「君を食べるつもりはない」と言った運命の人に、恋をしてしまいました。

ななな

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高直な果実 1

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 ……遠くの方で、羽ばたきの音がした。
 ふと耳を澄ませたアドリーシャは、瞬きをした次の瞬間、自分がどこに立っているのかわからなくなる。

 雲の上を歩いているかのような心許なさを感じて身じろぎしたアドリーシャは、踏み惑った足下に優美な曲線を描く絹の靴を見つけた。
 すとんとおもりが落ちたように感覚が戻ってきて、アドリーシャは自分がいま、仕立て上がったばかりのドレスを試着している最中であったことを思い出す。膝を突いて裾を整えていた女性が顔を上げて、自信に満ちた瞳を向けてくる。

「着心地はいかがでしょうか? 踊ったときに映えるように軽やかな生地をふんだんに使用して、裾は通常よりも型紙を多く取って縫い合わせました」
「そうね。軽くて動きやすそうだわ」

 アドリーシャはイルディオスの腕の高さを思い出して手を掲げると、くるりと回ってみせた。ドレスの裾が空気を孕んで優美に波打ち、華やかに広がる。裾の翻りとそこから覗くペチコートを冷静に観察していたコルケタ夫人は、紅で綺麗に縁どられた唇で微笑んだ。

「よくお似合いでいらっしゃいます」
「ありがとう。本当にあなたに頼んで良かったと思うわ」

 コルケタ夫人は、アドリーシャの賞賛を素直に喜んだ。
 アドリーシャは求められるままに貴族令嬢としての礼を取ったり歩いてみたりしながら、コルケタ夫人が細部を観察するままに任せる。

「少しお痩せになりましたか? 詰めなくとも支障はなさそうですが……」

 念のためとコルケタ夫人の指が慎重な手つきで生地をつまみ、針を刺してゆく。
 よく磨かれた鏡面に映り込むユニカが心配そうに眉を顰めたのを見て、アドリーシャはため息を飲み込んだ。

「いざ当日になって苦しいのも困るわ」
「差し出がましいようですが、当日もお屋敷に参りましょうか?」
「忙しいのではないの? ほかにも依頼は多いのでしょう」
「お嬢様にふさわしい仕上がりで纏っていただくことが一番ですから」

 静かにコルケタ夫人を見ると、ゆるやかに波打つ黒髪を結い上げた仕立屋は、にこりと笑みを返す。姿見越しに視線が合わさったそのとき、鏡の中でユニカが大きく頷いた。

「ぜひそうしていただきましょう! 成人の宴は一度しかないのですから」

 アドリーシャは反対せず、コルケタ夫人に礼を言った。
 成人の宴までにしっかり食べていただかなくてはというユニカの言葉を聞きながら、アドリーシャはドレスを脱がせてもらう。コルケタ夫人は侍女が差し出した試着前に纏っていたものとは別のドレスに目を落とし、手早くも丁寧に着付けてくれた。

「成人の宴、楽しみですね。どのお嬢様方も、とても張り切っておいでですよ」
「そうね……貴族にとって、成人の宴は特別だもの」

 アドリーシャも、幼い頃ははやく成人の宴に参加したいと夢見ていた。
 華やかに飾られた宮殿パラグの大広間で祭司長から成人の祝福を受けてダンスを踊り、いずれ調う縁談を心待ちにするのだと。

 幼気いたいけな夢を見ていた思い出に蓋をして、アドリーシャはコルケタ夫人に礼を言う。

「装飾品はお召しにならないのですか? いささかさみしいように思います」
「そうね。今から出掛ける先には、あまり豪奢な格好では行かないようにしているの」

 アドリーシャはユニカに小切手を支度するよう告げると、馬車の支度が調ったと囁くエティケに頷いた。


 エティケを連れて籠を訪れたアドリーシャは辺りを見回して、小さな予感にそっと眉を顰める。
 いつもは取り合いになっている四阿やフォエミナの咲く庭に果実たちの姿はなく、籠の中は静まり帰っていた。

