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少しだけいつもと違う朝 1

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 カーテンが開けられるささやかな音が立ったのに、意識が浮かび上がる。
 静かに寝室の中を行き来する気配は一度遠ざかり、洗顔用の水を支度する音が聞こえた。
 ユニカの足取りは軽やかで、乳母子めのとごのようにわざと音を立てたり、無理矢理上掛けを剥ぎ取ったりすることもない。

 ゆっくりと身を起こしたアドリーシャの気配を待って、天蓋が開かれた。
 ユニカはアドリーシャより五つばかり上の娘だが、亡き母の代からイルディオスに仕えていて、そのことを誇りに思っている彼女の仕事ぶりは実にそつがない。屋敷の主人は細かいことに頓着しないが、家令のノードと侍女長のノード夫人は使用人をよく統制していた。

「おはよう、ユニカ」
「おはようございます、アドリ様。今日も天気が良いですよ」

 小麦色の髪をきちりと纏めたユニカは歌うようにそう言って、洗顔用のボウルを丁寧に置いた。香りづけされた水は程よく冷たく、爽やかに目覚めを促してくれる。
 ユニカのよく手入れされた指先は丁寧に肌と唇を保湿し終えると櫛を取り、今日もおきれいですよと優しく髪を梳る。

 ユニカが衝立を広げ終えたのを見計らったかのように、扉が叩かれた。
 後でまた参りますと囁いたユニカと入れ違いに室内に足を踏み入れたのは、屋敷で医師を務めるモニークだ。縁の細い眼鏡をかけた彼女は、ゆったりとした袖のお仕着せに身を包んでいる。

 深く一礼したモニークに頷き、アドリーシャは寝衣の紐を解いた。

「昨夜は少し寝苦しかったですね。お身体はいかがですか?」
「大丈夫よ。私はあまり屋敷の外に出ないもの」
「つい水菓子に手が伸びる季節ですが、あまりお身体を冷やし過ぎないようにしてくださいね」

 週に一度、アドリーシャはモニークの診察を受ける。
 眼鏡の下に覗く瞳は真剣で、脈拍を測る指は優しい。もう良いですよと言われて、アドリーシャは寝衣の前を閉じた。

「月経が遅れているとユニカが心配していましたが、お気になさいませんように。多少前後するものですから」

 ごく淡々と告げたモニークに、アドリーシャもそうねと静かに返す。
 地下室で過ごしていた間の不摂生が原因で、この屋敷に来てからしばらく経っても、アドリーシャの身体に月が満ちることはなかった。再びアドリーシャの身体に月のものが訪れるようになったとき、ノード夫人とユニカはとても喜んだものだった。

「モニーク。あなたに頼みたいことがあるの」

 アドリーシャは寝台を降りると、胸元の鎖を指でたぐり寄せて取り出した鍵で、飾り棚の抽出を開けた。絨毯の上に膝をついたモニークを見つめると、淡い暗がりに濡れた彼女は静かに顎を引く。

「何なりと」

 籠でセレイナから渡された小瓶を箱ごとさし出すと、モニークは纏いつくような甘い香りに目を瞬かせて、慎重な手つきで受け取った。理知的な目は、つぶさにフォエミナの花弁やしべを観察する。

「見たことのない花です。小振りですが、花弁が密な花ですね」
「籠の中にだけ咲く、木立性こだちせいの花よ。果実たちは定期的に花を摘んで、これを作るの。剪定せずに置いておくと種を作るから、手間がかからないのですって。蜜溜まりから花蜜を採取するのも、果実たちの仕事なの」
「お茶と蜜でしょうか? この大きさの花だと、一時に採取できる蜜には限りがありますから、ほかにも混ざっていそうですね」
「お茶には、継続して飲むことで月のものを止める作用があるみたい。気になるのは、蜜と花を焚いたときに起こる幻覚と催淫作用よ。依存性がないか、どの程度継続的な効果があるのかを知りたいの。調べてくれる?」

 今はこれだけしか渡せないと告げたアドリーシャに、モニークは十分だと頷いた。

「王弟殿下にも内密に行う調べ物ですね?」
「ええ。厳重に管理して、誰の目にも触れないように。少し口に含む程度では問題ないと聞いているけれど、注意して頂戴」

 一度唇を閉ざして、アドリーシャは訊ねた。

「殿下のお身体はどう? 私には元気としか仰らないものだから」
「まったくもって健康でいらっしゃいます。夏のアドリ様のほうが心配なくらい、今日もお元気でいらっしゃいますよ」

 そうとアドリーシャは呟いた。五年前、モニークはイルディオスを診察して寝起きできているのが不思議なほどだと青ざめていたから、嘘ではないだろう。
 モニークからイルディオスの体調について聞くたびに、アドリーシャの胸には安堵と、果実の役目を果たしていないことへの後ろめたさが入り交じる。

 果実の発見時期が遅かった力ある者は、概ね短命傾向にある。イルディオスはアドリーシャをただしく食べていないにも関わらず、医師が身体的には問題ないと言うまでに持ち直した。
 ほかの力ある者とイルディオスの違いは、いったい何なのだろう?

