「君を食べるつもりはない」と言った運命の人に、恋をしてしまいました。

ななな

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金色の指輪 1

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 いよいよ目の前に迫った蝕に備えて、騎士たちは稽古に余念がない。
 アドリーシャが屋敷の鍛錬場に顔を出すと、夏の熱気にも負けない剣戟の昂ぶりを感じる。蝕の直前は学校も休みに入るため、今日はエティケもアドリーシャの傍を離れて鍛錬に勤しんでいた。

 アドリーシャの姿を目にして駆け寄ってきたイルディオスの肌を、汗の滴がすべり落ちる。

「今日は特別暑いですね。差し入れに来ました」
「ああ、ありがとう。皆も喜ぶ」 

 休憩だとイルディオスが声をかけると、騎士たちは駆け足で日陰を目指す。アドリーシャは侍従たちに目配せして、冷たい果実水とよく冷やした水菓子と塩分を補う飴を配らせる。
 遠巻きに礼を言ってくる騎士たちに手を振って、アドリーシャは侍従が差し出した布で頬を拭うイルディオスのために水差しから果実水を注いだ。どうぞと差し出すと、イルディオスの瞳が惑う。

「すぐに屋敷に戻ります。無理はしませんから」

 早々倒れませんよと重ねて言うと、イルディオスはそこでようやくグラスを受け取った。
 礼とともに水差しを静かに奪われて、ユニカが差し出したグラスに果実水が注がれる。手渡されたグラスを受け取って、アドリーシャはイルディオスに水菓子を勧めた。

「訓練の後、蝕の間の差配について最後の確認をさせてください。成人の宴の礼装にも一度袖を通していただきたいのですけれど」

 たった三日のことではあるが、アドリーシャは蝕の間宮殿に詰めるイルディオスから屋敷を預かることになっていた。

「わかった。確認はするが、アドリーシャになら安心して留守を任せられると思っている。もし使用人や騎士が従わなければ、気兼ねなく報告してほしい」
「ありがとうございます」

 イルディオスは、アドリーシャを見つめてしばし、黙って水菓子を咀嚼していた。
 目の前でおもむろに襟元をくつろげられたものだから、アドリーシャは慌てて顔を背ける。さしかけられた日傘の影が揺れて、ユニカの驚きを知らせた。それはそうだろう。ちらりと見えた胸板は、着痩せするのか服越しの印象よりも厚い。アドリーシャは、仕立て上がったばかりの礼装を広げて、いつもながら大きいわねと呟いたことまで思い出してしまった。

「アドリーシャ?」
「襟元を直してください」

 イルディオスが襟元を直すのに十分な時間をおいた後、アドリーシャはぎこちなく首を戻した。心臓がまだ跳ねている気がする。

 しゃらりと音を立てて目の前に差し出されたのは、金の鎖に通された印章指輪だ。
 編み合わされた木の枝が囲む印章の図案は、大樹から分かたれた一枝を表している。

「蝕の間、アドリーシャにカルディアニを預ける。決裁でも何でも、君の思うままにしてほしい」

 え……と声を漏らしたアドリーシャの眼前で、金の指輪からひとしずくの汗がしたたり落ちる。
 あ、とイルディオスが呟いて、金の指輪は大きな掌に握り込まれた。

「あとできちんと拭いてから渡すから、心配しなくて良い」

 イルディオスがいつにない早口でそう言ったものだから、アドリーシャは何も訊ねることができなかった。夏か、それとも別の何かのせいで、影の中にあるというのに首筋が熱い。
 黙っていると、イルディオスはアドリーシャが暑気あたりになってはいけないと心配しはじめた。
 急き立てられるようにして屋敷へと送り出されたアドリーシャは、待ち構えていた家令のノードの顔を見て、ゆっくりと唇を引き結ぶ。

「アドリーシャ様、領地に派遣した者から報告書が届いています」
「すぐに目を通しましょう。蝕の前に決裁を急いだほうがいいかしら」
「病虫の駆除はできたそうですが、収穫高は落ちる見込みです」
「領地の子どもはきちんと通学できているのかしら。子どもを労働力に数えるほど痛手を受けているなら、よろしくないわね」

