「君を食べるつもりはない」と言った運命の人に、恋をしてしまいました。

ななな

文字の大きさ
上 下
23 / 40

触れがたいひと 1

しおりを挟む
 イルディオスの朝は早い。
 うまく眠れないでいた時間が長すぎたせいで、アドリーシャが力を宥めてくれるようになった今も、夜が明けきらぬうちに目が覚めてしまうのだ。

 朝の鍛錬と食事を終えて宮殿パラグへ向かうと、いつものように兄が執務室を訪ねてきた。

「おはよう、イル。今日は少し相談があってね」
「おはようございます。俺にできることでしたら何でもしましょう」

 ユーゴウスはうんと微笑み、湯気の立つ珈琲を置いた侍従を下げさせる。
 勧められるままに口をつけた珈琲の濃さに、イルディオスは瞬いた。向かいに座したユーゴウスの目元には、濃い影が刻まれている。

「あまり眠れていないのですね」
「この時期はどうしてもね。おまえはきちんと眠れているようで安心した」

 ユーゴウスは、イルディオスに果実が見つかったことを誰より喜んだ人だ。
 イルディオスがアドリーシャを食べないと決めたと聞いたときには呆れていたが、死なないための手立てを見つけなければそれなりの対処をすると忠告しつつも、結局は好きなようにすればいいと言ってくれた。

「この五年で、随分元気になったな。おまえの表情が豊かになって、兄として喜んでいるんだ」
「はい。アドリーシャが良くしてくれているお陰です」
「まあ、相続人にはなってくれないようだけど。せっかく私が署名してあげたというのに、なかなか書類が上がってこないとはな」
「……成人の宴の後に、改めて話をします」

 ユーゴウスは片方の眉を跳ね上げて、いつも柔和な笑みを浮かべている唇を歪める。

「私の話も、成人の宴の後のことだ。イレンザと会談を行うと伝えていただろう? 正式に日取りが決まったから、同席してほしい。おまえがいてくれるだけで、イレンザの動きを抑止できる」

 国境を挟んだ隣に位置するイレンザ公国は、かつて権勢を誇った大国が分裂して独立した国の一つである。旨みのある土地を確保できなかったために、武力を磨くことで領土を押し広げてきたイレンザの方針は、イルディオスたちの祖父の代に起こった戦で一旦収まりを見せていたはずだった。
 しかし、イレンザはこの数年で、先の戦で手に入れられなかったヴァルダノの鉱山を再びねらい始めたのである。

「もちろんです。使節団が宮殿に滞在する間は、俺の騎士団から出す警護も増やしましょう」
「ありがとう。イレンザ公は本当に強欲だからな。老いもあるのだろうが。かと言って、公子が無欲であるかと言われれば違うんだが」

 二国間の膠着状態が続いているのは、老齢のイレンザ公と公子の間で意見が割れており、イレンザ国内でも揉めているせいでもある。

 長引く交渉に業を煮やしているのはイレンザだけではない。早々に戦を起こして決着をつけてしまおうという意見が度々出るが、長期的な戦になれば武力に秀でたイレンザに分が上がるという理由から、ユーゴウスは平和的解決を望む姿勢を崩さなかった。

 イルディオスもまた、兄の意見を支持していた。
 大軍をなぎ倒すといった広範囲の威力がないのも理由だが、何よりアドリーシャに負担を強いてしまう。戦となれば、イルディオスは出征を免れない。王族の義務として力を振るうよう求める人々は、当然のようにアドリーシャを軍に帯同させろと言うだろう。

「公子と取引できそうですか?」
「公子は公子で、代替わりの支援に加えて鉱山の採掘権まで欲しがる。イレンザの欲深さにはまったく恐れ入るな」

 ユーゴウスは、会談の議題となる鉱山資源の流通や交易についてイルディオスに相談すると、朝食を食べに行くと言って立ちあがる。妻を愛しすぎているユーゴウスは、家族と一緒に食事を取ることを欠かさない。

「本当に、成人の宴の前に婚約を申し入れなくていいのか? アドリーシャだって、相続人は拒んでも、婚約者なら頷いてくれるかもしれないだろう」
「それは……後見人が被後見人に求婚を申し入れるのは、ともすれば脅迫に等しいでしょう」

 ユーゴウスは微かに嘆息すると、しようのなさそうな目で弟を見た。
 イルディオスが素直に肯えないことにぶつかる度に、ユーゴウスはいつもそんな表情をする。
 ユーゴウスは弟の頭を乱暴にかき乱すと、そろそろ行くと言って踵を返した。イルディオスはくしゃくしゃになった髪を指でつまむと、小さくため息をついた。


 朝の議会を終えたイルディオスは、そのまま訓練場に向かおうとしたところを宰相に呼び止められた。
 宰相の執務室に招かれてから、しばし経ち。扉の外で控えていたエブロは、イルディオスの顔をちらりと伺って目を瞬かせる。気心知れたこの乳兄弟は、表情が薄くて何を考えているのかわからないと評判のイルディオスの機嫌にも敏い。

