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触れがたいひと 1

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 イルディオスの朝は早い。
 うまく眠れないでいた時間が長すぎたせいで、アドリーシャが力を宥めてくれるようになった今も、夜が明けきらぬうちに目が覚めてしまうのだ。

 朝の鍛錬と食事を終えて宮殿パラグへ向かうと、いつものように兄が執務室を訪ねてきた。

「おはよう、イル。今日は少し相談があってね」
「おはようございます。俺にできることでしたら何でもしましょう」

 ユーゴウスはうんと微笑み、湯気の立つ珈琲を置いた侍従を下げさせる。
 勧められるままに口をつけた珈琲の濃さに、イルディオスは瞬いた。向かいに座したユーゴウスの目元には、濃い影が刻まれている。

「あまり眠れていないのですね」
「この時期はどうしてもね。おまえはきちんと眠れているようで安心した」

 ユーゴウスは、イルディオスに果実が見つかったことを誰より喜んだ人だ。
 イルディオスがアドリーシャを食べないと決めたと聞いたときには呆れていたが、死なないための手立てを見つけなければそれなりの対処をすると忠告しつつも、結局は好きなようにすればいいと言ってくれた。

「この五年で、随分元気になったな。おまえの表情が豊かになって、兄として喜んでいるんだ」
「はい。アドリーシャが良くしてくれているお陰です」
「まあ、相続人にはなってくれないようだけど。せっかく私が署名してあげたというのに、なかなか書類が上がってこないとはな」
「……成人の宴の後に、改めて話をします」

 ユーゴウスは片方の眉を跳ね上げて、いつも柔和な笑みを浮かべている唇を歪める。

「私の話も、成人の宴の後のことだ。イレンザと会談を行うと伝えていただろう? 正式に日取りが決まったから、同席してほしい。おまえがいてくれるだけで、イレンザの動きを抑止できる」

 国境を挟んだ隣に位置するイレンザ公国は、かつて権勢を誇った大国が分裂して独立した国の一つである。旨みのある土地を確保できなかったために、武力を磨くことで領土を押し広げてきたイレンザの方針は、イルディオスたちの祖父の代に起こった戦で一旦収まりを見せていたはずだった。
 しかし、イレンザはこの数年で、先の戦で手に入れられなかったヴァルダノの鉱山を再びねらい始めたのである。

「もちろんです。使節団が宮殿に滞在する間は、俺の騎士団から出す警護も増やしましょう」
「ありがとう。イレンザ公は本当に強欲だからな。老いもあるのだろうが。かと言って、公子が無欲であるかと言われれば違うんだが」

 二国間の膠着状態が続いているのは、老齢のイレンザ公と公子の間で意見が割れており、イレンザ国内でも揉めているせいでもある。

 長引く交渉に業を煮やしているのはイレンザだけではない。早々に戦を起こして決着をつけてしまおうという意見が度々出るが、長期的な戦になれば武力に秀でたイレンザに分が上がるという理由から、ユーゴウスは平和的解決を望む姿勢を崩さなかった。

 イルディオスもまた、兄の意見を支持していた。
 大軍をなぎ倒すといった広範囲の威力がないのも理由だが、何よりアドリーシャに負担を強いてしまう。戦となれば、イルディオスは出征を免れない。王族の義務として力を振るうよう求める人々は、当然のようにアドリーシャを軍に帯同させろと言うだろう。

「公子と取引できそうですか?」
「公子は公子で、代替わりの支援に加えて鉱山の採掘権まで欲しがる。イレンザの欲深さにはまったく恐れ入るな」

 ユーゴウスは、会談の議題となる鉱山資源の流通や交易についてイルディオスに相談すると、朝食を食べに行くと言って立ちあがる。妻を愛しすぎているユーゴウスは、家族と一緒に食事を取ることを欠かさない。

「本当に、成人の宴の前に婚約を申し入れなくていいのか? アドリーシャだって、相続人は拒んでも、婚約者なら頷いてくれるかもしれないだろう」
「それは……後見人が被後見人に求婚を申し入れるのは、ともすれば脅迫に等しいでしょう」