 イルディオスの執務室まで向かう道すがら、アドリーシャはノードの言葉に耳を傾ける。
 ざっと書類に目を通して仕分けを行い、ノードに過去の資料を図書室から持ってくるよう頼んだアドリーシャは、侍女長のノード夫人が顔を出したのに微笑んだ。ノード夫人は洗練された所作で一人分のお茶を注ぐと、端的に報告する。

「ご指示通り、騎士と使用人への褒美は手配済みです」
「今年は蝕が終わってすぐに成人の宴だから、休暇もずれるわ。何かと苦労をかけるわね」
「とんでもございません。私たちにまでご配慮いただき、恐縮です。この屋敷は王族が主人ですので、蝕の時期は忙しくなると皆承知しております」

 ノード夫妻は、イルディオスに長らく仕える忠臣だ。
 家政を一任されていたノード夫人は、イルディオスがアドリーシャに家の中を任せると決めたとき、良い気持ちはしなかっただろう。だが、ノード夫人はアドリーシャが年齢不相応に躾けられた娘だとわかると、すぐに彼女を立ててくれた。もちろん、主の役に立つと判断してのことだろうが。

 ノード夫人が礼をして去ると、アドリーシャはイルディオスが戻る前に領地の諸々に下す判断を決め、投資先からの報告書を眺める。
 力を宥めることで得ている報酬と合わせると、アドリーシャの稼ぎはかなりの額に及ぶ。イルディオスが甘すぎるのも理由だが、アドリーシャには自分がそれだけの働きをしているという自負もあった。

 イルディオスは、アドリーシャが求めれば与えることを惜しまない。
 投資をしたいと伝えたときも、財産を殖やすのは悪くないと言って手ずから指南をしてくれただけでなく、まだ幼かったアドリーシャの代理人として信用のおける男を雇ってくれもした。

 アドリーシャは幾つかの投資先へ手紙を書き、成人後の納税手続きを整えるよう代理人への指示を纏める。蝋を垂らして封蝋を捺しながら、アドリーシャはふと。先程、イルディオスから差し出されようとした印章指輪のことを思い出した。

 扉が叩かれて、ノードが顔を出す。よく出来たこの家令はどうやってのことだか、手紙をしたためる頃合いを正確に把握する術を身につけているのだ。

「お手紙をお出しになりますか?」
「いつもながら、欲しいときに来てくれるわね。ちょうど封をしたばかりよ」

 アドリーシャは差し出されたトレイの上に封書を並べて、実直な家令の視線を受け止める。

「領地からの報告は、どのように対処なさるおつもりですか?」
「税の軽減については一旦留め置くけれど、補助をしようと思っているわ」
「お優しいことです」
「助けを求めても何も対処してくれないと思われるより、ずっと良いでしょう。こうしている間も、生活は続いているのよ」

 仰る通りですと顎を引いたノードが下がると、アドリーシャは息をつく。家令のノードは、しばしばこうして彼女がイルディオスにふさわしい人物たるかを試すのだ。

 次にアドリーシャのもとへ訪れたのは、イルディオスが付けてくれた数人の騎士だった。
 皆、午前中の鍛錬を終えて身支度を調えたのだろう。こざっぱりとしている。

「先日のご依頼について、報告がございます」
「随分と早かったわね」
「アドリーシャ様の投資先から得られた情報がありましたから」

 アドリーシャには、身辺警護を務めるエティケとは別に、イルディオスの騎士団から選別された騎士が付けられている。
 イルディオスは、アドリーシャが調査仕事が得意な騎士を貸してほしいと願い出たとき、深く理由を訊ねることはしなかったが、とりわけ口の堅い者を選んでくれた。エティケやエブロにも調査内容を知られる心配はないと言って。
 
 アドリーシャが投資を始めたのは、財産欲しさゆえのことではない。籠の中に干渉できないのであれば、籠の外に干渉しようと考えたからだ
 投資を始めて利益が安定してくると、アドリーシャは自分の情報網を構築して、金銭以上の利益を得るようになった。
 そうして、セレイナを通して、果実たちから依頼を請けはじめたのである。たとえば、果実が故郷に残してきた家族の消息や籠を出た後に自分が地元で受け入れられるのかを知りたいという望みを、商団や巡業役者の助けを借りて調べるというふうに。

