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柄飾りの思い出 1
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「僭越ながら申し上げます。お嬢様が殿下をお好きになるのは自由ですが、振り向いていただくのは難しいかもしれませんよ」
アドリーシャが屋敷での暮らしに慣れてしばらく経った頃、そう囁いたのはイルディオス直属の騎士団で副団長を務めるパウロだった。
医師の助言に従って、日除けの下で風に当たりがてら騎士団の訓練を眺めていたアドリーシャは、興味深く彼の忠告を聞いた。パウロが、若い時分から心を捧げている先の王妃の願いを汲んで王弟の傍近くに付いていることは、貴族の間でよく知られた話であったから。
「あなたは後悔などしていないのに、私にはやめろと説くのね」
「お嬢様はまだお若くていらっしゃいますので」
パウロは、若手の騎士たちに囲まれたイルディオスを示した。
「殿下の剣に柄飾りがついているのがおわかりですか?」
目を向けた先で、イルディオスが騎士の攻撃を軽やかにいなし、よろめいた足下を的確に蹴りつけて転ばせる。反対側から突き入れられた剣先を絡め取るようにして封じたかと思えば、剣の柄で腹をしたたかに突く。ぐふっと呻いた騎士を引き寄せて盾にしたイルディオスは、脅えながらも踏み込んできた騎士の剣を跳ね上げた。
慌てた騎士の腹を蹴り飛ばした勢いのまま、前後から斬りかかられたのを剣と鞘とで防ぐ。ぐっと鞘ごと引き寄せた騎士の腕を封じたまま、反対の騎士を相手にして、しばし。甲高い音が立って、飛ばされた剣が地に倒れた騎士の肩口すれすれに突き立った。ひッ、と擦れた悲鳴が上がる。
あっという間に自分を囲んだ十人の騎士を伸してしまったイルディオスは、なめらかな動きで剣を鞘にしまう。澄んだ音が、鞘にしまわれる軌道の鋭さを見る者に伝えた。
既に収められた剣が描いた透明な軌跡をなぞるように揺れるのは、上等な絹糸を丁寧に編み込んで作られた柄飾りだ。
イルディオスはふっと構えを解くと、不思議そうに地面に倒れ込んだ騎士たちを眺めた。
「あまりに手応えがないが、腹が減っているのか? 少し早いが、休憩にするか?」
「殿下、部下たちは真面目にやっています。まだ入りたての者たちですよ。ご容赦ください」
パウロは、先輩騎士に若手を扱く者とイルディオスの相手をする者に分かれるよう指示を出す。
そうして、汗一つかいていないイルディオスを見つめるアドリーシャに微笑んだ。
「殿下はもう十年ほど、あの柄飾りを大事にしておいでです。騎士にとって、敬愛する主や想いを寄せる相手からもらう柄飾りは、勲章にも代えがたい祝福ですから」
地下室で読んだ物語を思い出しながら、アドリーシャはかすかな胸の痛みに気づかないふりをした。
騎士へ送られる柄飾りは、元をたどれば、ヴァルダノの地が最初に戦に見舞われた頃、当時の王が婚約者から護符として捧げられたことが始まりである。
優れた剣の使い手として歴史に名を残したこの王と後の王妃にあやかって真似されたことで始まった贈り物は、時を経た今もなお受け継がれている。
そのため、ヴァルダノの騎士が手にする剣には、柄に騎士への贈り物を結わえるための飾りが付けられる習いだ。この頃は剣の邪魔にならないよう鞘に付けるほうが主流だというが、イルディオスの剣は古式ゆかしい伝統に則った造りをしているから、柄に飾っているのだろう。
「おや、お訊きにならないのですか?」
「殿下の思い人の名を? 訊かないわ」
目を眇めて微かに顎を上げた主の果実を見つめたパウロは、くっと喉を鳴らして笑った。
アドリーシャは、口を閉ざしたまま独りごちる。
