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後編
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「どうしたの? ぼんやりして」
朝食をたべているショーンに妻が問いかけた。学校のバザーの手伝いをしたあと買い物に行かないかときかれていたようだ。
妻とはアリスとの破婚から三年たった頃に、両親からそろそろ結婚しろといわれ見合いで結婚した。
運命の人とアリスへの罪悪感から、もう恋も結婚もしないと思っていた。しかし結婚して次世代を育てるのは人としての義務だと両親にいわれ従った。迷惑をかけてしまった両親に逆らいたくなかった。
そのため生理的に受けつけない相手でなければ誰でもよいと思い結婚した。
ショーンが結婚したのでショーンの友人達は過去に一区切りがついたと思ったようで、「今だからいえるが」とショーンが知らなかった話をするようになった。
「お前が運命の人に出会ったなんていったから、彼女がまるでお前を誘惑して狂わせたかのような中傷をうけたらしい」
「中途半端な噂のせいで彼女の夫が、お前から彼女をうばって結婚したといった誤解もあったようだ」
「この町にはお前がいるから近付かないようにしているそうだ」
運命の人と彼女の夫は隣町に住んでいたので、ショーンの耳に彼女の噂が聞こえてくることはなかった。
そのため自分の行動が、まさか彼女と夫に尾を引く形で迷惑をかけていたことをショーンはそれまで知らなかった。
「アリスは傷心のあまり隣国へいった」
「アリスはショーンに簡単に捨てられるような魅力のない女だと嘲笑われていた」
「アリスには結婚直前に捨てられるような重大な欠陥があるのではといわれてた」
アリスとショーンは同じ町に住んでいたが、ショーンの周りの人達はアリスについて何も話さなかったこともあり、ショーンはアリスに対する中傷にも気付いていなかった。
ショーン自身に心ないことをいってくる人達への対応に疲れていたこともあり、聞きたくないことを無意識のうちに聞かないようにしていたようだ。
運命の人とアリスへの罪悪感は、日を追うごとに強くなるばかりだった。
彼女達に謝りたい。自分の浅はかな行動で受けなくてもよい中傷をうけ噂にさらされた。
しかし二人に近付くことさえできない。ショーンは二人に関わってはいけない身だ。二人に近付かない、何もしないが、ショーンが二人に対してできる唯一のことだった。
「夢でうなされてたと娘がいってたけど大丈夫? 嫌な夢をみると現実ではないと分かっていても気分が落ち込むわよね」
妻からのいたわりを感じショーンの気持ちはやわらいだ。誰でもよいと結婚したので、結婚生活に対し何の期待もしていなかった。お互いが邪魔にならないよう生活できればよいとしか考えていなかった。
自分が他人を幸せにできるとは思っていない。すでに何の非もない二人の女性に汚名をきせている。
どちらの女性も何ひとつ人から非難されるようなことをしていない。しかしショーンが関わってしまったおかげで不名誉な噂をたてられ、迷惑をかけられたのだ。
これ以上、自分が関わることによって人を不幸にしてはいけない。ショーンが考えるのはそれだけだった。
結婚する前に妻がなぜ「馬鹿で間抜けな男」と嘲笑われているショーンと結婚しようと思ったのかを聞いた。
五歳年下の妻は子爵家で下女として働き、持病や身体的な不具合もなければ、実家の評判が悪いといった悪評も悪条件もない。もっと条件のよい男と縁づくことができたはずだ。
「父が大きな失敗をして後悔している男なら、お前を裏切るようなことはしないだろうといったことに納得がいったのです。
