40 / 40
蝕と呪い、あるいは祝福 2
しおりを挟む
唯一賑々しいのは、宮殿だろう。
この三日間、宮殿には国中から集った貴族が詰めて神力の大小にかかわらず祭司官たちとともに祈りを捧げ、居並ぶ騎士が神力の込められた鈴を鳴らす習わしだ。
かつて、国を背負うことになった弟神のしもべは、弟神から与えられた血肉が肌の下で疼くことにため息すると、夏に訪れる乳白色の帳を蝕と名付けた。
そうして、自分の血に呪いをかけることにしたと建国神話は語る。
一番目のしもべは自らの姿を大樹に変えると、枝の先で息子の瞳を貫いて金色に輝く星を宿させた。
――この薄闇が我らの喰らった兄神の血肉と呼応するものならば、この大地に残る兄神の残滓が嘆いていらっしゃるのだろう。我が子孫はこの大地に根を張る弟神のしもべとして、兄神の嘆きをお慰めせねばならぬ。ヴァルダノの王族には、弟神の眠りをお守りし国を支える責務があるのだから。
以来、王となる男児は瞳に金の星を宿してこの世に産み落とされ、兄神の嘆きを一身に受け止めることとなった。
国中の祭司官が捧げる祈りも、神力による加護も騎士が奏でる鎮魂の鈴の音も、あくまで王の補助にしか過ぎない。代々の王は三日間儀式の間に籠もり、兄神の嘆きをひたすらに浴び、悲しみに晒され浸される。
その痛みは、肉体ではなく精神を刺激するもので、ともすれば狂い死にそうなまでに凄まじいと謂われていた。受け継いだ神力の性質によっては相当な負担がかかり、長い歴史の中には早逝した王もいるほどだ。
先々代の王が多くの愛妾を娶り、金に次ぐ銀の星を持ち、蝕の痛みを引き受ける子供を儲けたのも、次代の王の負担を軽くする意図があったという。
イルディオスは銀の星を授かって生まれたが、人ならぬ力に長年苛まれてきたせいか、蝕にもさほど影響を受けないと聞いている。
お陰で兄上のお役に立てる、と頑是ない子どものように微笑んだイルディオスの表情を思い出しながら、アドリーシャはアロの翼を撫でる。嘴の周りについた食べかすを指で払ってやると、翼の先がはたはた揺れて可愛らしい。
「お寝みになりますか?」
「いい。……アドリーシャ。お前はなぜ、何も我に望まない?」
ちろりと片目を開けてこちらを見上げる瞳は、羽と同じように不可思議な揺らめきを備えた闇の色をしている。いつまでも見つめていられるようで、見つめていることが憚られるような密やかさを秘めた輝きだ。
「差し出たことを申し上げます。神と呼ばれる御方は、人から多くを望まれることに飽いていらっしゃるのではないかと思うのです」
アドリーシャにも、アロに――弟神に聞きたいことがないといえば嘘になる。
でも、あくまで弟神は神で、アドリーシャは人なのだ。
アロが人懐こい小鳥のように振る舞うから、イルディオスもアドリーシャも気安く接してしまっている。
でも、もし分を過ぎて勘気を被ってしまったら? そう考えると、アドリーシャは何かを求めようとは到底思えなかった。
かつて、弟神から神託を授かった祭司官が増長して、死を与えられた例もある。父から祈りの作法を仕込まれたアドリーシャは、祈りを捧げるときは決して我欲を出してはいけないときつく言い含められていた。
――それに、他者から何かを望まれ続けることはさみしいことだ。何も望まれないのと同じくらいに。
アロはしばらく黙っていたが、人でも鳥でもない輝きを凝らせた瞳の苛烈さは、ヴァルダノを創造した神が苛立ちを覚えていることをありありとアドリーシャに教えた。
怒りや葛藤といった言葉が瞬きのうちに褪せるほどに、その瞳は目映い光に満ち満ちている。
ぐらぐらと煮詰められた感情が激しく波打ちながら、ただアドリーシャだけを見ている。胸の底で恐れが首をもたげたが、アドリーシャは唇を閉ざしたままでいた。
「我を哀れむのか。ただの人が、たった十年ぽっち生きただけの小娘が」
小鳥の輪郭がぬらりと崩れ落ち、暗い炎のように揺らめき出す。
「アドリーシャ。たった三日預かっただけの指輪がそんなに嬉しかったのか? 慎ましく控えめでいろと躾けられた従順しさが、お前の美点であろう。求婚にも足りぬ、完全に自分の物でもない指輪にそこまで鼓舞されたか? 愚かしいことだな」
そっと眉を寄せたアドリーシャは、ぐっと目の前に迫った瞳に睨めつけられて息を止める。
「……所有せずとも、一瞬の思い出があれば生きていける者もいるのです」
「嘘を吐け! そんなに欲望を湛えた瞳で、よくもまあのうのうと!」
ぬらぬらと輪郭を揺らがせた翼が喉を捉えて、押し出されたうめき声がこぼれ落ちる。喉が圧迫されて、息が苦しい。歪んだ視界が、星を湛えた夜の海に浸される。
「……っ、ぐ、」
死を覚悟したそのとき。アロはびくりと輪郭を波打たせると、まじまじとアドリーシャを覗き込む。そうして、短く一笑したかと思うと、大きく翼をはためかせてくるりと旋回する。
「蝕でなかったら、お前を切り裂いていたやもしれぬぞ。兄上はまったく、どこまでも……」
