「君を食べるつもりはない」と言った運命の人に、恋をしてしまいました。

ななな

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高直な果実 2

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 セレイナがいつもの小部屋にやってきたのは、アドリーシャがそろそろお茶を淹れ直そうか迷っていたときのことだった。

「ニーナは落ち着きましたか?」
「今は眠っているわ。どうも、充分にフォエミナを焚けなかったみたい」

 セレイナは冷めたお茶がちょうどいいと喜んで、一息に飲み干した。その拍子にずれた袖口から、幾筋ものひっかき傷が覗く。ニーナの身体を取り押さえたときに出来たのだろう。アドリーシャの視線の先をたどって、セレイナは苦く笑んだ。

「私を食べた方は優しくて、紳士的だったわ。いつも、ぎりぎりまで耐えて籠を訪れるような人だった。だから、今日みたいな日は申し訳なく思いもする。私は大切にされていた果実だったから、本当の意味で彼女たちを理解できてはいないと思う」

 いつぞやに、セレイナはもう生家には戻れないから、自分を食べた男に名前を付けてもらったと言っていた。貴族の娘であってもおかしくない名前だ、確かに彼女は幸せだったのだろう。

「それは、私も同じです。いいえ、セレイナよりもずっと理解できていないでしょう」
「そうね。……私たちがフォエミナの花を焚くのは、お貴族様たちに話が通じやすくなるからよ。幻覚作用を利用して閨の行動を誘導するの。そうでないと、ニーナのように心が壊れるほど乱暴に扱われてしまうから」

 セレイナの声は淡々としていて、だからこそ果実たちの現実の有りようをまざまざと伝えた。

「一番良いのは眠っている間に焚いて暗示を掛けることだけど、籠を訪れるお貴族様たちは起きているから難しい。何か理由を付けて、焚かせてもらえないこともある。それに、フォエミナの効果は、力の大きさや性質に左右されてしまうようなの」

 セレイナは小さく笑って、フォエミナの花の焚き方を覚えている? と先日の授業の振り返りをした。アドリーシャが短く答えると、よくできましたとセレイナは頷く。

「フォエミナを焚くと、その人の本性が出ると言う果実もいるわ。反対に、ただ大人しくなると言う果実もいる。そのくらい個人差があるものだから、当代で一番お力が強いと言われる王弟殿下に使うなら、しっかり焚いたほうがいいわね」

 こまごまとした補足を終えたセレイナは、特に花は新鮮なものを持っているほうがいいと言って、昨日乾燥を終えたばかりだという小瓶をくれた。
 次いで、香炉が入っているよりも幾分大きな箱がアドリーシャの前に置かれる。

「これは、今日出す宿題ね。いまから使い方を教えるわ」

 開けてみるよう促されたアドリーシャは、中に入っているのがいったい何なのかわからずに瞬いて――それから、いくつかの絵画を思い出した。

「男性器を模した張り形よ。果実は、初めて食べられる前にこれで身体を慣らしておくの」

 ぱたりと蓋を閉ざしたアドリーシャにあらあらとセレイナは笑って、なんだかひどく安堵したような、それでいてさみしそうな表情を浮かべた。

「アドリーシャ、あなたはまるで高直こうじきなペルスィコの実みたい。知ってる? ペルスィコの実は硬いまま選果されて、市場に並ぶ頃に追熟して甘くなるの」

 セレイナは、生家が貴族の家に青果を納めていたのだと教えてくれる。
 眇めた目の先にあるのは、かつて過ごした時間に眠る思い出なのだろう。

「農家から届いたばかりの果実が熟れすぎていないか検めるのが、私の仕事だった。ほんのり甘い香りがし始めたばかりのペルスィコは、硬くてね。日の入らない清潔な場所で実の硬さを確かめるとき、触れてはいけないものに触れているような気がしたものよ。
 ……あなたは、まだ熟れていない実なのだと思う」

 セレイナの瞳には、いつも彼女が押し隠しているのだろう羨みと優しさ、それから期待の念が複雑に混じり合いながら揺れていた。

「セレイナは、どうして私に優しくしてくれるのですか? 高直な果実はずるくて、妬ましいものでしょう? 一人だけ、苦しみから逃れているのに」

 アドリーシャがまだ食べられていないと知ったら、果実たちの多くはセレイナのように見逃してはくれないだろう。イルディオスのように力ある者が皆欲求を堪えられるのであれば、果実たちはこんなに苦しんではいない。

 アドリーシャは、揺らぎそうになった心を押しとどめるように、そっと唇を噛む。

「羨ましく思わなかったと言えば嘘になるわ。でもね、あなたは私たち果実が夢に望む理想で、届かないと分かっていても見ていたくなる小さな光なの。あなたがこのまま私たちの小さな光でいられたらいいと、心から願ってる。でも、これからもそうだという確証はない。あなたの運命は、この国でもうんと偉い方だから」

 どうか、できるだけ長く幸せでいてね。
 セレイナは祈るように囁くと、箱を開けるよう促した。


 実演も交えて一通り張り形の使い方を説明すると、セレイナは休憩を告げた。
 アドリーシャは席を立ち、扉を叩く。薄く開けられた扉の外に控えるエティケは、アドリーシャが出るのを待って扉を閉めた。

「……私の満足に過ぎないと承知でおりますが、評判の焼き菓子店を知っています」
「いいわね。明日にでも一緒に買いに行きましょう」

 はいと頷いたエティケは、アドリーシャがお手洗いに向かうと言うと、いつものように付いてはこなかった。白い廊下には見渡す限り誰の影もなく、たとえあったとしても祭司官と神殿騎士は立ち入りを禁止されているから、果実しかいない。
 廊下の突き当たりにあるお手水は扉の前から充分見守れる位置だ。エティケは、充分騎士の務めを果たしている。

 ……ただ、監視役としては不十分だろう。
 アドリーシャはお手洗いの扉を閉ざすと、備品が並ぶ備え付けの戸棚の横に掌を置く。軽く押すと、白い壁が扉のように浮き上がって、隠し通路が現れる。隠し通路を足早に進んだアドリーシャは、小さな花飾りが吊るされた扉の前で足を止めた。のぞき窓の前に立つと、ひそひそと扉の向こうから囁きがこぼされる。

「アドリーシャ?」
「ええ。あまり時間はないの」

 知ってるという声が落ちて、扉が開けられる。
 アドリーシャの顔を見た果実はほっと肩から力を抜いて、金の腕輪を嵌めた手を握り込む。

「あたし、もうすぐ期限でしょ。ここを出るかどうか迷ってる。あるお貴族様が、屋敷の離れに住んでもいいって言ってくれてる。でも、それって囲われるってことじゃない。それなら、田舎に戻りたい。親が受け入れてくれるか知りたいんだ」

 果実は、対になる存在が見つかることなく二十七歳を迎えたら、籠を出ることを許される。
 当座の生活費は支給されるが、果実でいる間は無給だから財産もない。だいたいの果実は行く宛てもなく金の腕輪を嵌めるか、神殿の労働力となるかのどちらかだ。籠の暮らしに慣れた果実は、外に出ることを極端に怖がる。……そうなるように、巧妙に育てられるのだ。

「調べるわ。その代わり、何をくれるの?」

 アドリーシャの囁きに、果実は小さく喉を鳴らして。
 自分が何を差し出すのかを震える声で呟いた。
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