 遠くの方で甲高い叫び声がして、細く伸びた先が静けさにしんと溶ける。
 警戒したエティケが剣に手をかけたのに、アドリーシャは首を振った。

「何か起こっているようです」
「危険はないわ」

 アドリーシャが何と説明したものか迷ったとき、回廊の向こうから数人の果実が駆けてきた。果実たちは、各々薬箱や清潔な布を抱えている。

「アドリーシャ! そっか、もうそんな時間だ」
「セレイナも面会室にいるから、授業は少し後になると思う」
「ええ。怪我はひどいの?」
「ニーナはよくなるから。アドリーシャは来ちゃだめだよ、祭司官から関わらせるなってうるさく言われてる」
「……直接助けになれなくて、ごめんなさいね」
「ううん。今度、何かニーナにお貴族様御用達のお菓子でも持ってきてあげて。きっと喜ぶから」

 アドリーシャが頷くと、果実たちは急いで面会室のある方へと向かう。
 エティケの問うような視線を受けて、アドリーシャは瞼を伏せた。

「誰しも、望んで食べられているわけではないのよ。ニーナのように、心を壊してしまう娘だって珍しくない」

 果実として迎え入れられてから今まで、ニーナには対になる男がいない。
 仮初めの果実として初めての面会を迎えた彼女を食べた男は、何も知らない肌を手ひどく打擲して痛めつけた。脅えて抵抗できないでいたニーナを気に入った男は、いつも彼女を指名したという。
 珍しくないことであったから、果実たちは慰め、皆そうなのだから我慢しなさいと説き伏せた。
 誰にも助けてもらえない失望の中、ニーナは少しずつ壊れていったそうだ。ニーナは何もなければ会話もできるし笑顔にもなるが、言動は十を過ぎたばかりの娘のように無邪気なままだ。

 籠に通い始めてすぐ、アドリーシャは果実たちの身体に残る傷や痣に気づいた。どんなに丁寧に白粉をはたいても、かきむしられた傷や鬱血した痕を隠しきることは難しい。
 これまではその場に居合わせたことはなかったが、先程のように悲鳴を聞いてしまったなら、果実たちの誰かが傷ついたのだろうと推測できた。

 一方、エティケはいつ何時も傍に張り付いているのは気が張るだろうと、籠の中では距離を置いてくれている。エティケが果実たちの痛みに気づかないのも、無理はなかった。

 アドリーシャも、果実たちが置かれた環境を改善しようと思わなかったわけではない。
 けれども、果実たちは心を壊した娘には優しく接するようにとアドリーシャに頼んだ上で、くれぐれも余計なことをしないでほしいと重ねて念を押してきた。

 ――お願いだから、馬鹿なことは考えないでよね。可哀想にって思うのは勝手だけど、下手にお貴族様に干渉されると過ごしにくくなるの。わかってくれるよね? あんたは恵まれているんだから。

 以前、力ある者と良好な関係を築いていた果実が窮状を訴えたところ、その娘は一夜のうちに姿を消してしまったという。似たようなことが幾度もあったと聞かされては、アドリーシャも口を閉ざすほかはなかった。

 話を聞いたエティケは顔色を失い、唇を噛みしめる。
 アドリーシャには、エティケが受けた衝撃が理解できた。得てして、恵まれた者は虐げられる側の苦しみに気づかない。人は生まれ落ちた境遇で育つものだから、上を仰ぎ見ることはできても下を覗き見ることは怠ってしまいがちだ。

 アドリーシャだって、その例に漏れない。つい、自分だけが苦しくてもがいていると勘違いしてしまいそうになってしまう。同時に、自分の手ですべてを救えるわけではないことも、どうしようもなく理解していた。

「私は、本当に幸運な果実なのよ。せめて、そのことを忘れてはならないと思っているわ」
「……それは、アドリ様に責のあることではありません」

 エティケが絞り出したことばに、アドリーシャはそうねと頷いた。

 アドリーシャが果実として生まれ落ちたのは、アドリーシャのせいではない。
 果実たちだって、望んで食べられているわけではない。ただそのように生まれてしまったから、こうして籠の中に囚われている。

 アドリーシャは俯いたエティケの肩を撫でて、お茶を淹れにいきましょうと囁いた。

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