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触れがたいひと 2

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 エティケが下がった後、アドリーシャがイルディオスの力を宥めるために部屋を訪れた。

 淑やかにドレスの裾を揺らしたアドリーシャが隣に腰を下ろしたとき、イルディオスは緊張が肌の上に現れないように意識しなくてはならなかった。

 アドリーシャが神殿に通った日は、いつもそうだ。
 ぐらりと脳を直接揺さぶるような強い目眩に襲われた、そう思ったら、白い手がイルディオスに触れていた。

 鼻先でふわりと香るのは、ほかに類を見ない独特な甘さだ。神殿から戻ったアドリーシャからは、いつもこの香りがする。
 砂糖とも蜂蜜とも違う濃密な香りは、イルディオスにいつかの夏の夜を思い出させ、苦い記憶と肌の下に燻る欲情をかき立てた。身の内に瞬く光が早く彼女を喰らいたいとばかりに蠢いて、さあとイルディオスを誘惑してくる。早く彼女を食べてしまえばいい、と。

(嫌だ。……絶対に、耐えてみせる)

 優しく重ね合わされた手のひらの柔さや隣り合うあたたかな身体を感じて、下腹に熱が灯りそうになる。
 けれども、イルディオスにとって、苦しみを紛らわせて平静を装うのは、息を吸うように慣れ親しんだことだ。湧き起こる衝動を懸命に堪えようと、口を閉ざしたまま古語で書かれた剣の指南書をくり返しそらんじる。

 奥歯をゆっくりと噛み合わせたとき、アドリーシャが小さく息をついた。

「今日は、少し疲れました」

 イルディオスは、ひそかに驚いた。いつも慎みの下に深く心の内を隠している彼女が、内心を吐露するのは珍しい。

「……神殿で何かあったのか?」
「特別なことは何もないのですけれど。夏のせいかもしれません」

 アドリーシャは首を振り、祭司長がふたりのことを気にしているようだと教えてくれる。
 イルディオスがファブロと最後に顔を合わせたのは先週だが、宮殿で通り過ぎざまに挨拶をしたほかは特にやりとりもなかった。

「祭司長の動向には俺も注意を払っておく。今日は早く切り上げよう。領地の仕事もしなくていい」
「ありがとうございます。でも、蝕が近いですから。いつも通りお力を宥めたほうがいいと思います」

 眠そうにしているアドリーシャは、平生より幼く見える。こういうとき、イルディオスは彼女が大人びていても自分より十二も年下の娘であることを改めて意識する。
 うとうとしはじめたアドリーシャは、しばらく眠気に耐えようとしていたが、ややあって、イルディオスに寄りかかるようにして寝息を立てはじめた。
 翼がアドリーシャを気遣って羽振くのをやめたのに、イルディオスは唇を緩める。

 ……アドリーシャと出会うまで、イルディオスは本当の意味で恋を知らなかった。

 兄の婚約者として出会ったグレイシアはいるだけでその場を明るく照らすひとで、イルディオスは小さな恋心を抱いた。
 とはいえ、弟神のように激しい気持ちを抱いたことは一度もない。兄と色違いの柄飾りをもらったときは、おこぼれに与れる兄弟で良かったと思ったくらいなのだ。
 そもそも、兄のように強い愛情は抱いていなかったし、兄に敵うはずもない。それに、グレイシアがずっと兄だけを見つめている人だから、イルディオスは好感を持ったのだ。

 イルディオスの初恋は幼い頃に読み聞かされた物語のように穏やかで、恋をしているという理解以上の行動を催させるものではなかった。

 縁談は引きも切らないが、兄のように愛せるひとがいないのだから、イルディオスが結婚しないのは当然のことだった。
 アドリーシャと初めて会ったときに結婚するつもりはないと告げたのも、本心からのことだった。よもや、アドリーシャに恋をしてしまうとは知らないで。

 今ならば、イルディオスにも兄が妻へと注ぐ愛情の片鱗が理解できる。

 眠るアドリーシャの身体を支えて、そっと長椅子の背にもたせかける。
 こうして眠る姿を見ている、ただそれだけで幸せな気持ちがするのだ。グレイシアのことを好きだと思っていた頃には感じたことのないそれは、柔らかくてどこか切ない色をしている。

 四年前、グレイシアからもらった柄飾りを外したのも、アドリーシャへの想いを自覚しはじめた以上、付けておくべきではないと感じたからだ。年齢不相応に大人びているとはいえ、まだ十四の彼女に気持ちを悟られてしまうことを恐れて、経年で傷んだからだと説明したとき、自分の感情に後ろめたさを覚えたことをよく覚えている。

 触れあったままの手のひらに目を落として、イルディオスはこみ上げそうになった欲求を噛み殺す。
 何も考えることなく彼女に触れられる男だったら、もう少し違っていたのだろうか。

 イルディオスは王弟で、アドリーシャは伯爵令嬢だ。さらには後見人と被後見人で、力ある者と果実で、成年と未成年でもある。年だって、随分離れている。
 兄を筆頭に誰もが簡単に背中を押してくれようとするが、生家とも疎遠なアドリーシャにイルディオスが想いを告げるのは、ともすれば強制になってしまう。

 相続人の書類を支度したのは、単にイルディオスがいくじなしで、成人の宴の前にアドリーシャと何らかの約束が欲しかったからだ。情けないことに、婚約を申し入れる勇気がなかった。

 アドリーシャはただでさえ弁えの強い性質で、好きな食べ物さえ黙っているような娘なのだ。
 貴族の娘としてよく躾けられたアドリーシャは、イルディオスが想いを告げたなら、きっと色々なことを考えて、受け入れるのが一番いいと判断するだろう。

 ……でも、イルディオスはそれがどうしても嫌だった。

(成人の宴が終わったら、一歩踏み出しても許されるだろうか)

 少なくとも後見人ではなくなるし、アドリーシャも未成年ではなくなる。
 少しだけ関係の重さが変わったなら、新しい関係を作っていけるのではないだろうか。

 そこまで考えたとき、アドリーシャが身じろぎした。

 見つめた先で、長い金の睫毛が白い肌に繊細な影を落としている。うっすらと白粉をはたいた頬は柔らかな線を描いていて、熟れはじめた実のようにじわりと血色が滲んでいるのが綺麗だった。すんなりと通った細い鼻筋の下で柔らかにつぼんだ唇は、花の色をしている。

 ――この小さな顔を手のひらで包んで唇にくちづけられたなら、どんなに幸せな気持ちがすることだろう。

 思わず差し伸べた手のひらが頬を包む一瞬前、イルディオスは我に返った。
 はっと息を呑んだそのとき、アドリーシャの身体が揺れて、硬直した手のひらに頬が触れる。そのまろやかな感触に、イルディオスは脅えた。

 細心の注意を払って手を離したイルディオスは、うっすらと汗をかいていた。

 こぼれる髪の一筋さえ触れがたいと思うのに、唇を盗むだなんて振る舞いができるはずもない。
 それに、眠っている人にくちづけるだなんて、せめて想いが通じていなければ許されないことだ。

 何も知らないアドリーシャは、静かに寝息を立てている。
 柔い肌の名残をたどるように手を握り込んで、しばし。イルディオスは、ゆっくりと息を吐いて、エティケを呼びに席を立った。
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