我が家の恥なのであえて話すことはありませんが、我が家は母が父を裏切り離婚しています。母による裏切りでどれほど父が苦しんだかを知っているだけに、私が夫に求めることは浮気をしないです」
ショーンと妻の父親同士が知り合いなので、ショーンの事情は噂ではなく事実がしっかり妻に伝わっていた。
そのことを冷静に話す妻から、ショーンは何ひとつ嫌なものを感じなかった。誰でもよいとは思っていたが、お互い嫌悪感をいだいていないことが分かりほっとした。
妻を幸せにはできないだろうが不幸にはしないとショーンはそのとき決意した。
「お父さん、遅い。早く!」
着替えているショーンを長男が呼びにきた。
「おとうさん、はやく!」
長男をまねて次男もショーンをせかし、小さな体をショーンの足にまとわりつかせている。
着替えをおえ玄関へむかうと妻が娘に帽子をかぶせていた。
「じゃあ行きましょう」
家族で学校にむかいながらショーンは幸せだと思った。しかし次の瞬間、ぬぐうことのできない罪悪感にさいなまれた。
二人の女性の人生に汚点をつけてしまった罪悪感はショーンの心から消えることはなかった。
そしてそれが自分が一生背負いつづける罰なのだと理解している。
風の噂で運命の人もアリスも幸せにしていることは知っている。
彼女達がショーンからの贖罪など求めていないのも分かっている。
自分が何を思おうと、何をしようと、自己満足でしかないと分かっている。
しかし時折、彼女達に謝りたい、自分ができる何かを彼女達にしたいという衝動がわきおこった。
一度、その衝動をおさえきれず家を飛び出し謝りにいこうとした時に、妻がショーンを必死にとめた。
「あなたの自己満足でしかない謝罪をして彼女達を再び傷つけないで!」
――自己満足でしかない謝罪。
その言葉がショーンの頭を冷やした。
「傷つけられた方はね、傷つけた相手の顔も見たくなければ、考えたくもないの。
私ね、大人になってから学校で私をいじめてた子に謝られたことがあるの。本人は私に謝って満足したようだけど、謝られた私の方はあの頃の痛みを強制的に思い出すことになって苦しかった。
私を再び苦しめたくて謝ったのかと思ったわ。
謝罪なんて本当にいらない。私の視界に一生はいるな。間違っても話しかけるな。私の人生に二度とかかわるな。私が思ったのはそれだけよ」
妻の言葉にショーンは打ちのめされた。心のどこかでまだ彼女達に許されたい、自分の罪悪感をすこしでも軽くしたいという願望を消すことができていなかったことに気付いた。
彼女達の幸せを真に望むなら、ショーンにできることはひとつしかない。
二度と彼女達の視界にはいらない、そして関わらない。それしかない。
「ふざけるな!」
男の怒鳴り声と女性が頬をうたれよろける姿が目にはいった。ショーンは妻と子供達に危険がおよばないよう、はやく学校へいって待っているようにいうと、口汚く女性を罵倒しつづけている男に近づいた。
妻と子供達が学校へ向かっているのを目の端で確認したあと、ショーンは男に「やめろ」と声をかけた。
血走った目を向けた男の顔に見覚えがあった。子供の頃に同じ学校に通っていた一つか二つ年下の男だ。
「夫婦のことに口だしするな! お前には関係ない」
「女性をぶつような男を放っておけるか」
ショーンの言葉に男の顔がゆがんだ。
「結婚直前に浮気して女を捨てるような奴が何をえらそうに。
お前のやったことは女に手をあげるのと同じぐらいひどいことなんだよ。
自分は女をポイ捨てするクズのくせに俺にえらそうなこといえるのかよ」
ショーンは久しぶりにアリスのことを持ちだし罵倒され動揺した。
「自分の薄汚い欲望のために女を捨てて恥じることなく生きてるクズがえらそうにするな。
何が運命の人だ。自分の汚い欲望をきれいな言葉で正当化すれば周りが納得するとでも思ったか?
