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前編
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運命の人に出会った。
彼女と目が合い、笑いかけられ、心音が大きく波打った。
耳に心地よくひびく彼女の声。
おもしろいほど話がはずみ、時間が過ぎるのがあっという間だった。
この人だ。自分の半身といえる存在はこの人だ。
心の底からそのように思った。
別れ際の彼女の表情をみて、彼女も同じ気持ちをもってくれていると確信した。
お互いが運命の相手だと。
「大丈夫、お父さん?」
ショーンは娘に起こされ、自分が夢でうなされていたことをしった。
運命の人に出会ったときのことを夢でみていた。あれから十年以上たったいまでも時々あの頃のことを夢にみる。
運命の人だと思った女性。そして結婚するはずだった恋人のアリス。
運命の人はショーンを拒絶した。
出会った時にお互いが運命の相手だと思ったはずだった。
教会で婚約者のアリスと結婚の誓いをたてる十日前に、アリスとの関係を清算した。
アリスとの結婚を破談にし、運命の人とショーンのあいだに何の障害もないはずだった。彼女がショーンと一緒になることをためらう理由は何もなかったはずだ。
「私には愛する婚約者がいます。婚約者に誤解されるような言動をしたくありません。どうか今後は私に近付かないでください」
愛する婚約者。
近付かないでほしい。
なぜだ?
あの時、彼女もショーンのことを運命の相手と分かったはずだ。
自警団の団員として隣町の祭りを警備していた時にもめ事がおこり、助けをもとめられ彼女に出会った。もめ事をおさめたあと彼女と話し、お互いが強くひかれていると分かった。
あの時、彼女の友人が一緒にいなければ、お互いの気持ちを確認しあうことができたはずだ。彼女の視線が、彼女の表情が、彼女の気持ちをあらわしていた。
警備でペアを組んでいた隣町の自警団員から、彼女の名前や勤め先を知ることができた。
ショーンが住んでいる地域は隣町との境で、日頃から隣町の自警団と交流があった。祭りの警備といった人手が必要な時はお互い助け合った。
ショーンは自分がもうすぐ結婚する身であると分かっていたが、彼女に会いたいという気持ちを消すことはできず、彼女の勤め先に顔をだした。
彼女とは初めて会ったときのように話すことはできなかったが、挨拶をしたときに彼女は満面の笑顔をみせた。
体温が一気にあがり、胸の鼓動が体のなかで大きく鳴り響いた。ショーンはしびれたように体が動かないという経験をはじめてした。
出会った時に運命の人だと感じたのは気のせいではなかった。彼女と出会うべくして出会った。ショーンは確信した。
彼女は運命の人で、それをお互い分かっていたはずなのに。
ショーンは突きつけられた現実が信じられなかった。ようやく出会った運命の人をあきらめるなど出来なかった。
「彼女は婚約者にだまされている。彼女のことを愛しているのは、幸せにできるのは、運命の相手である俺だけだ」
ショーンは彼女の婚約者に別れるようせまった。
殴り合いの喧嘩になり相手に怪我をおわせ、ショーンは父と共に相手に謝罪することになった。
穏やかな性格で大きな声ひとつたてたことのないショーンの父が、はじめてショーンにどなり手をあげた。
「いまのお前は狂ってる」
父が何をいっているのかまったく分からなかった。ショーンを狂った人間あつかいする父の方がおかしいと怒りを爆発させた。
ショーンの父は息子が状況をすこしも理解していないとさとり、頭を冷やさせるためショーンを遠方にすむ叔父のところへ三ヶ月おくった。
いまでも彼女と出会った時に感じたものが何だったのか分からない。
あえて言い表すなら強烈な一目惚れだろう。
彼女に出会ったあと、彼女のことしか考えられなくなった。彼女以外の人などいらない。そのように強く思った。
これまでの人生の中であれほど何かを強く望んだことはない。
今後の人生でも、あのような強烈さで何かを欲することはないのではと思うほどだ。
彼女を自分の運命の人だと思い、そして彼女と一緒になりたいと行動したことは、何度考えても魔法にかけられたとしか思えない。
そしてその後に残ったものは、彼女と、今は彼女の夫となった婚約者に、一生近付かないという念書だけだった。
人として、男として最低なことをしてしまったアリスのことを思い出したのは、狂気からさめたあとだった。
アリスとは学園で同じクラスになったことから仲良くなり、お互い好意をもっていたことから恋人になった。
アリスはいつも自分のそばにいて、二人でつまらないことに笑い、いろいろな時間を共にすごした。学園時代の思い出には必ずアリスがいる。