アロは低く唸り立てるように呟くと、椅子から転げ落ちて咳き込むアドリーシャを一瞥して姿を消した。
喉を押さえて荒い息を整えようとするアドリーシャの胸の間を、つうっと汗が伝い落ちる。
いま見逃してもらえたのは奇跡に等しい。けれども、偽りを口にする勇気もなかった。
生まれつき備わった分にそぐわぬ望みを抱くのは、こういうことだ。
慎ましく微笑んで与えられた箱の中に従順に収まっていれば、アドリーシャは見逃してもらえるだろう。一度箱の中から手を伸ばせば、手ひどく打擲される。弁えていないお前が悪いのだと。
うまく力の入らない四肢をやっとの思いで動かして、倒れていた椅子を立て直し、縋るように息をつく。畏れの名残が指の先まで満ちていて、肌が震えを帯びていた。
この三日間、宮殿には国中から集った貴族が詰めて神力の大小にかかわらず祭司官たちとともに祈りを捧げ、居並ぶ騎士が神力の込められた鈴を鳴らす習わしだ。
かつて、国を背負うことになった弟神のしもべは、弟神から与えられた血肉が肌の下で疼くことにため息すると、夏に訪れる乳白色の帳を蝕と名付けた。
そうして、自分の血に呪いをかけることにしたと建国神話は語る。
一番目のしもべは自らの姿を大樹に変えると、枝の先で息子の瞳を貫いて金色に輝く星を宿させた。
――この薄闇が我らの喰らった兄神の血肉と呼応するものならば、この大地に残る兄神の残滓が嘆いていらっしゃるのだろう。我が子孫はこの大地に根を張る弟神のしもべとして、兄神の嘆きをお慰めせねばならぬ。ヴァルダノの王族には、弟神の眠りをお守りし国を支える責務があるのだから。
以来、王となる男児は瞳に金の星を宿してこの世に産み落とされ、兄神の嘆きを一身に受け止めることとなった。
国中の祭司官が捧げる祈りも、神力による加護も騎士が奏でる鎮魂の鈴の音も、あくまで王の補助にしか過ぎない。代々の王は三日間儀式の間に籠もり、兄神の嘆きをひたすらに浴び、悲しみに晒され浸される。
その痛みは、肉体ではなく精神を刺激するもので、ともすれば狂い死にそうなまでに凄まじいと謂われていた。受け継いだ神力の性質によっては相当な負担がかかり、長い歴史の中には早逝した王もいるほどだ。
先々代の王が多くの愛妾を娶り、金に次ぐ銀の星を持ち、蝕の痛みを引き受ける子供を儲けたのも、次代の王の負担を軽くする意図があったという。
イルディオスは銀の星を授かって生まれたが、人ならぬ力に長年苛まれてきたせいか、蝕にもさほど影響を受けないと聞いている。
お陰で兄上のお役に立てる、と頑是ない子どものように微笑んだイルディオスの表情を思い出しながら、アドリーシャはアロの翼を撫でる。嘴の周りについた食べかすを指で払ってやると、翼の先がはたはた揺れて可愛らしい。
「お寝みになりますか?」
「いい。……アドリーシャ。お前はなぜ、何も我に望まない?」
ちろりと片目を開けてこちらを見上げる瞳は、羽と同じように不可思議な揺らめきを備えた闇の色をしている。いつまでも見つめていられるようで、見つめていることが憚られるような密やかさを秘めた輝きだ。
「差し出たことを申し上げます。神と呼ばれる御方は、人から多くを望まれることに飽いていらっしゃるのではないかと思うのです」
アドリーシャにも、アロに――弟神に聞きたいことがないといえば嘘になる。
でも、あくまで弟神は神で、アドリーシャは人なのだ。
アロが人懐こい小鳥のように振る舞うから、イルディオスもアドリーシャも気安く接してしまっている。
でも、もし分を過ぎて勘気を被ってしまったら? そう考えると、アドリーシャは何かを求めようとは到底思えなかった。
かつて、弟神から神託を授かった祭司官が増長して、死を与えられた例もある。父から祈りの作法を仕込まれたアドリーシャは、祈りを捧げるときは決して我欲を出してはいけないときつく言い含められていた。
――それに、他者から何かを望まれ続けることはさみしいことだ。何も望まれないのと同じくらいに。
アロはしばらく黙っていたが、人でも鳥でもない輝きを凝らせた瞳の苛烈さは、ヴァルダノを創造した神が苛立ちを覚えていることをありありとアドリーシャに教えた。
怒りや葛藤といった言葉が瞬きのうちに褪せるほどに、その瞳は目映い光に満ち満ちている。
ぐらぐらと煮詰められた感情が激しく波打ちながら、ただアドリーシャだけを見ている。胸の底で恐れが首をもたげたが、アドリーシャは唇を閉ざしたままでいた。
「我を哀れむのか。ただの人が、たった十年ぽっち生きただけの小娘が」
小鳥の輪郭がぬらりと崩れ落ち、暗い炎のように揺らめき出す。
「アドリーシャ。たった三日預かっただけの指輪がそんなに嬉しかったのか? 慎ましく控えめでいろと躾けられた従順しさが、お前の美点であろう。求婚にも足りぬ、完全に自分の物でもない指輪にそこまで鼓舞されたか? 愚かしいことだな」
そっと眉を寄せたアドリーシャは、ぐっと目の前に迫った瞳に睨めつけられて息を止める。
「……所有せずとも、一瞬の思い出があれば生きていける者もいるのです」