お前のような薄汚いクズが出しゃばるな!」
男はショーンに言いたいことをいったあと自分の妻を再び罵倒しはじめた。
「そこにいる妻という名の薄汚い女も自分の欲望に走っただけのクズだ。俺にかまわれなくて寂しかったとか言いやがって、ふざけるな。俺のことをはじめに拒んだのはお前だろう。
そんなに男がほしいなら娼館で働け。男に抱かれず寂しいなんていう間もなく客をとれよ」
ショーンは妻に近寄ろうとする男の前に自分の体をすべらせた。
「しつこいぞ。夫婦のことに首をつっこむな」
ショーンは怒りで正気をうしないかけている男の目をみすえる。
「お前の言うとおり俺はクズだ。だからお前の怒りは俺が受けとめる。浮気された怒りを俺にぶつけろ」
「何を訳のわからないこといってんだ」
「俺は自分が傷つけた相手に直接謝ることも、罪ほろぼしもできない。彼女達からの怒りを受けることもできない。それが苦しい。
だからお前の怒りを俺がすべて受けとめる。彼女へ言いたいことを全て俺にむけろ。彼女を殴りたいなら俺を殴れ」
男はショーンを無言でにらみ、ショーンには聞こえなかったが何かを短くいったあと、ショーンの体を突きとばしその場をあとにした。
ショーンが男の妻に声をかけると、うつむいたまま礼をいい家の中へと戻っていった。
ショーンが学校へと歩いていると、妻がひとりでショーンに向かってきた。
「子供達は?」
「友達にお願いしてきたわ。大丈夫?」
妻がショーンの全身にさっと視線をめぐらせ無事を確かめていた。
「夫婦げんかにお節介しただけだよ」
ショーンの言葉に妻がほっとした表情をみせた。
自分のことを心配してくれる人がいる。ショーンは心に温かいものを感じた。
ふとショーンは、自分は妻を不幸にしているのではと不安になった。
アリスとの破婚は十年以上前で、そのことに関して何かいわれることはなくなっていた。
しかし久しぶりにアリスのことで罵られ、自分がしらないところで妻がいまだに何かいわれているかもしれないと思いついた。
「俺は君を不幸にしてないだろうか?」
妻がおどろいた顔をする。
「どうしたの急に。私が不幸になるようなことを何かした?」
妻の不安そうな表情をみて、ショーンはあわてて言葉をつぎたす。
「違う。そのようなことは何もしてない。さっき昔のことで罵倒されたから、もしかしたら俺のことで君も嫌なことを言われてきたのではと思ったんだ」
妻がくすりと笑う。
「結婚した当初は何かしら言ってくる人はいたけど、いまは誰も何もいってこないわよ。もう一昔前のはなしよ。
覚えてはいるでしょうが記憶の奥底にしずんでいて、よほどのことがなければ思い出しもしないでしょう。
私には浮気しない働き者の夫がいて、そしてかわいい子供達にも恵まれた。私は幸せよ」
ショーンは妻から幸せだという言葉をきき、目に涙がこみあがるのを感じた。
好きな女性の汚点となるようなことしか出来なかったショーンだが、妻が自分と一緒にいて幸せだといってくれる。それが嬉しかった。
妻がめずらしくショーンの腕に自分の腕をからませた。
「あなたは彼女達への罪悪感から、自分は幸せになってはいけないと無意識のうちに思ってる。
あなたは自分が幸せだと感じると、あなたのなかで彼女達への罪悪感が強まるように思う。だからあなたにとって幸せを感じることは、決して手放しで喜べるものではないような気がする」
ショーンは妻が指摘したように自分は幸せになってはならないと思っていた。彼女達に何の罪ほろぼしもできないかわりに自分の幸せをあきらめようと思った。彼女達が負った苦しみを自分も負いたかった。
浮気した妻を殴った男の怒りをみた時に、それはアリスがショーンに対し抱いたであろう怒りだと思った。愛する人に裏切られた怒り。