付き合っていた四年という年月の中で一番多くの時間を一緒に過ごし、多くのものを共有した存在だった。
アリスは感情で突っ走りがちなショーンをなだめ、落ち着いて行動がとれるよう見守ってくれた。
冷静で行動力のあるアリスは人から頼られることが多かった。頼られると期待に応えようと頑張り過ぎてしまいがちなアリスを、必要以上に頑張らせないようにするのがショーンだった。二人はお互いの足りない部分をおぎなった。
ショーンにとってアリスと一緒にいるのは心地よく、そしてとても自然だった。だからこそ結婚して家族となるのが当たり前と思えた。
穏やかで温かい恋情があり愛があった。
アリスが自分のそばにいるのが当たり前で、彼女からの愛情が当たり前すぎて、彼女とのあいだに愛が存在していることを忘れてしまっていた。
狂った熱情からさめ、運命の人と思った女性は自分の幻想でしかなかったと現実を受け入れられるようになり、ようやくショーンは自分が失ったものに気付いた。
自分のそばにいつもいたアリスという存在とアリスの愛をうしなった。
ショーンは喪失感に押しつぶされそうだった。
大切なものを自ら捨ててしまった。大切なものを失ったことに気付かないほど狂っていた。
これまで感じたことのない孤独と不安に叫びたくなった。
アリスが自分のそばにいてくれたからこそ自由でいられた。何があってもアリスがいてくれる、一緒に乗り越えられるという信頼と安心感。
いつも側にいて一緒に笑い、嫌なことを一緒に怒って気持ちを落ち着かせてくれ、悲しいことがあればなぐさめてくれ、つらいことを一緒にくぐり抜けた。
二人で築くはずだった幸せな家庭。もう望むことすらできない。
ショーンは抜け殻だった。何もかも失ってしまった抜け殻だった。
喪失感と絶え間なくおそう罪悪感から逃れようと酒をのむが、ショーンは体質的に酒があまり飲めず一杯の酒も飲み干すことができない。
それでも酔いたいと飲むが、頭痛や吐き気をおぼえるだけで酔えなかった。
酒に逃げられないことで余計に軋む胸の痛みにたえかね、ショーンは町の自警団の訓練に顔をだすようになった。体を疲れさせれば何も考えずに眠ることができる。その一心だった。
ショーンは破婚した頃から自警団の活動を怠っていたが、団員達は何もいわずショーンを受け入れ活動に参加させた。平和な町だがつねに何かしら問題はあり、その解決に自警団の助けをといわれることは多かった。
自警団が暴漢と対峙することもあることから、自主的に体技の訓練をする団員達とショーンは熱心に訓練にはげんだ。
そのような日々を送っているうちに、少しづつショーンの喪失感はやわらいでいった。時々、うずくまりたくなるほどの痛みを胸に感じることはあったが、その頻度はゆるやかに減っていった。
そして破婚になってから半年以上たった頃にアリスを街で偶然みかけた。なつかしさと心の中にくすぶっていたアリスへの思いでいっぱいになり、つい声をかけてしまった。
衝動的にアリスに声をかけてしまってから、もう自分に関わるなと弁護士事務所でいわれたことを思いだした。
結婚の破談はあっさりしたものだった。アリスに別れを告げた時に揉めるだろうと身構えていたが、アリスはショーンがなぜ破談にしたいのかという理由もきかず、結婚中止のためにすぐに行動すべきだと動いた。
呆気にとられるほどの簡単さだった。まさか理由も聞かれず破談になるとは想像もしていなかった。
何かがおかしいとは思ったが、アリスが別れを承諾してくれないかもしれない、両家の親達が許さないかもしれないと考えるだけで気が重かっただけに、予想外の簡単さにただ「よかった」と安堵してしまった。
一番の難点になるだろうと思っていた部分が、あっさり上手くいったことに満足してしまい、なぜアリスが弁護士を通して破談しようとしたかといった理由を考えようともしなかった。
だからこそ以前と変わらないアリスをみて、また昔のように話せるのではと思ってしまった。
アリスと結婚の誓いをたてる十日前に、結婚できないといって破談にしたのを忘れていたわけではない。
しかしショーンがアリスに声をかけた時に、アリスはびっくりした表情はみせたが、そのあと少しぎこちないとはいえ普通な様子だったせいで勘違いしてしまった。
結婚が破談になったことを、お互い過去のこととして水に流せたのではと。
アリスにあらためて謝罪し、アリスが運命の人にショーンが拒絶されたことを知っていたことなどが分かり、ショーンはそれまでのようにアリスには何を話しても大丈夫な気になっていた。
運命の人への狂気からさめ、アリスのことを考えられるようになってからあらためて気が付いたのが、アリスは最後までショーンが結婚を破談にした理由をまったく聞かなかったことだ。