 エブロが口を開いたのは、人気のない廊下にさしかかったときのことだった。

「何をそう苛立ってるんです?」
「イレンザとの見合いを提案された。あちらの姫を迎え入れれば、戦も防げるのではないかとな」
「あちらの姫って、まだ五つかそこらじゃないですか」

 なるほどねえ、とエブロは唇を歪めてみせる。

 イレンザの姫をウィルヘルムの伴侶にすれば、内政干渉の余地を与えてしまう。イルディオスならば王位継承権を放棄している上に、年齢差があるからイレンザの血を引く子どもは生まれにくい。果実がいるから欲求不満にもならないだろうと暗に匂わせた宰相は、イルディオスが即座に断ると、陛下にも反対されましたよといけしゃあしゃあと宣った。

 そうして、宰相は、イルディオスが一向に果実と婚約しようとしないのを見て取った貴族たちの中に、王弟に娘を売り込もうとする動きがあると忠告してきたのである。

「さっさとアドリ様と婚約すればいいじゃないですか。縁談を断る手間もなくなるでしょうに」
「何度も言っているだろう。アドリを物扱いするなと」

 イルディオスが睨んだ先で、けれどもエブロは悠然と笑う。

「エティケは随分アドリ様に入れ込んでますけど、俺は違います」
「早急に改めろ。俺の大切なものを守れてはじめて、お前は俺の騎士たりえるのだから」

 廊下の角から届く人の気配を悟って、話はそこで途切れた。
 わかってますよと言うようにエブロが肩を竦めたので、イルディオスもそれ以上は追及しなかった。


 イルディオスが屋敷に戻って書類を見ていると、肌の下で翼がアドリーシャの帰宅を悟ってざわめきだした。窓のほうを見遣って視線を戻すと、書類にインク溜まりができている。丸めた書類をくず入れに放り込んで書類を書き直していると、扉が叩かれた。

「殿下、本日の報告をしに参りました」

 一礼したエティケは、神殿でのアドリーシャの様子を語りはじめる。

 こうしていつ何時も騎士を付けるのは過保護に過ぎるのだろうし、アドリーシャにとっても窮屈なことだろう。監視を付けていることに後ろめたさを覚えないわけではなかったが、イルディオスはこうしてアドリーシャの様子を窺い知るのが好きだった。

 エティケは、果実たちと楽しそうにお喋りを楽しみながら柄飾りを編んでいたアドリーシャの様子を微笑ましそうに語り終えると、ちらりとイルディオスを見た。

「アドリ様が誰に柄飾りを贈られるのか、お訊ねにならないのですか?」

 俺じゃないのかと言いさして、イルディオスは唇をつぐんだ。
 エティケがこう言うからには、贈られる相手は自分ではないのだろう。そう思うと、胸がじくりと痛んだ。

「私がいただくんです。いいでしょう。どれだけ金貨を積まれても、殿下には見せて差し上げるだけですよ」
「……べつに、欲しいなんて言ってないだろう」

 エティケはくすりと笑って、それ以上何も言わない。こういうところがエブロとは違う。
 自慢げなエティケが羨ましくないと言えば嘘になるが、この乳兄弟がアドリーシャを大切に思ってくれていることが、イルディオスは嬉しかった。

「もし彼女に著しく害をなす者がいれば、切り捨てて良い。俺が責を取る」

 アドリーシャが知ったなら、きっと眉を顰めて拒むだろう。
 そう頭の隅で思いながらもイルディオスが口にした命令に、エティケは唇をつり上げて頷いた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす

まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。  彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。  しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。  彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。  他掌編七作品収録。 ※無断転載を禁止します。 ※朗読動画の無断配信も禁止します 「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」  某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。 【収録作品】 ①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」 ②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」 ③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」 ④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」 ⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」 ⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」 ⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」 ⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」

真実の愛は、誰のもの?

ふまさ
恋愛
「……悪いと思っているのなら、く、口付け、してください」  妹のコーリーばかり優先する婚約者のエディに、ミアは震える声で、思い切って願いを口に出してみた。顔を赤くし、目をぎゅっと閉じる。  だが、温かいそれがそっと触れたのは、ミアの額だった。  ミアがまぶたを開け、自分の額に触れた。しゅんと肩を落とし「……また、額」と、ぼやいた。エディはそんなミアの頭を撫でながら、柔やかに笑った。 「はじめての口付けは、もっと、ロマンチックなところでしたいんだ」 「……ロマンチック、ですか……?」 「そう。二人ともに、想い出に残るような」  それは、二人が婚約してから、六年が経とうとしていたときのことだった。

五歳の時から、側にいた

田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。 それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。 グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。 前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。

人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。

松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。 そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。 しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。

勘違い令嬢の心の声

にのまえ
恋愛
僕の婚約者 シンシアの心の声が聞こえた。 シア、それは君の勘違いだ。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

届かぬ温もり

HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった····· ◆◇◆◇◆◇◆ すべてフィクションです。読んでくだり感謝いたします。 ゆっくり更新していきます。 誤字脱字も見つけ次第直していきます。 よろしくお願いします。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

処理中です...