アリスは感情を外にださないようにしていただけで、きっとあの男がみせたような激しい感情が彼女の中にわきおこったはずだ。
偶然、街で彼女と会いアリスも結婚を迷っていたのではといってしまった時にみせた彼女の怒りは、彼女が破談になったときに感じたであろう怒りに全くおよばないだろうが、アリスがショーンにいだいた感情の片鱗が表にあらわれていた。
薄汚い欲望。
男がいうように運命の人に感じたものは、自分好みの女性を手に入れたいという欲望だったのだろう。
男に罵られ殴られたかった。アリスがショーンにぶつけなかった怒りを、あの男の怒りを受けることでぶつけられたことにしたかった。
どこまでいっても自分勝手だなとショーンは苦笑する。自分の罪悪感をすこしでも軽くしたい独りよがりで自己満足でしかない考えだ。
「面倒くさい男と結婚してくれてありがとう」
妻が顔をあげショーンの瞳をとらえた。
「こちらこそ行き遅れになりかけてた私と結婚してくれてありがとう」
妻の笑顔をみたショーンは、自分のことを信頼してくれる妻の存在にこれまでどれほど助けられただろうと思う。
「昔のことについて聞かれて久しぶりに母のことを思い出したわ」
妻が笑い声をたてる。
「あの女のおかげで、あなたという夫と一緒になることができたから、その点だけはあの女に感謝するわね」
妻が自身の母について話すのはめずらしかった。妻がショーンに義母の話しをしたのは、なぜショーンと結婚するのかを聞いた時だけだ。
子供達には義母は妻が小さい時に亡くなり、義母のことは覚えていないで通していた。
「あなたに話したことなかったけど、私が十八歳のときに母が突然うちにきたの。
浮気して父を裏切り、離婚してから私のことを一度も気にかけたことがない女が、よくも平然と顔をだせたものだと唖然としてたら、あの女は自分勝手なことを言い散らかした。
あの女は遠くに住んでいるけど祖父が亡くなったと聞いて実家に顔をだしにきて、そういえば実家の近くに元夫と娘がいたと思い出して寄ってみたといったのよ」
妻が鼻で笑う。
「あの女に浮気して夫を裏切り娘も捨てたくせに、どうしていまさら会おうと思ったんだって聞いたの。
そうしたら意外なことを聞かれたような顔で『あなた達のことを思い出してなつかしかったから』といったの。
父への裏切りに対して『もうそんな昔の話、いまさら持ち出さなくても』と笑ってた。
あの女の罪悪感のかけらもない態度に怒る気にもならなかった。これほど理解できない人間が世の中には存在するのかとあの時まなんだ。何をどのようにいってもお互い理解できないし、理解しようとするだけ無駄だと分かった」
妻の表情から長年の心の葛藤やあきらめがにじんでいた。ショーンにたんたんと話す妻だが、このように話せるようになるまで苦しみぬいたはずだ。
「だから父があなたを私の結婚相手として選んだ理由のひとつとして、失敗に対し後悔している人なら大丈夫だろうといった時、その意味が私にはよくわかった。
あなたと結婚してよかった。私は幸せよ」
妻のむけてくれた笑顔にショーンの胸があつくなる。ショーンはきつく妻を抱きしめた。
「ありがとう」
妻に自分も幸せだといいたい。しかし自分は幸せだといってよい人間ではない。
妻への思いや感謝、そして他の男達のようになれない不甲斐なさなど、妻に言いたいことが頭の中に際限なくうかんでくるが、何ひとつ口にすることができなかった。
ショーンを抱きしめかえした妻の手がショーンの背をやさしくなでる。
「子供達が待ってるわ。行きましょう」
ショーンは気持ちをあらたにする。幸せにするという言葉をどうしても使うことはできないが、ショーンは自分の家族を不幸にしない、泣かせるようなことだけはしないと強く思う。