弁護士事務所で破談の最終手続きをおこなった時に、アリスへかろうじて謝罪はできたが、個人的な話をする機会はまったくなかった。
手続きが終わるとアリスと両親はさっさと帰ってしまい話す機会などなく全てがおわった。
アリスのことを考えるようになってから、アリスがショーンに何も聞かなかったのは、アリスも結婚に対し迷いがあったからかもしれないと思い始めた。
それでなければ説明がつかないほど破談にむけたアリスの行動に迷いはなく、そして一秒でも早く終わらせたいという意志がかいまみえた。
アリスと話をしているうちに、ショーンはそのことを確認したくなった。アリスも結婚に迷いがあったのなら、結果的に二人が別れたのはよかったのではと思いたかった。
それを確かめようとアリスにショーンとの結婚に迷いがあったのではと聞いた。そのとたんアリスは怒りをみせた。
ショーンは自分がどれほど愚かか分かっていなかった。
自分のことしか考えていなかった。
ショーンのせいでアリスがどれほど傷ついたのかまったく分かっていなかった。
別れ話をした時も、弁護士事務所でも、久しぶりに会っても、アリスはこれまで通り冷静だった。アリスはあまり傷ついていないのだろうとショーンは思ってしまった。
しかしそれはアリスが必死に感情を抑えていただけで、抑えきれないほどの感情が自分のなかに渦巻いているからこそ、感情的にならずに関係を終了させる方法として弁護士を通す形をとったにすぎなかった。
一度感情を爆発させてしまえば、荒れ狂う感情をなだめるのはむずかしい。冷静に物を考えられなくなる。だからこそ感情的にならず終わらせることにアリスはこだわったのだ。
そしてすでにアリスは深く傷ついていた。もうこれ以上傷つきたくないとアリスは自衛策をとったのだ。
アリスは何も知らなかったわけではなく、ショーンの言動からショーンに何が起こっていたのかを知っていた。ショーンが何もいわなくても、アリスはショーンの心の揺れを知っていた。そしてショーンの気持ちが一時の迷いであるよう願った。
自分と結婚を誓うはずの男が、自分の目の前で他の女性を好きになっている姿を見せつづけられたのだ。それがどれほど酷なことだったのか少し考えれば分かることだが、ショーンはアリスの怒りをみるまで分かっていなかった。
結婚できないといわれた時のアリスの心の痛みがどれほどのものだったか、ショーンは考えたことがなかった。
アリスの心は傷ついていた。だから何も聞かなかった。もう何も聞きたくなかったのだ。ショーンが自分ではなく他の女性を選んだという結果以外を必要としなかったのは、そういうことだったのだ。
それにもかかわらず弁護士事務所でアリスに詫びた時に、「運命の人に出会った」と無神経なことをいってしまった。
そして久しぶりに会ったアリスに、彼女も結婚を迷っていたのではと自分勝手なことをいってしまった。
アリスに二度と関わるなといわれて当然だった。
彼女の気持ちをまったく分かっていなかった。自分が彼女に何をしたのかまったく理解していなかった。
ショーンはアリスがカフェを去ったあと自分の愚かさに呆然としていたが、すぐに正気にもどりアリスを追いかけた。この機会をのがせば、もう二度と話せない。いま謝らなければ、もう謝る機会はない。
ショーンはアリスの姿をさがし走り回ったが、アリスは煙のように消えてしまった。カフェ近隣の店を一軒一軒まわりアリスが来ていないか確かめたが、アリスの姿はどこにもなかった。
ショーンはアリスに謝る機会を完全にうしなった。
彼女と目が合い、笑いかけられ、心音が大きく波打った。
耳に心地よくひびく彼女の声。
おもしろいほど話がはずみ、時間が過ぎるのがあっという間だった。
この人だ。自分の半身といえる存在はこの人だ。
心の底からそのように思った。
別れ際の彼女の表情をみて、彼女も同じ気持ちをもってくれていると確信した。
お互いが運命の相手だと。
「大丈夫、お父さん?」
ショーンは娘に起こされ、自分が夢でうなされていたことをしった。
運命の人に出会ったときのことを夢でみていた。あれから十年以上たったいまでも時々あの頃のことを夢にみる。
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運命の人はショーンを拒絶した。
出会った時にお互いが運命の相手だと思ったはずだった。
教会で婚約者のアリスと結婚の誓いをたてる十日前に、アリスとの関係を清算した。
アリスとの結婚を破談にし、運命の人とショーンのあいだに何の障害もないはずだった。彼女がショーンと一緒になることをためらう理由は何もなかったはずだ。
「私には愛する婚約者がいます。婚約者に誤解されるような言動をしたくありません。どうか今後は私に近付かないでください」
愛する婚約者。
近付かないでほしい。
なぜだ?
