意味だと思い知らされ、ナターシャの心は折れた。
「やっ、やめろ。……やめろ! 私の腕を食べるなぁぁぁぁっ!」
ナターシャは混乱して、自分でも訳のわからないことを口走る。
その言葉が通じたわけではなかろうが、ジェノは興味が失せたとばかりに、ナターシャの右腕を床に捨てて、彼女の方を向いた。
「あっ、だっ、駄目だ。こっ、こっちにくるなぁぁっ!」
心が折れたナターシャは、悲鳴を上げる。
だがそこで、思わぬ声が上から、地上に向かう階段から聞こえてきた。
「ジェノォォォォォォッ!」
それは、女の声。
ナターシャが声の主を見ると、それが、ジェノと一緒にいた赤髪の少女、イルリアであることに気づく。
あの娘も、ジェノと一緒に自分を追いかけてきていた。
姿が見えないとは思っていたが、騒ぎを聞きつけてここに降りてきたのだろう。
それはほんの一瞬の時間だった。
だが、ジェノの注意もイルリアに向けられた。
その隙きを突いて、動く者がいた。
「ぐっ、がっ……」
だがそこで、不意に、ジェノの体に光の輪が三つ現れ、彼の腕と胸、そして腹部、脚部を拘束しようとするのが見えた。
「皆さん、早く束縛の魔法を! そして、近くの人は、ナターシャ神官に癒やしの魔法を!」
ジューナの凛とした声が、ナターシャの耳に入る。そのことで、彼女は冷静さを取り戻す。
「私は大丈夫です! 魔法が使えるものは、ジューナ様に協力して、あの<獣憑き>を拘束しなさい!」
ナターシャはみんなに命令を飛ばす。
ジューナとナターシャの二人の声に、他の神官たちも魔法を使用し、ジェノを雁字搦めに拘束していく。
だが、それもほんの二、三秒の間だった。
ジューナの魔法もろとも、皆が放った拘束魔法を、ジェノは力で強引に引きちぎったのだ。
「魔法を腕力で引きちぎられるはずが……」
魔法に干渉できるのは、魔法の力だけのはず。それなのにどうして……
右腕の出血部を左手と体を使って抑えながらも、ナターシャは考える。
少しでも、皆が助かる方法を。
「まさか、この化け物も、<霧>の影響を……」
その結論に達したナターシャは、しかし何もできなかった。
動くこともままならない彼女は、ただ、階段を降りてくるイルリアを視界に納めることと、仲間たちの悲鳴を聞き続けることしかなかったのだ。
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