自分の背に手をそえ、となりを歩いてくれる妻といっしょに築きあげた家族を守る。
ショーンは目にうっすらうかんだ涙がこぼれないよう空を見上げた。
朝食をたべているショーンに妻が問いかけた。学校のバザーの手伝いをしたあと買い物に行かないかときかれていたようだ。
妻とはアリスとの破婚から三年たった頃に、両親からそろそろ結婚しろといわれ見合いで結婚した。
運命の人とアリスへの罪悪感から、もう恋も結婚もしないと思っていた。しかし結婚して次世代を育てるのは人としての義務だと両親にいわれ従った。迷惑をかけてしまった両親に逆らいたくなかった。
そのため生理的に受けつけない相手でなければ誰でもよいと思い結婚した。
ショーンが結婚したのでショーンの友人達は過去に一区切りがついたと思ったようで、「今だからいえるが」とショーンが知らなかった話をするようになった。
「お前が運命の人に出会ったなんていったから、彼女がまるでお前を誘惑して狂わせたかのような中傷をうけたらしい」
「中途半端な噂のせいで彼女の夫が、お前から彼女をうばって結婚したといった誤解もあったようだ」
「この町にはお前がいるから近付かないようにしているそうだ」
運命の人と彼女の夫は隣町に住んでいたので、ショーンの耳に彼女の噂が聞こえてくることはなかった。
そのため自分の行動が、まさか彼女と夫に尾を引く形で迷惑をかけていたことをショーンはそれまで知らなかった。
「アリスは傷心のあまり隣国へいった」
「アリスはショーンに簡単に捨てられるような魅力のない女だと嘲笑われていた」
「アリスには結婚直前に捨てられるような重大な欠陥があるのではといわれてた」
アリスとショーンは同じ町に住んでいたが、ショーンの周りの人達はアリスについて何も話さなかったこともあり、ショーンはアリスに対する中傷にも気付いていなかった。
ショーン自身に心ないことをいってくる人達への対応に疲れていたこともあり、聞きたくないことを無意識のうちに聞かないようにしていたようだ。
運命の人とアリスへの罪悪感は、日を追うごとに強くなるばかりだった。
彼女達に謝りたい。自分の浅はかな行動で受けなくてもよい中傷をうけ噂にさらされた。
しかし二人に近付くことさえできない。ショーンは二人に関わってはいけない身だ。二人に近付かない、何もしないが、ショーンが二人に対してできる唯一のことだった。
「夢でうなされてたと娘がいってたけど大丈夫? 嫌な夢をみると現実ではないと分かっていても気分が落ち込むわよね」
妻からのいたわりを感じショーンの気持ちはやわらいだ。誰でもよいと結婚したので、結婚生活に対し何の期待もしていなかった。お互いが邪魔にならないよう生活できればよいとしか考えていなかった。
自分が他人を幸せにできるとは思っていない。すでに何の非もない二人の女性に汚名をきせている。
どちらの女性も何ひとつ人から非難されるようなことをしていない。しかしショーンが関わってしまったおかげで不名誉な噂をたてられ、迷惑をかけられたのだ。
これ以上、自分が関わることによって人を不幸にしてはいけない。ショーンが考えるのはそれだけだった。
結婚する前に妻がなぜ「馬鹿で間抜けな男」と嘲笑われているショーンと結婚しようと思ったのかを聞いた。
五歳年下の妻は子爵家で下女として働き、持病や身体的な不具合もなければ、実家の評判が悪いといった悪評も悪条件もない。もっと条件のよい男と縁づくことができたはずだ。
「父が大きな失敗をして後悔している男なら、お前を裏切るようなことはしないだろうといったことに納得がいったのです。
