「君を食べるつもりはない」と言った運命の人に、恋をしてしまいました。

ななな

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蝕と呪い、あるいは祝福 1

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 主の不在は、屋敷を静まり返らせる。
 騎士たちの大半がイルディオスに同行して宮殿パラグへ向かったため、いつも遠く聞こえる鍛錬の音もしない。さやさやと揺れる葉擦れやよく磨かれた床の上を歩く足音、衣擦れの音すら大きく思われてしまう。

「エティケも宮殿へ行きたかったのではないの?」
「いえ、まったく。正直なところ、蝕の間はあまり宮殿に近づきたくないのです」

 エティケは腕に抱えた法律書の背を揃えると、この時期は引っ張られそうになるのですと短く囁いた。言われて見れば、片手で重い執務室の扉を開けるエティケの顔はいつもより血色がない。

 アドリーシャは、かつて祭司長候補だったという父を思い出した。
 蝕の間、祭司官は国王のために祈りを捧げるが、神力の性質によっては気鬱から逃れられない。自分は蝕の間使い物にならなかったから、どのみち若くして才長けたファブロには敵わなかったのだと苦笑交じりに語っていたものだ。
 
「父もそうだったわ。ずっと執務室にいるから、あなたは休んでいて」
「ありがとうございます。でも、平気ですよ。アドリ様のお傍にいると気が休まりますから」

 まあと瞬いたアドリーシャにエティケは微笑み、法律書を机に置くと外で控えていると言って執務室を出た。

 一人きりになったアドリーシャは、昨日の朝、騎士たちとともに宮殿へ向かったイルディオスの机を撫でる。つつ、とすべらせた手で精緻な彫刻が施された天板をたどって、主のいない椅子に腰を下ろす。身長も腰の位置も高いイルディオスに合わせて設えられた机と椅子は、いつもこの場所にいる人の体格が自分よりもずっと大きいことをアドリーシャに教えた。

 ユニカがお茶を運んでくる前に、自分の机に移動しないと。そう思いながらも、机に顔を伏せたアドリーシャは目を閉じる。
 瞼の暗がりで思い出すのは、今は鍵付きの抽出にしまい込んでいるフォエミナの調査結果だ。
 勤勉で優秀なモニークは限られた試料で実験をくり返し、少ない情報から推論まで立ててくれていた。

 フォエミナの香りを思い出すとき、いつもアドリーシャには後ろめたさの混じった切なさが忍び寄る。
 籠を訪れるといつも漂っている、どんな植物やお菓子にもない、あの甘い香り……。

 自ずと、屋敷を留守にしているイルディオスの横顔が思い浮かぶ。
 蝕の間イルディオスは屋敷に戻らないから、一昨日はいつもより長めに手を握っていた。イルディオスは平気だと言うが、アドリーシャは毎年気がかりだった。
 イルディオスがつらい思いをしていないといい。他人の痛みには悲しそうな顔をするのに、自分の痛みには鈍感な人だから。

 無意識に、指先が首にさげた鎖をたぐり寄せる。
 イルディオスから印章指輪を託されてからというものの、アドリーシャの指は気づけば胸元へと伸びて、屋敷を留守にしている人の面影を探した。

 今日もイルディオスの代理人として、幾つか重要な決断を下した。
 自分の決定が誰かの人生を左右する重みを味わうことに、今はまだ少し恐れがある。イルディオスの代わりに自分が決裁をすることで、良くない方に転んでしまったら。そう思ってしまうことも少なくない。

 ふっと身を起こしたアドリーシャは自分の机に戻ると、代理人から届いたばかりの報告書を開いた。
 税金対策に別荘でも買ってはいかがですかと手紙を送ってきた代理人に、別荘ではなく屋敷の候補を出してほしいと伝えたのはつい先日のことである。アドリーシャの資産はそれなりの額になっていたし、籠から出たばかりの果実が一時的に身を寄せられて、その後の生活を支援する場所を作ろうと考えたのだ。

 それと同時に、成人の宴が済んだら、この屋敷を出ても良いのかもしれないと思う気持ちも芽生えていた。
 多少なりとも自立して、毎日お三時には屋敷に通って。少しずつ好きになってもらう努力をしてみたいと考えている。

(殿下に忘れられない恋があったとしても、いつかは私を見てもらえるかもしれない)

 何年かかってもいいから、少しだけ自分に期待をしてみたい。そう思えるようになったのは、アドリーシャにとって小さくも大きな変化だった。

 自分を鼓舞するように小さく頷いたとき、羽振きの音が立つ。

「そんなにイルディオスが恋しいのか?」

 至極不思議そうな声が落とされたのに、頭上を振り仰いだアドリーシャは美しい小鳥を見つける。
 差し伸べた手のひらに舞い降りたのは、もちろんアロだった。

「アロ様。おはようございます」

 アロはこくりと頷いて、ねだるようにアドリーシャの指先を嘴でつついた。
 つやつやとして柔らかい羽を撫でると、アロは気持ちよさそうに目を細める。そうして、先程と同じ問いをした。

「だって、平生は毎日顔を合わせていますもの」
「あいつは今、宮殿で生き生きと兄の警護をしているぞ」
「兄君のことが大好きな方ですから」

 アロ様と同じですねとつい軽口を叩きそうになった唇を閉ざすと、アロはふんと息をついた。
 イルディオスがアドリーシャのために用意してくれていた小箱を開けると、ぱっとアロが顔を上げる。すっかりお菓子の味を覚えてしまった人ならぬ小鳥は、バターの匂いに敏感だ。

 アドリーシャは広げたハンカチの上で焼き菓子を割り、小さな一欠片を嘴の先に差し出した。
 もぐもぐと咀嚼するアロは、少し変わった鳥にしか見えない。不思議な艶めきのある羽は野にはない色をしてはいるが、一目見てその正体を弟神と見抜ける者はいないだろう。

「宮殿へお出かけになるのですか? 二日目の蝕でしょう」
「とても眠くはあるが、我が特別何かをすることはない」

 あっという間に焼き菓子を一枚平らげたアロは、嘴を上下させてお代わりを要求する。アドリーシャは焼き菓子を並べると、つい先日喉を詰まらせたアロのために水差しから果実水を注いだ。

 アロは焼き菓子を嘴の先でつんと突いて割ると、くわ、とあくびをした。

「……蝕の間は、意識が曖昧になる。兄上が戻ってくるような錯覚に襲われる」

 ぽつりとこぼされた言葉は、独り言めいていた。

 ――ヴァルダノの夏には、蝕と呼ばれる日も月も昇らない三日間がある。

 蝕の間、ヴァルダノの空はただ薄らぼんやりとした乳白色で塗りつぶされ、風もほとんど吹かない。何をしていてもうっすらとした息苦しさを感じるため、この三日間は国中が静まりかえる。

 また、乳白色の帳に覆われたヴァルダノには、鼠はおろか虫一匹でさえ入り込むことはできなかった。たびたびヴァルダノに干渉するイレンザ公国も、この三日間だけは何もできずに手をこまねいているしかない。

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