 答えのない問いに蓋をして、アドリーシャは微笑んだ。

「あなたには感謝しているのよ。いつもありがとう」

 アドリーシャとイルディオスは、力について検証するにあたって、モニークに協力を仰いでいる。
 モニークは神力を持たないが、医師としての客観的な意見をもとに、検証する時間や接触の方法を提案するなどして、ふたりが果実としての食事を挟むことなく暮らしていける道を一緒に探ってくれていた。

「五年前、アドリ様は私に手を差し伸べてくださいました」
「屋敷の医師が変わらずあなたの父親のままであったなら、こんな頼みごとはできなかったわね」

 そうでしょうともと頷いたモニークは、眼鏡の奥の瞳を細める。
 アドリーシャは、かつてその瞳に踏みにじられることに慣れた者特有の翳りが滲んでいたことを思い出す。

 五年前、イルディオスの屋敷に引き取られたアドリーシャは、屋敷の主治医の目にありありと浮かんだ侮蔑と嘲りを認めて、診察を拒んだ。

 幼い貴族の娘を診るということで形式的に伴われていたモニークは、乱暴な足取りで寝室を出て行った父をおろおろと見送って、縋るようにユニカを見る。
 アドリーシャを尊重するよう言いつけられていたユニカはため息して、曖昧に微笑んだ。

「もともと宮殿勤めをされていたせいか、矜持の高い方で……男性にはああではないのです。ご不快でしたよね、申し訳ございません」

 我が儘と見做さなかったユニカの反応や、薬草茶を飲んではと遠慮がちに提案してくれるモニークのいたたまれなさそうな素振りから、日頃の様子が忍ばれた。

 ユニカによれば、モニークは王立大学で長らく研究に身を投じている才媛だという。父の影に隠れているのがもったいないほどの腕の持ち主だとも。
 確かに、国中から呼び寄せられた教師から学んだアドリーシャから見ても、モニークが薬草を扱う手つきは丁寧で、薬草茶の選び方も旧い医学に基づいてはいなかった。

 翌日のアドリーシャは、ユニカの制止を振り切って室内に足を踏み入れたモニークの父を見て、思いのほか早く決着が付きそうだと考えた。
 イルディオスの手前、アドリーシャを無碍にできないと考えたのだろう。隠しきれない苛立ちと侮りを滲ませながら下手に出る医師は、アドリーシャを宥め賺そうと必死だった。

 アドリーシャは俯き、脅えた瞳で医師を見た。
 下手に出てもなお自分を受け入れようとしない娘に腹を据えかねた医師の苛立ちが頂点に達しようとしたとき、開けられたままだった扉の向こうに、エティケを連れて戻ってきたユニカの姿が見えた。

 アドリーシャは、煮え切らない態度で苛立ちをかき立てるだけかき立てたあと、ただ震えて囁いただけだ。こんな人に身体を見られるのは、こわい。
 かっとなったモニークの父は、あまりにもやすやすとアドリーシャの手のひらの上で転がってくれた。卑しい果実のくせにと声を荒げて腕を振りかぶったモニークの父が、眉を立てたエティケに制止されて青ざめるところなんて、劇を眺めているかのようだった。

 あっという間にエティケとユニカに引きずり出された父を呆然と見送ったモニークは、俯いていたはずのアドリーシャが顔を上げて笑んだのに絶句した。

「……わざと、父を怒らせたのですね」
「ああいう人はね、自分よりも下と見做した存在に軽んじられることが何より屈辱なの。少しでも抵抗しようとすると、上から押さえつけようとする」

 身に覚えがあったのだろう、唇を噛んだモニークにアドリーシャは囁いた。

「王弟殿下はあなたの父を解雇するでしょう。私が進言すれば、あなたを代わりに雇うのではないかしら。騎士が守るこの屋敷なら、あなたの安全も保たれる。誰に脅えて影に潜んでいることもない。モニーク、あなたはどうしたい?」

 ……思い出から醒めたアドリーシャの前には、父に見切りを付けるよう求められて逡巡していた娘はもういない。ただ、静けさの中に勁さを感じさせる瞳でこちらを見返す医師がいる。

「手を差し伸べてくださったときから、私の思いは変わっていません。アドリ様のお望みとあらば、喜んで秘密を守りましょう」

 アドリーシャは微笑んで、請われるままに差し出した手の甲にモニークのくちづけを受けた。頼りにしているわと囁くと、モニークははにかんで頷く。
 さっそく自室で分析すると請け負ったモニークを見送って、アドリーシャは身支度を調えるためにユニカを呼んだ。


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