あの時、彼女もショーンのことを運命の相手と分かったはずだ。
自警団の団員として隣町の祭りを警備していた時にもめ事がおこり、助けをもとめられ彼女に出会った。もめ事をおさめたあと彼女と話し、お互いが強くひかれていると分かった。
あの時、彼女の友人が一緒にいなければ、お互いの気持ちを確認しあうことができたはずだ。彼女の視線が、彼女の表情が、彼女の気持ちをあらわしていた。
警備でペアを組んでいた隣町の自警団員から、彼女の名前や勤め先を知ることができた。
ショーンが住んでいる地域は隣町との境で、日頃から隣町の自警団と交流があった。祭りの警備といった人手が必要な時はお互い助け合った。
ショーンは自分がもうすぐ結婚する身であると分かっていたが、彼女に会いたいという気持ちを消すことはできず、彼女の勤め先に顔をだした。
彼女とは初めて会ったときのように話すことはできなかったが、挨拶をしたときに彼女は満面の笑顔をみせた。
体温が一気にあがり、胸の鼓動が体のなかで大きく鳴り響いた。ショーンはしびれたように体が動かないという経験をはじめてした。
出会った時に運命の人だと感じたのは気のせいではなかった。彼女と出会うべくして出会った。ショーンは確信した。
彼女は運命の人で、それをお互い分かっていたはずなのに。
ショーンは突きつけられた現実が信じられなかった。ようやく出会った運命の人をあきらめるなど出来なかった。
「彼女は婚約者にだまされている。彼女のことを愛しているのは、幸せにできるのは、運命の相手である俺だけだ」
ショーンは彼女の婚約者に別れるようせまった。
殴り合いの喧嘩になり相手に怪我をおわせ、ショーンは父と共に相手に謝罪することになった。
穏やかな性格で大きな声ひとつたてたことのないショーンの父が、はじめてショーンにどなり手をあげた。
「いまのお前は狂ってる」
父が何をいっているのかまったく分からなかった。ショーンを狂った人間あつかいする父の方がおかしいと怒りを爆発させた。
ショーンの父は息子が状況をすこしも理解していないとさとり、頭を冷やさせるためショーンを遠方にすむ叔父のところへ三ヶ月おくった。
いまでも彼女と出会った時に感じたものが何だったのか分からない。
あえて言い表すなら強烈な一目惚れだろう。
彼女に出会ったあと、彼女のことしか考えられなくなった。彼女以外の人などいらない。そのように強く思った。
これまでの人生の中であれほど何かを強く望んだことはない。
今後の人生でも、あのような強烈さで何かを欲することはないのではと思うほどだ。
彼女を自分の運命の人だと思い、そして彼女と一緒になりたいと行動したことは、何度考えても魔法にかけられたとしか思えない。
そしてその後に残ったものは、彼女と、今は彼女の夫となった婚約者に、一生近付かないという念書だけだった。
人として、男として最低なことをしてしまったアリスのことを思い出したのは、狂気からさめたあとだった。
アリスとは学園で同じクラスになったことから仲良くなり、お互い好意をもっていたことから恋人になった。
アリスはいつも自分のそばにいて、二人でつまらないことに笑い、いろいろな時間を共にすごした。学園時代の思い出には必ずアリスがいる。
付き合っていた四年という年月の中で一番多くの時間を一緒に過ごし、多くのものを共有した存在だった。
アリスは感情で突っ走りがちなショーンをなだめ、落ち着いて行動がとれるよう見守ってくれた。
冷静で行動力のあるアリスは人から頼られることが多かった。頼られると期待に応えようと頑張り過ぎてしまいがちなアリスを、必要以上に頑張らせないようにするのがショーンだった。二人はお互いの足りない部分をおぎなった。
ショーンにとってアリスと一緒にいるのは心地よく、そしてとても自然だった。だからこそ結婚して家族となるのが当たり前と思えた。