 アドリーシャは、対価を得ることなしに依頼を請けることはしない。
 あらまほしき貴族の娘を描いた小説仕立ての教養本では、優しさは何にも勝る美徳だと書かれていたが、現実は少しと言わず違う。優しさは時に傲慢であり、施しと捉えられかねない一方で、厚意を貪り尽くされることだってある。果実たちとの関係を親愛ということばで単純にくくるには、アドリーシャは恵まれすぎていた。

 先日アドリーシャに依頼をした果実は、何も差し出せるものはないが、長年籠の中で暮らしている間に得た果実の情報と、彼女たちを食べた相手のことを纏めてきた。
 十四の頃から籠で過ごしていたという彼女は物覚えが良く、系統立てられてはいないものの、記録は詳細だった。もとは小さな村で村長夫人の側仕えとして取り立てられるはずだったと聞いた彼女の生い立ちは、しくりとアドリーシャの胸を刺した。

 イルディオスがアドリーシャを神殿に行かせたがらないのは、こうした事情を知っているからではない。もしイルディオスが果実たちの実情に詳しければ、アドリーシャは籠に通うことさえできなかっただろう。

 アドリーシャは、果実の待遇は王権で干渉できる範疇外のことなのだと推測している。
 王家と神殿の関係は表向き良好だが、その実は少々異なる。イルディオスの力を以てしても、アドリーシャを果実としての教育から解き放ててはいないことが、よく表しているように。

 思っていたよりも詳細に纏められていた情報を思い出しながら、アドリーシャは騎士たちの報告を静かに聞き、幾つか質問を挟んで思案する。
 騎士たちの報告は、先日アドリーシャに依頼をしてきた果実の望みが叶いそうもないことを示していた。それ自体はとりたてて珍しいことではない。果実が籠を出た後、家族に歓迎される例は極めて稀だ。事前に、望みが叶わなかったときには仕事を世話すると告げてある。

 報酬と新しい指示を渡して騎士を下げさせると、アドリーシャは今し方聞いた報告を書面に綴っていく。脳裡には、先程騎士の一人が感嘆したように告げた言葉がこびりついていた。

 ――アドリーシャ様は、実に慈悲深くていらっしゃいますね。果実たちをお救いになりたいのでしょう。

 対価をもらっているのだ、冷たいと誹られてもおかしくない。なのに、騎士たちはまったくだと微笑みあっていた。そうした彼らの振る舞いこそが果実たちを苛んでいる断絶であるとは知らないで。

 アドリーシャが果実たちの情報を纏めているのは、彼らが信じているように優しさからのことではない。ただ、自分のためにしているだけだ。

 果実たちは、国内を巡る祭司官たちによって人知れず籠の中へ入れられて、刻限が来れば外へと連れ出される。アドリーシャが調べた限り、果実たちの戸籍は残されたままだった。多くは、行方不明か病死の届け出が出されている。神殿は戸籍にまで干渉しているわけではなさそうだが、間違いなく果実の家族には金銭を渡すなりしているはずだ。

 これらは、神殿以外にはほとんど誰も知らないことだ。

(……誰も、籠の中のことを知らない。あそこで誰がどんな目に遭っているのかも、どんな人生を奪われてきたのかも。これは私が貴族生まれの果実で、恵まれているから知ることができたこと)

 果実たちから得た対価を書面に書き表しているとき、アドリーシャの胸の内にはさまざまな感情が曖昧に混ざり合い、大きくうねっては波打つことをくり返す。

 筆圧の強くなったペン先が紙の繊維をひっかけて、文字を途切れさせる。
 そのまま無理に書き進めていると、強く押し当て続けたペン先が割れて、書式に則った枠線にインクが跳ねた。
 手を止めたアドリーシャは、噛みしめていた唇の結びを解いて、冷めきった紅茶で喉を潤す。
 再び書面に向かうと、今度は落ち着いた筆致で文字を連ね始めた。

 吸い取り紙をあてながら出来あがった書類を二度読み返すと、アドリーシャは小さく息をつく。
 そうして書類を抽出に収めると、静かに鍵を挿した。


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