(殿下のお傍にいれば、いずれわかることだわ)
予想通り、アドリーシャがイルディオスの思い人の名を知るのは、それからさほど遠くない日のことだった。
そっと名前を呼ばれて、アドリーシャは瞼を押し上げる。
ぼやけた視界が像を結んで、こちらを覗き込んでいるエティケの顔が見えた。遅れて、アドリーシャはいま自分が馬車の中にいることを思い出す。
「アドリ様、お気づきですか。もうすぐお屋敷に到着しますよ」
「眠ってしまっていたわ。講義で随分頭を使ったから……」
「教授のお相手を務めておいででしたしね」
特別講義にあたって教師がアドリーシャを探していたのは、王立大学の教授が突然学生の意見を聞きたいと要望を出したからだった。学校側は面目を保つために、優秀な生徒を事前に選んで前の席に固め、求められれば答えるようにと言い含めたのである。
教授と目が合ったアドリーシャは求められるままに講義内容への意見を述べ、さらには議論を広げる討論めいた会話の相手役を務めた。
学生だから甘い評価を受けているのだろうが、教授から神学や古語、歴史の知識を褒められたことはうれしかった。アドリーシャが概ね落ち着いて学生生活を送れているのも、身分よりも知識を重んじる王立学校の方針に依るところが大きい。良い成績を修め続ければ、侮蔑の目は避けられずとも教師たちの口だけは閉ざされる。
アドリーシャはふと、頑なに口を引き結んでいたゲオルグの横顔を思い出した。
「……弟に厳しくしすぎたかしら」
「ちっとも。弟君は無礼でした」
馬車の外に隙なく目を配るエティケの返答は、実に淀みない。そうね、とアドリーシャは笑った。
「宮殿から遣いが来ているようです」
速度を落とした馬車に駆け寄ってくる足音が聞こえたのに、エティケが扉を薄く開けた。
漏れ聞こえたのは意外な人物の声に目を向けると、エティケが頷いて一度扉を閉ざす。
「王妃殿下からアドリ様にお手紙が届いているそうですよ」
きっとお茶会の誘いだろう。アドリーシャは唇をほころばせた。
「王妃殿下の伝令なら、応接間でお迎えしないと失礼にあたるわね」
「そうですね。今日のドレスなら、お召し替えは省略しても良さそうです」
アドリーシャが屋敷での暮らしに慣れてしばらく経った頃、そう囁いたのはイルディオス直属の騎士団で副団長を務めるパウロだった。
医師の助言に従って、日除けの下で風に当たりがてら騎士団の訓練を眺めていたアドリーシャは、興味深く彼の忠告を聞いた。パウロが、若い時分から心を捧げている先の王妃の願いを汲んで王弟の傍近くに付いていることは、貴族の間でよく知られた話であったから。
「あなたは後悔などしていないのに、私にはやめろと説くのね」
「お嬢様はまだお若くていらっしゃいますので」
パウロは、若手の騎士たちに囲まれたイルディオスを示した。
「殿下の剣に柄飾りがついているのがおわかりですか?」
目を向けた先で、イルディオスが騎士の攻撃を軽やかにいなし、よろめいた足下を的確に蹴りつけて転ばせる。反対側から突き入れられた剣先を絡め取るようにして封じたかと思えば、剣の柄で腹をしたたかに突く。ぐふっと呻いた騎士を引き寄せて盾にしたイルディオスは、脅えながらも踏み込んできた騎士の剣を跳ね上げた。
慌てた騎士の腹を蹴り飛ばした勢いのまま、前後から斬りかかられたのを剣と鞘とで防ぐ。ぐっと鞘ごと引き寄せた騎士の腕を封じたまま、反対の騎士を相手にして、しばし。甲高い音が立って、飛ばされた剣が地に倒れた騎士の肩口すれすれに突き立った。ひッ、と擦れた悲鳴が上がる。
あっという間に自分を囲んだ十人の騎士を伸してしまったイルディオスは、なめらかな動きで剣を鞘にしまう。澄んだ音が、鞘にしまわれる軌道の鋭さを見る者に伝えた。