我が家の恥なのであえて話すことはありませんが、我が家は母が父を裏切り離婚しています。母による裏切りでどれほど父が苦しんだかを知っているだけに、私が夫に求めることは浮気をしないです」
ショーンと妻の父親同士が知り合いなので、ショーンの事情は噂ではなく事実がしっかり妻に伝わっていた。
そのことを冷静に話す妻から、ショーンは何ひとつ嫌なものを感じなかった。誰でもよいとは思っていたが、お互い嫌悪感をいだいていないことが分かりほっとした。
妻を幸せにはできないだろうが不幸にはしないとショーンはそのとき決意した。
「お父さん、遅い。早く!」
着替えているショーンを長男が呼びにきた。
「おとうさん、はやく!」
長男をまねて次男もショーンをせかし、小さな体をショーンの足にまとわりつかせている。
着替えをおえ玄関へむかうと妻が娘に帽子をかぶせていた。
「じゃあ行きましょう」
家族で学校にむかいながらショーンは幸せだと思った。しかし次の瞬間、ぬぐうことのできない罪悪感にさいなまれた。
二人の女性の人生に汚点をつけてしまった罪悪感はショーンの心から消えることはなかった。
そしてそれが自分が一生背負いつづける罰なのだと理解している。
風の噂で運命の人もアリスも幸せにしていることは知っている。
彼女達がショーンからの贖罪など求めていないのも分かっている。
自分が何を思おうと、何をしようと、自己満足でしかないと分かっている。
しかし時折、彼女達に謝りたい、自分ができる何かを彼女達にしたいという衝動がわきおこった。
一度、その衝動をおさえきれず家を飛び出し謝りにいこうとした時に、妻がショーンを必死にとめた。
「あなたの自己満足でしかない謝罪をして彼女達を再び傷つけないで!」
――自己満足でしかない謝罪。
その言葉がショーンの頭を冷やした。
「傷つけられた方はね、傷つけた相手の顔も見たくなければ、考えたくもないの。
私ね、大人になってから学校で私をいじめてた子に謝られたことがあるの。本人は私に謝って満足したようだけど、謝られた私の方はあの頃の痛みを強制的に思い出すことになって苦しかった。
私を再び苦しめたくて謝ったのかと思ったわ。
謝罪なんて本当にいらない。私の視界に一生はいるな。間違っても話しかけるな。私の人生に二度とかかわるな。私が思ったのはそれだけよ」
妻の言葉にショーンは打ちのめされた。心のどこかでまだ彼女達に許されたい、自分の罪悪感をすこしでも軽くしたいという願望を消すことができていなかったことに気付いた。
彼女達の幸せを真に望むなら、ショーンにできることはひとつしかない。
二度と彼女達の視界にはいらない、そして関わらない。それしかない。
「ふざけるな!」
男の怒鳴り声と女性が頬をうたれよろける姿が目にはいった。ショーンは妻と子供達に危険がおよばないよう、はやく学校へいって待っているようにいうと、口汚く女性を罵倒しつづけている男に近づいた。
妻と子供達が学校へ向かっているのを目の端で確認したあと、ショーンは男に「やめろ」と声をかけた。
血走った目を向けた男の顔に見覚えがあった。子供の頃に同じ学校に通っていた一つか二つ年下の男だ。
「夫婦のことに口だしするな! お前には関係ない」
「女性をぶつような男を放っておけるか」
ショーンの言葉に男の顔がゆがんだ。
「結婚直前に浮気して女を捨てるような奴が何をえらそうに。
お前のやったことは女に手をあげるのと同じぐらいひどいことなんだよ。
自分は女をポイ捨てするクズのくせに俺にえらそうなこといえるのかよ」
ショーンは久しぶりにアリスのことを持ちだし罵倒され動揺した。
「自分の薄汚い欲望のために女を捨てて恥じることなく生きてるクズがえらそうにするな。
何が運命の人だ。自分の汚い欲望をきれいな言葉で正当化すれば周りが納得するとでも思ったか?
