「君を食べるつもりはない」と言った運命の人に、恋をしてしまいました。

ななな

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湖畔のひととき 1

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 イルディオスの屋敷を包む森の中には、小さな湖がある。
 淡く乳白色がかった碧が美しい湖には木々が映り込み、差し込む陽射しが水面に澄んだ輝きを連ねる。湖のほとりは緑の匂いが濃く、息を深く吸うとそれだけで涼やかさが喉を通って心地がいい。

 湖を囲うように咲きこぼれるのは、蝶が羽を広げたような小さな花弁が縦に連なる花だ。
 紫と薄紅、白色の花穂を持つ植物は背が低く、風に吹かれてさやさやと揺れる度に濃淡の異なる色彩が綾なして、目を楽しませる。
 静けさに包まれた湖は美しく、人気ひとけがない。王弟の所有する敷地でなかったら、さぞかし王都で注目を集めただろう。

 ボンネットの縁を飾るフリルの影で目を細めたアドリーシャは、ふと視線を感じた。
 愛馬を労るように撫でながら、イルディオスがこちらを見ている。木々の間から射す光に照らされて、銀の髪が淡く輝きを帯びているのがきれいだった。
 この一瞬を、色褪せない絵画の中に閉じ込めておけたらいいのに。そんな他愛のないことを思って、アドリーシャは手綱を握る手に力を込めた。

 イルディオスは周囲を見回して、いつもならアドリーシャの傍に付いているはずのエティケが虫除けの香を焚いており、騎士たちが周辺に目を配り、あるいは敷物を広げているのに不思議そうな顔をする。そうしてするりと馬上から降りると、駆け寄ってきたエブロに手綱を預けて、アドリーシャへと手を差し出した。

 アドリーシャは、イルディオスに手を預けると馬を下りた。編み上げ靴でさくりと草を踏めば、土の感触が柔らかく足裏を押し返す。
 いまこの瞬間ほど、ボンネットを被っていて良かったと思ったことはない。礼儀正しく腰を支えてくれていたイルディオスの手が離されると、アドリーシャはドレスの裾を整える。

「ゆっくり走らせたつもりだったが、頬が少し赤いな」
「……すぐに落ち着きます」

 ここまで乗せてきてくれた白馬を撫でてねぎらうと、鼻先をすり寄せられる。こそばゆさに、アドリーシャはくすくすと笑った。
 つんつんと鼻先でつつかれたと思ったら、白馬がぴくりと身を引いた。手綱を握るイルディオスが白馬を促して、エブロの方へと向かわせる。何か面白いことでもあったのか、エブロはにやにやと笑って二頭の馬を引き連れていった。

「気持ちいいですね。ここはいつ来ても涼やかです」
「それは良かった。去年の夏は随分ぐったりしていただろう。ここならアドリにも負担にならないと思って」

 ペルスィコの実といい、イルディオスの中で去年の夏は余程印象深かったらしい。
 アドリーシャは眉を下げて、そんなにか弱くありませんと首を振る。イルディオスは、本気で言っているのだろうか? とでも言いたげな顔をした。
 
 書類仕事を早めに済ませたが、もうお昼時だ。馬を走らせたこともあって、少食のアドリーシャもいつもよりお腹が空いていた。
 イルディオスの後をついて向かった木陰は、居心地良く過ごせるよう調えられている。
 敷物の上には薄型のクッションが置かれて、トランク型のバスケットを広げたエティケが、皿やカトラリーを並べている。エティケはアドリーシャが腰を下ろすと、日除けの幕の角度を調整した。

 イルディオスはグラスと輪切りにした果物と香草が漬けられた果実水が詰められた瓶を取り出して、アドリーシャの分を注いでくれる。

 口の中で甘い実を転がしたアドリーシャは、薄切りの肉とチーズ、野菜を挟んだバゲットを食べやすいように切ったエティケの腰元を見て唇をほころばせた。そこに佩かれた剣の鞘には、贈ったばかりの柄飾りが揺れている。

「今日から付けさせていただいています。随分自慢しましたので、エブロには呆れられましたが」
「そうなの? 我ながら、エティケに似合うものになったと思うわ」

 エティケのよく鍛えられた手のひらが、絹糸を固く編み込んだ柄飾りをすくい取る。
 細く編んだ絹糸を更に編み込んだ柄飾りは、規則的に組み合わされた臙脂と淡い茶が目を惹く。結び目を留める玉を白にしたことで、絹糸の色が一層きりりと引き立っていた。ほんの少し長めに取った房は、きっとエティケが剣を収めるときに優美に揺れることだろう。

「アドリ様は手先が器用でいらっしゃいますね。異なる編み方が組み合わされていて凝っていますし、とても気に入りました」

 良かったわと微笑んで、アドリーシャはバゲットを一口食べる。燻製にした鶏肉と野菜に染みたソースとよく合うチーズの組み合わせが、食欲をそそる味付けだ。

 エティケはバゲットに齧り付いたまま自分を見つめる主の目をやんわりと受け止めて流すと、優れた体幹を窺わせるしなやかさで立ち上がった。

「他の者たちが船を浮かべようとしていますので、食事がてら見て参ります。先頃手入れしたばかりですので、お二人にもお乗りいただけるかと」
「エティケはここで一緒に食べないの?」
「はい。ゆっくりお過ごしください」

 エティケが去ると途端に静けさが押し寄せて、葉擦れの音が大きくなった気がした。
 ふたりがいるのは木陰で、騎士たちは少し離れたところで食事をしている。時折警護の目が向けられるのを感じるが、声を潜めずとも話の内容が伝わらない距離だ。漏れ聞こえてくる騎士たちの会話も、仲が良さそうだということしかわからない。

「皆、楽しそうですね」
「湖に行くと言ったら、我先にと志願してきたくらいだからな。……エティケに柄飾りをあげたんだな」
「はい。籠で柄飾りを作ることになったと、お聞き及びでしたでしょう?」
「聞いてはいたが、実際に見たのは今日が初めてだ」

 先程の会話を聞いていたはずのイルディオスが柄飾りのことを訊ねるものだから、アドリーシャは困惑する。そうして、ふと。いまこうしてふたりでいるのに、イルディオスがかつて付けていた柄飾りのことを思い出すのは嫌だと考えてしまった。
 急いた心が、いやな考えを追い出すように唇を開かせる。

「今日は、どうして湖に出かけようと思われたのですか?」

 何かを言いさしたイルディオスは一度口を閉じ、そうだなと呟く。

「このところ、アドリとゆっくり過ごせていなかっただろう。春は慌ただしかったしな」

 春に国境で行われたイレンザ公国との会談に際して、イルディオスはユーゴウスの不在を守るために宮殿パラグに詰めることとなった。
 ユーゴウスから暫時王権の一部を預かったイルディオスは、グレイシアを助けて政務を行う傍ら、王都の警護を指揮していた。お三時に一度戻ってくる以外はほとんど宮殿に泊まり込みだったものだから、アドリーシャはイルディオスが倒れるのではないかと心配でならなかった。

「茶会もあるし、アドリが好きな店でここからここまで全部くれ、というやつをしても良かったんだが、あまり必要そうでなかったから」

 さらりと言われた言葉に、アドリーシャはぱちりと瞬いた。

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