既に収められた剣が描いた透明な軌跡をなぞるように揺れるのは、上等な絹糸を丁寧に編み込んで作られた柄飾りだ。
イルディオスはふっと構えを解くと、不思議そうに地面に倒れ込んだ騎士たちを眺めた。
「あまりに手応えがないが、腹が減っているのか? 少し早いが、休憩にするか?」
「殿下、部下たちは真面目にやっています。まだ入りたての者たちですよ。ご容赦ください」
パウロは、先輩騎士に若手を扱く者とイルディオスの相手をする者に分かれるよう指示を出す。
そうして、汗一つかいていないイルディオスを見つめるアドリーシャに微笑んだ。
「殿下はもう十年ほど、あの柄飾りを大事にしておいでです。騎士にとって、敬愛する主や想いを寄せる相手からもらう柄飾りは、勲章にも代えがたい祝福ですから」
地下室で読んだ物語を思い出しながら、アドリーシャはかすかな胸の痛みに気づかないふりをした。
騎士へ送られる柄飾りは、元をたどれば、ヴァルダノの地が最初に戦に見舞われた頃、当時の王が婚約者から護符として捧げられたことが始まりである。
優れた剣の使い手として歴史に名を残したこの王と後の王妃にあやかって真似されたことで始まった贈り物は、時を経た今もなお受け継がれている。
そのため、ヴァルダノの騎士が手にする剣には、柄に騎士への贈り物を結わえるための飾りが付けられる習いだ。この頃は剣の邪魔にならないよう鞘に付けるほうが主流だというが、イルディオスの剣は古式ゆかしい伝統に則った造りをしているから、柄に飾っているのだろう。
「おや、お訊きにならないのですか?」
「殿下の思い人の名を? 訊かないわ」
目を眇めて微かに顎を上げた主の果実を見つめたパウロは、くっと喉を鳴らして笑った。
アドリーシャは、口を閉ざしたまま独りごちる。
(殿下のお傍にいれば、いずれわかることだわ)
予想通り、アドリーシャがイルディオスの思い人の名を知るのは、それからさほど遠くない日のことだった。
そっと名前を呼ばれて、アドリーシャは瞼を押し上げる。
ぼやけた視界が像を結んで、こちらを覗き込んでいるエティケの顔が見えた。遅れて、アドリーシャはいま自分が馬車の中にいることを思い出す。
「アドリ様、お気づきですか。もうすぐお屋敷に到着しますよ」
「眠ってしまっていたわ。講義で随分頭を使ったから……」
「教授のお相手を務めておいででしたしね」
特別講義にあたって教師がアドリーシャを探していたのは、王立大学の教授が突然学生の意見を聞きたいと要望を出したからだった。学校側は面目を保つために、優秀な生徒を事前に選んで前の席に固め、求められれば答えるようにと言い含めたのである。
教授と目が合ったアドリーシャは求められるままに講義内容への意見を述べ、さらには議論を広げる討論めいた会話の相手役を務めた。
学生だから甘い評価を受けているのだろうが、教授から神学や古語、歴史の知識を褒められたことはうれしかった。アドリーシャが概ね落ち着いて学生生活を送れているのも、身分よりも知識を重んじる王立学校の方針に依るところが大きい。良い成績を修め続ければ、侮蔑の目は避けられずとも教師たちの口だけは閉ざされる。
アドリーシャはふと、頑なに口を引き結んでいたゲオルグの横顔を思い出した。
「……弟に厳しくしすぎたかしら」
「ちっとも。弟君は無礼でした」
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漏れ聞こえたのは意外な人物の声に目を向けると、エティケが頷いて一度扉を閉ざす。
「王妃殿下からアドリ様にお手紙が届いているそうですよ」
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