穏やかで温かい恋情があり愛があった。
アリスが自分のそばにいるのが当たり前で、彼女からの愛情が当たり前すぎて、彼女とのあいだに愛が存在していることを忘れてしまっていた。
狂った熱情からさめ、運命の人と思った女性は自分の幻想でしかなかったと現実を受け入れられるようになり、ようやくショーンは自分が失ったものに気付いた。
自分のそばにいつもいたアリスという存在とアリスの愛をうしなった。
ショーンは喪失感に押しつぶされそうだった。
大切なものを自ら捨ててしまった。大切なものを失ったことに気付かないほど狂っていた。
これまで感じたことのない孤独と不安に叫びたくなった。
アリスが自分のそばにいてくれたからこそ自由でいられた。何があってもアリスがいてくれる、一緒に乗り越えられるという信頼と安心感。
いつも側にいて一緒に笑い、嫌なことを一緒に怒って気持ちを落ち着かせてくれ、悲しいことがあればなぐさめてくれ、つらいことを一緒にくぐり抜けた。
二人で築くはずだった幸せな家庭。もう望むことすらできない。
ショーンは抜け殻だった。何もかも失ってしまった抜け殻だった。
喪失感と絶え間なくおそう罪悪感から逃れようと酒をのむが、ショーンは体質的に酒があまり飲めず一杯の酒も飲み干すことができない。
それでも酔いたいと飲むが、頭痛や吐き気をおぼえるだけで酔えなかった。
酒に逃げられないことで余計に軋む胸の痛みにたえかね、ショーンは町の自警団の訓練に顔をだすようになった。体を疲れさせれば何も考えずに眠ることができる。その一心だった。
ショーンは破婚した頃から自警団の活動を怠っていたが、団員達は何もいわずショーンを受け入れ活動に参加させた。平和な町だがつねに何かしら問題はあり、その解決に自警団の助けをといわれることは多かった。
自警団が暴漢と対峙することもあることから、自主的に体技の訓練をする団員達とショーンは熱心に訓練にはげんだ。
そのような日々を送っているうちに、少しづつショーンの喪失感はやわらいでいった。時々、うずくまりたくなるほどの痛みを胸に感じることはあったが、その頻度はゆるやかに減っていった。
そして破婚になってから半年以上たった頃にアリスを街で偶然みかけた。なつかしさと心の中にくすぶっていたアリスへの思いでいっぱいになり、つい声をかけてしまった。
衝動的にアリスに声をかけてしまってから、もう自分に関わるなと弁護士事務所でいわれたことを思いだした。
結婚の破談はあっさりしたものだった。アリスに別れを告げた時に揉めるだろうと身構えていたが、アリスはショーンがなぜ破談にしたいのかという理由もきかず、結婚中止のためにすぐに行動すべきだと動いた。
呆気にとられるほどの簡単さだった。まさか理由も聞かれず破談になるとは想像もしていなかった。
何かがおかしいとは思ったが、アリスが別れを承諾してくれないかもしれない、両家の親達が許さないかもしれないと考えるだけで気が重かっただけに、予想外の簡単さにただ「よかった」と安堵してしまった。
一番の難点になるだろうと思っていた部分が、あっさり上手くいったことに満足してしまい、なぜアリスが弁護士を通して破談しようとしたかといった理由を考えようともしなかった。
だからこそ以前と変わらないアリスをみて、また昔のように話せるのではと思ってしまった。
アリスと結婚の誓いをたてる十日前に、結婚できないといって破談にしたのを忘れていたわけではない。
しかしショーンがアリスに声をかけた時に、アリスはびっくりした表情はみせたが、そのあと少しぎこちないとはいえ普通な様子だったせいで勘違いしてしまった。
結婚が破談になったことを、お互い過去のこととして水に流せたのではと。
アリスにあらためて謝罪し、アリスが運命の人にショーンが拒絶されたことを知っていたことなどが分かり、ショーンはそれまでのようにアリスには何を話しても大丈夫な気になっていた。