「嘘を吐け! そんなに欲望を湛えた瞳で、よくもまあのうのうと!」
ぬらぬらと輪郭を揺らがせた翼が喉を捉えて、押し出されたうめき声がこぼれ落ちる。喉が圧迫されて、息が苦しい。歪んだ視界が、星を湛えた夜の海に浸される。
「……っ、ぐ、」
死を覚悟したそのとき。アロはびくりと輪郭を波打たせると、まじまじとアドリーシャを覗き込む。そうして、短く一笑したかと思うと、大きく翼をはためかせてくるりと旋回する。
「蝕でなかったら、お前を切り裂いていたやもしれぬぞ。兄上はまったく、どこまでも……」
アロは低く唸り立てるように呟くと、椅子から転げ落ちて咳き込むアドリーシャを一瞥して姿を消した。
喉を押さえて荒い息を整えようとするアドリーシャの胸の間を、つうっと汗が伝い落ちる。
いま見逃してもらえたのは奇跡に等しい。けれども、偽りを口にする勇気もなかった。
生まれつき備わった分にそぐわぬ望みを抱くのは、こういうことだ。
慎ましく微笑んで与えられた箱の中に従順に収まっていれば、アドリーシャは見逃してもらえるだろう。一度箱の中から手を伸ばせば、手ひどく打擲される。弁えていないお前が悪いのだと。
うまく力の入らない四肢をやっとの思いで動かして、倒れていた椅子を立て直し、縋るように息をつく。畏れの名残が指の先まで満ちていて、肌が震えを帯びていた。
0
お気に入りに追加
20
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす
まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。
彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。
しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。
彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。
他掌編七作品収録。
※無断転載を禁止します。
※朗読動画の無断配信も禁止します
「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」
某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。
【収録作品】
①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」
②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」
③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」
④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」
⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」
⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」
⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」
⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。
松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。
そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。
しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
五歳の時から、側にいた
田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。
それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。
グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。
前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。
届かぬ温もり
HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった·····
◆◇◆◇◆◇◆
すべてフィクションです。読んでくだり感謝いたします。
ゆっくり更新していきます。
誤字脱字も見つけ次第直していきます。
よろしくお願いします。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる