「君を食べるつもりはない」と言った運命の人に、恋をしてしまいました。

ななな

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漆黒よりも深い翼 1

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「アドリ、職人たちが来た。応接間に降りられるか?」
「はい。楽しみにしていました」

 イルディオスは、つと一人掛けの椅子から立ち上がったアドリーシャの姿を目にして、軽く目を見開いた。
 するりと落ちた裾には規則的な細かい襞が寄せられていて、ほっそりとした身体を柔らかく包んでいる。装飾をあてることを考えて、今日はいつもより広めに襟元が開いているドレスを選んだ。
 アドリーシャはヴァルダノ人としては薄い自分の体つきが目立つのではと思い、ドレスを仕立てるときに高い襟を選びがちだが、レースの縁から鎖骨を覗かせるのも似合うと気づかせてくれた一枚でもある。

「コルケタ夫人が挨拶代わりに贈ってくれたドレスなんです。成人の宴のドレスとは違いますが、雰囲気は合わせられると思って」

 ね? とアドリーシャがドレス選びを手伝ってくれたユニカを見ると、何やらじっとイルディオスを見つめていた彼女は慌てて頷いた。

「……いや、大きくなったなと思って。よく似合っている」

 自分でも、久し振りに顔を合わせる親戚の子どもを褒めているようだと思ったのか、イルディオスは恥じるように目を伏せた。

 応接間では、宝石商と職人がぴんと背筋を伸ばして待っていた。
 彼らはイルディオスの隣にアドリーシャの姿を見つけると、安堵したように顔を見合わせて深く腰を折る。

 長椅子に腰を下ろしたアドリーシャは、職人仕事に熟れた手によって広げられたデザイン画に目を落とす。
 アドリーシャがやんわりと瞬くと、職人が恐る恐るどこがお気に召さないのかと訊ねてくる。

「いえ、とても素敵だわ。花の意匠なのね」
「幾つか提案させていただいて、こちらに決めていただきました」
「気に入らないなら、別のものに変えても良い。成人の宴には間に合わないかもしれないが」

 ごくあっさりとしたイルディオスの言葉に、職人の顔が一瞬で強ばった。

「もう。素敵と言いました。可愛らしいけれど上品で、長く使えそうです」
「本当か? 何やら考えていたようだが」
「それは……てっきり、首飾りと耳飾りの一揃いだと思っていたものですから」

 複数枚にわたるデザイン画には、首飾りと耳飾りだけでなく、揃いの腕飾りと胸飾りに加えて、冠まで描かれている。共通した花の意匠には心惹かれるが、思っていた以上に豪奢な贈り物だ。

「一揃いと言っただろう? 節目の贈り物として父が母に贈るときは、いつもこうだった」

 こういうとき、アドリーシャはイルディオスが王族であることを痛感する。
 イルディオスが「何か取り除こうか」などと言い出しそうであったので、アドリーシャは緊張した面持ちでこちらを伺っていた職人と宝石商を安心させるように微笑んだ。

「石を見せてくださる?」

 アドリーシャの気が変わらないうちにと思ったのだろう、職人が急いで天鵞絨張りの箱を取り出し、宝石商が控えさせていた下男に石を持ってくるよう告げる。

 職人が示して見せた装飾品は、試作品だという。
 アドリーシャはトレイの上に置かれた首飾りを手に取って、肌にあててみる。ユニカが示した鏡の中を覗き込んだアドリーシャは、唇を緩めた。
 繊細な彫りで表現された花が交互に石を包むように作られた大小の台座は白に近い金をしていて、仮に嵌められていた大ぶりの水晶と、それを囲む小さな真珠が可憐だ。

「アドリ、こっちを向いて見せてくれ」

 はいと隣に座るイルディオスのほうを向いたアドリーシャは、途端に落ち着かない気持ちになってしまう。イルディオスの瞳が、柔らかくこちらを見つめている。まっすぐに差し伸べられた視線は優しく肌の上をたどり、首飾りに落ちる。何度かアドリーシャの顔と首飾りとの間で視線を動かしたイルディオスは、蕾がほころぶように微笑んだ。

「……ああ、よく似合っている。実際に見るまでは不安だったが、安心した」

 じわり、首の後ろが熱を持つのがわかった。
 どうしよう。アドリーシャは瞬いて、目の奥に滲んだ熱さを懸命に押さえ込もうとする。どうか、頬まで熱が上ってきませんようにと、祈るように願った。

 そっと首飾りをトレイの上に戻しながら、アドリーシャは浮かべた笑みが崩れてしまわないよう意識する。イルディオスから見えないように、流した髪をさりげなく前にかきやった。

 そうして、ずらりと並べられた石を一生懸命見つめて、気になったものを幾つか並べてもらう。早く熱が醒めますように、と呪文のように唱えながら。


 すっかりご機嫌になった宝石商と職人が帰った後、アドリーシャは踊りの授業を受けた。
 翌月に迫った成人の宴で新しく社交界に仲間入りする子女が披露するダンスは、昔から二種類と決まっている。成人を迎えた子女が集団で踊る軽快な曲と、パートナー同士で踊る優美な曲は毎年同じ物が使われる習いだ。

 集団での踊りはリズムが速く、弾むような音に合わせてターンをしては男女を入れ替える。動き自体は単調だが、顔見せの意味があるこの踊りは大広間の端から端まで踊り続けなければならない。
 もうよろしいでしょうと合格をもらえて、アドリーシャはほっとした。いつも練習相手を引き受けてくれるエティケが微笑んで、休憩しましょうと告げる。

 果実水を飲んでしばし休息したアドリーシャは、教師が連れてきた音楽家が鍵盤の上で指を慣らし始めたのに立ち上がる。本音を言えばもう少し休憩したかったが、そうもいかない。
 イルディオスが手配してくれた踊りの教師は、社交界でも引く手数だ。貴族の子女にとって成人の宴は将来の伴侶探しの始まりを告げる場でもあるから、この後も授業の予定があると聞いていた。

「お嬢様は、成人の宴に王弟殿下と参加なさるのですよね? お二人で合わせたことはおありですか?」

 教師の質問に、アドリーシャは自分と同じくすっかり忘れていたという顔のエティケと見つめあう。

「失念していました。私は騎士としては平均的な身長ですが、殿下はもっと上背がおありですし、体つきも異なります」
「やっぱり、一度は踊っておいたほうが良いわよね?」

 エティケが顎を引いたそのとき、ちょうど扉が叩かれた。顔を出したのは、イルディオスである。

「殿下! ちょうど良いところに。お声がけしようと思っていたところでした」
「何か、お急ぎのご用ですか?」

 ゆったりとした足取りで歩いてきたイルディオスは、いいやと首を振った。

「この間、兄上が成人の宴の話をしたときに、アドリと一度踊りの練習をしておいたほうがいいと思っていた。実は、数年……? いや、かなりの間踊っていないから、忘れていると思う」

 首をひねったイルディオスは、十年と言いかけて流石にまずいと思ったのか、曖昧に濁した。
 思い起こせば、アドリーシャがこの屋敷に身を寄せてからというものの、イルディオスが夜会のために外出したのは数えるほどである。

 イルディオスは教師に挨拶して、授業の進捗を訊ねた。教師はちょうど本番の話をしていたところだと言って、アドリーシャは真面目に練習に励んでいると答える。イルディオスは教師の前で簡単にステップのおさらいをすると、こちらへ歩いてきた。

 目の前に手のひらが差し出された瞬間、淡い笑みを浮かべたイルディオスの背に、目映く飾り立てられた大広間が広がったような錯覚に襲われて、アドリーシャは息を止める。

 身体に染みついた教育が手を重ね合わせ、向かい合った人の顔を見つめさせる。ゆるやかに奏でられる旋律を遠く聞きながら、アドリーシャは背に触れたあたたかい手の感触を意識してしまう。

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