運命の人への狂気からさめ、アリスのことを考えられるようになってからあらためて気が付いたのが、アリスは最後までショーンが結婚を破談にした理由をまったく聞かなかったことだ。
弁護士事務所で破談の最終手続きをおこなった時に、アリスへかろうじて謝罪はできたが、個人的な話をする機会はまったくなかった。
手続きが終わるとアリスと両親はさっさと帰ってしまい話す機会などなく全てがおわった。
アリスのことを考えるようになってから、アリスがショーンに何も聞かなかったのは、アリスも結婚に対し迷いがあったからかもしれないと思い始めた。
それでなければ説明がつかないほど破談にむけたアリスの行動に迷いはなく、そして一秒でも早く終わらせたいという意志がかいまみえた。
アリスと話をしているうちに、ショーンはそのことを確認したくなった。アリスも結婚に迷いがあったのなら、結果的に二人が別れたのはよかったのではと思いたかった。
それを確かめようとアリスにショーンとの結婚に迷いがあったのではと聞いた。そのとたんアリスは怒りをみせた。
ショーンは自分がどれほど愚かか分かっていなかった。
自分のことしか考えていなかった。
ショーンのせいでアリスがどれほど傷ついたのかまったく分かっていなかった。
別れ話をした時も、弁護士事務所でも、久しぶりに会っても、アリスはこれまで通り冷静だった。アリスはあまり傷ついていないのだろうとショーンは思ってしまった。
しかしそれはアリスが必死に感情を抑えていただけで、抑えきれないほどの感情が自分のなかに渦巻いているからこそ、感情的にならずに関係を終了させる方法として弁護士を通す形をとったにすぎなかった。
一度感情を爆発させてしまえば、荒れ狂う感情をなだめるのはむずかしい。冷静に物を考えられなくなる。だからこそ感情的にならず終わらせることにアリスはこだわったのだ。
そしてすでにアリスは深く傷ついていた。もうこれ以上傷つきたくないとアリスは自衛策をとったのだ。
アリスは何も知らなかったわけではなく、ショーンの言動からショーンに何が起こっていたのかを知っていた。ショーンが何もいわなくても、アリスはショーンの心の揺れを知っていた。そしてショーンの気持ちが一時の迷いであるよう願った。
自分と結婚を誓うはずの男が、自分の目の前で他の女性を好きになっている姿を見せつづけられたのだ。それがどれほど酷なことだったのか少し考えれば分かることだが、ショーンはアリスの怒りをみるまで分かっていなかった。
結婚できないといわれた時のアリスの心の痛みがどれほどのものだったか、ショーンは考えたことがなかった。
アリスの心は傷ついていた。だから何も聞かなかった。もう何も聞きたくなかったのだ。ショーンが自分ではなく他の女性を選んだという結果以外を必要としなかったのは、そういうことだったのだ。
それにもかかわらず弁護士事務所でアリスに詫びた時に、「運命の人に出会った」と無神経なことをいってしまった。
そして久しぶりに会ったアリスに、彼女も結婚を迷っていたのではと自分勝手なことをいってしまった。
アリスに二度と関わるなといわれて当然だった。
彼女の気持ちをまったく分かっていなかった。自分が彼女に何をしたのかまったく理解していなかった。
ショーンはアリスがカフェを去ったあと自分の愚かさに呆然としていたが、すぐに正気にもどりアリスを追いかけた。この機会をのがせば、もう二度と話せない。いま謝らなければ、もう謝る機会はない。
ショーンはアリスの姿をさがし走り回ったが、アリスは煙のように消えてしまった。カフェ近隣の店を一軒一軒まわりアリスが来ていないか確かめたが、アリスの姿はどこにもなかった。
ショーンはアリスに謝る機会を完全にうしなった。
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