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男はショーンに言いたいことをいったあと自分の妻を再び罵倒しはじめた。
「そこにいる妻という名の薄汚い女も自分の欲望に走っただけのクズだ。俺にかまわれなくて寂しかったとか言いやがって、ふざけるな。俺のことをはじめに拒んだのはお前だろう。
そんなに男がほしいなら娼館で働け。男に抱かれず寂しいなんていう間もなく客をとれよ」
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「しつこいぞ。夫婦のことに首をつっこむな」
ショーンは怒りで正気をうしないかけている男の目をみすえる。
「お前の言うとおり俺はクズだ。だからお前の怒りは俺が受けとめる。浮気された怒りを俺にぶつけろ」
「何を訳のわからないこといってんだ」
「俺は自分が傷つけた相手に直接謝ることも、罪ほろぼしもできない。彼女達からの怒りを受けることもできない。それが苦しい。
だからお前の怒りを俺がすべて受けとめる。彼女へ言いたいことを全て俺にむけろ。彼女を殴りたいなら俺を殴れ」
男はショーンを無言でにらみ、ショーンには聞こえなかったが何かを短くいったあと、ショーンの体を突きとばしその場をあとにした。
ショーンが男の妻に声をかけると、うつむいたまま礼をいい家の中へと戻っていった。
ショーンが学校へと歩いていると、妻がひとりでショーンに向かってきた。
「子供達は?」
「友達にお願いしてきたわ。大丈夫?」
妻がショーンの全身にさっと視線をめぐらせ無事を確かめていた。
「夫婦げんかにお節介しただけだよ」
ショーンの言葉に妻がほっとした表情をみせた。
自分のことを心配してくれる人がいる。ショーンは心に温かいものを感じた。
ふとショーンは、自分は妻を不幸にしているのではと不安になった。
アリスとの破婚は十年以上前で、そのことに関して何かいわれることはなくなっていた。
しかし久しぶりにアリスのことで罵られ、自分がしらないところで妻がいまだに何かいわれているかもしれないと思いついた。
「俺は君を不幸にしてないだろうか?」
妻がおどろいた顔をする。
「どうしたの急に。私が不幸になるようなことを何かした?」
妻の不安そうな表情をみて、ショーンはあわてて言葉をつぎたす。
「違う。そのようなことは何もしてない。さっき昔のことで罵倒されたから、もしかしたら俺のことで君も嫌なことを言われてきたのではと思ったんだ」
妻がくすりと笑う。
「結婚した当初は何かしら言ってくる人はいたけど、いまは誰も何もいってこないわよ。もう一昔前のはなしよ。
覚えてはいるでしょうが記憶の奥底にしずんでいて、よほどのことがなければ思い出しもしないでしょう。
私には浮気しない働き者の夫がいて、そしてかわいい子供達にも恵まれた。私は幸せよ」
ショーンは妻から幸せだという言葉をきき、目に涙がこみあがるのを感じた。
好きな女性の汚点となるようなことしか出来なかったショーンだが、妻が自分と一緒にいて幸せだといってくれる。それが嬉しかった。
妻がめずらしくショーンの腕に自分の腕をからませた。
「あなたは彼女達への罪悪感から、自分は幸せになってはいけないと無意識のうちに思ってる。
あなたは自分が幸せだと感じると、あなたのなかで彼女達への罪悪感が強まるように思う。だからあなたにとって幸せを感じることは、決して手放しで喜べるものではないような気がする」
ショーンは妻が指摘したように自分は幸せになってはならないと思っていた。彼女達に何の罪ほろぼしもできないかわりに自分の幸せをあきらめようと思った。彼女達が負った苦しみを自分も負いたかった。
浮気した妻を殴った男の怒りをみた時に、それはアリスがショーンに対し抱いたであろう怒りだと思った。愛する人に裏切られた怒り。
アリスは感情を外にださないようにしていただけで、きっとあの男がみせたような激しい感情が彼女の中にわきおこったはずだ。