 ユーゴウスは微かに嘆息すると、しようのなさそうな目で弟を見た。
 イルディオスが素直に肯えないことにぶつかる度に、ユーゴウスはいつもそんな表情をする。
 ユーゴウスは弟の頭を乱暴にかき乱すと、そろそろ行くと言って踵を返した。イルディオスはくしゃくしゃになった髪を指でつまむと、小さくため息をついた。


 朝の議会を終えたイルディオスは、そのまま訓練場に向かおうとしたところを宰相に呼び止められた。
 宰相の執務室に招かれてから、しばし経ち。扉の外で控えていたエブロは、イルディオスの顔をちらりと伺って目を瞬かせる。気心知れたこの乳兄弟は、表情が薄くて何を考えているのかわからないと評判のイルディオスの機嫌にも敏い。

 エブロが口を開いたのは、人気のない廊下にさしかかったときのことだった。

「何をそう苛立ってるんです?」
「イレンザとの見合いを提案された。あちらの姫を迎え入れれば、戦も防げるのではないかとな」
「あちらの姫って、まだ五つかそこらじゃないですか」

 なるほどねえ、とエブロは唇を歪めてみせる。

 イレンザの姫をウィルヘルムの伴侶にすれば、内政干渉の余地を与えてしまう。イルディオスならば王位継承権を放棄している上に、年齢差があるからイレンザの血を引く子どもは生まれにくい。果実がいるから欲求不満にもならないだろうと暗に匂わせた宰相は、イルディオスが即座に断ると、陛下にも反対されましたよといけしゃあしゃあと宣った。

 そうして、宰相は、イルディオスが一向に果実と婚約しようとしないのを見て取った貴族たちの中に、王弟に娘を売り込もうとする動きがあると忠告してきたのである。

「さっさとアドリ様と婚約すればいいじゃないですか。縁談を断る手間もなくなるでしょうに」
「何度も言っているだろう。アドリを物扱いするなと」

 イルディオスが睨んだ先で、けれどもエブロは悠然と笑う。

「エティケは随分アドリ様に入れ込んでますけど、俺は違います」
「早急に改めろ。俺の大切なものを守れてはじめて、お前は俺の騎士たりえるのだから」

 廊下の角から届く人の気配を悟って、話はそこで途切れた。
 わかってますよと言うようにエブロが肩を竦めたので、イルディオスもそれ以上は追及しなかった。


 イルディオスが屋敷に戻って書類を見ていると、肌の下で翼がアドリーシャの帰宅を悟ってざわめきだした。窓のほうを見遣って視線を戻すと、書類にインク溜まりができている。丸めた書類をくず入れに放り込んで書類を書き直していると、扉が叩かれた。

「殿下、本日の報告をしに参りました」

 一礼したエティケは、神殿でのアドリーシャの様子を語りはじめる。

 こうしていつ何時も騎士を付けるのは過保護に過ぎるのだろうし、アドリーシャにとっても窮屈なことだろう。監視を付けていることに後ろめたさを覚えないわけではなかったが、イルディオスはこうしてアドリーシャの様子を窺い知るのが好きだった。

 エティケは、果実たちと楽しそうにお喋りを楽しみながら柄飾りを編んでいたアドリーシャの様子を微笑ましそうに語り終えると、ちらりとイルディオスを見た。

「アドリ様が誰に柄飾りを贈られるのか、お訊ねにならないのですか?」

 俺じゃないのかと言いさして、イルディオスは唇をつぐんだ。
 エティケがこう言うからには、贈られる相手は自分ではないのだろう。そう思うと、胸がじくりと痛んだ。

「私がいただくんです。いいでしょう。どれだけ金貨を積まれても、殿下には見せて差し上げるだけですよ」
「……べつに、欲しいなんて言ってないだろう」

 エティケはくすりと笑って、それ以上何も言わない。こういうところがエブロとは違う。
 自慢げなエティケが羨ましくないと言えば嘘になるが、この乳兄弟がアドリーシャを大切に思ってくれていることが、イルディオスは嬉しかった。

「もし彼女に著しく害をなす者がいれば、切り捨てて良い。俺が責を取る」

 アドリーシャが知ったなら、きっと眉を顰めて拒むだろう。
 そう頭の隅で思いながらもイルディオスが口にした命令に、エティケは唇をつり上げて頷いた。

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