偶然、街で彼女と会いアリスも結婚を迷っていたのではといってしまった時にみせた彼女の怒りは、彼女が破談になったときに感じたであろう怒りに全くおよばないだろうが、アリスがショーンにいだいた感情の片鱗が表にあらわれていた。
薄汚い欲望。
男がいうように運命の人に感じたものは、自分好みの女性を手に入れたいという欲望だったのだろう。
男に罵られ殴られたかった。アリスがショーンにぶつけなかった怒りを、あの男の怒りを受けることでぶつけられたことにしたかった。
どこまでいっても自分勝手だなとショーンは苦笑する。自分の罪悪感をすこしでも軽くしたい独りよがりで自己満足でしかない考えだ。
「面倒くさい男と結婚してくれてありがとう」
妻が顔をあげショーンの瞳をとらえた。
「こちらこそ行き遅れになりかけてた私と結婚してくれてありがとう」
妻の笑顔をみたショーンは、自分のことを信頼してくれる妻の存在にこれまでどれほど助けられただろうと思う。
「昔のことについて聞かれて久しぶりに母のことを思い出したわ」
妻が笑い声をたてる。
「あの女のおかげで、あなたという夫と一緒になることができたから、その点だけはあの女に感謝するわね」
妻が自身の母について話すのはめずらしかった。妻がショーンに義母の話しをしたのは、なぜショーンと結婚するのかを聞いた時だけだ。
子供達には義母は妻が小さい時に亡くなり、義母のことは覚えていないで通していた。
「あなたに話したことなかったけど、私が十八歳のときに母が突然うちにきたの。
浮気して父を裏切り、離婚してから私のことを一度も気にかけたことがない女が、よくも平然と顔をだせたものだと唖然としてたら、あの女は自分勝手なことを言い散らかした。
あの女は遠くに住んでいるけど祖父が亡くなったと聞いて実家に顔をだしにきて、そういえば実家の近くに元夫と娘がいたと思い出して寄ってみたといったのよ」
妻が鼻で笑う。
「あの女に浮気して夫を裏切り娘も捨てたくせに、どうしていまさら会おうと思ったんだって聞いたの。
そうしたら意外なことを聞かれたような顔で『あなた達のことを思い出してなつかしかったから』といったの。
父への裏切りに対して『もうそんな昔の話、いまさら持ち出さなくても』と笑ってた。
あの女の罪悪感のかけらもない態度に怒る気にもならなかった。これほど理解できない人間が世の中には存在するのかとあの時まなんだ。何をどのようにいってもお互い理解できないし、理解しようとするだけ無駄だと分かった」
妻の表情から長年の心の葛藤やあきらめがにじんでいた。ショーンにたんたんと話す妻だが、このように話せるようになるまで苦しみぬいたはずだ。
「だから父があなたを私の結婚相手として選んだ理由のひとつとして、失敗に対し後悔している人なら大丈夫だろうといった時、その意味が私にはよくわかった。
あなたと結婚してよかった。私は幸せよ」
妻のむけてくれた笑顔にショーンの胸があつくなる。ショーンはきつく妻を抱きしめた。
「ありがとう」
妻に自分も幸せだといいたい。しかし自分は幸せだといってよい人間ではない。
妻への思いや感謝、そして他の男達のようになれない不甲斐なさなど、妻に言いたいことが頭の中に際限なくうかんでくるが、何ひとつ口にすることができなかった。
ショーンを抱きしめかえした妻の手がショーンの背をやさしくなでる。
「子供達が待ってるわ。行きましょう」
ショーンは気持ちをあらたにする。幸せにするという言葉をどうしても使うことはできないが、ショーンは自分の家族を不幸にしない、泣かせるようなことだけはしないと強く思う。
自分の背に手をそえ、となりを歩いてくれる妻といっしょに築きあげた家族を守る。
ショーンは目にうっすらうかんだ涙がこぼれないよう空を見上げた。
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このお話と、その前のお話を改めて読み直しました。ショーンの奥さん、大人ですね。いい人と結婚しました。お母さんの様に、わからない人は、わからない、気づかない。そんな人います。でも、ショーンは奥さんに見守ってもらって、幸せですね。