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懐かしい横顔 2
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「そろそろ講義が始まるぞ。姉弟喧嘩はその辺で切り上げろ」
生徒たちの間から進み出たのは、濃い茶の髪を短く整えた精悍な顔立ちの青年だ。
アドリーシャの同級生であるターレル伯爵家の三男テオドルは、諍いの仲裁に来たとは思えない爽やかさで微笑んだ。
「カルディアニ、先生が君の姿がないと気にしておいでだ。学年一の優等生が来ていないのであれば、教授に申し訳が立たないとおっしゃってな」
カルディアニ? ゲオルグが呟いて、遅れてそれがアドリーシャを指す名だと気づいたのだろう。なめらかな肌に、かっと怒りの色がはしる。
アドリーシャは、イルディオスの被後見人として学校に入学している。カルディアニは、イルディオスが王位継承権を放棄した際に授けられた家名だ。この学校で、アドリーシャをヒュミラと呼ぶ者は一人としていない。
「新入生の君もほどほどにな。俺たち同級生でさえ、彼女と討論するのは荷が重いと感じているんだ。新入生なら尚更歯が立たないだろう」
「……王弟殿下だけでは飽き足らず、男子生徒まで手中に収めていらっしゃるとは。流石は淫蕩な果実らしい」
エティケが大きく一歩踏み出したのに、アドリーシャはため息する。
短く名を呼べば、エティケは抜きかけた剣の柄を握ったまま不服そうにこちらを見つめてくる。アドリーシャは数歩進み出て、騎士と弟の間に身体を差し入れた。
「私のことをどう思うのかはあなたの自由だけれど、王弟殿下の騎士に血の繋がった弟を切らせるのは忍びないわ」
貴族の文脈に則った言い回しをしたアドリーシャが、言外に王弟を侮辱するなと伝えたのがわかったのだろう。ゲオルグは顔を歪めたが、自分に非があったことは理解したらしく、渋々ながらも頷いた。
その頑なな面差しは、アドリーシャにこの弟がまだ小さかった頃、母の愛情を欲しがっても与えられずに癇癪を起こしていたときの横顔を思い出させた。
「……久しぶりに会えて良かったわ。よく学んでよく食べて、健やかに過ごしてね。先程はああ言ったけれど、私から関わることはないと約束しましょう」
アドリーシャは顔を背けたままこちらを見ない弟に微笑みかけると、エティケを促して講堂に向かった。数歩距離を置いて、テオドルが追いかけてくる。
講堂の中へ足を踏み入れると、テオドルは微かにため息した。
「カルディアニは優しいな。随分嫌なことを言われたというのに」
「仲裁に入るだなんて面倒を引き受けてくれる、ターレルには及ばないわ」
アドリーシャが礼を言うと、テオドルは何でもないことだと首を振る。
ターレル伯爵家は、百年ほど前の戦で勲功を上げて叙爵された騎士を祖先に持つ家だ。
比較的歴史の浅い家門だが、代々優秀な騎士を輩出しており、有事の際には王家へ忠義を尽くすことから、貴族の間でも強い影響力を持っている。
騎士を志すテオドルは、勉学にも熱心な優等生として知られた人気者だ。彼は入学から現在に至るまで、ほとんどアドリーシャに対する態度を変えなかった数少ない一人でもある。
「……先生がカルディアニをお探しだったのは本当だが、別に頼まれて探しに出たわけではないんだ。だから、礼を言われると面はゆい」
瞬いたアドリーシャが、不思議そうな顔をしていたのだろう。
テオドルは可笑しそうに笑って、壇上を歩きながら生徒の顔をつぶさに見つめていた教師に軽く手を挙げて合図する。
友人に席を取ってもらっているというテオドルとは、そこですぐに分かれた。
ほっとした顔で手招きする教師のもとへと進みながら、アドリーシャは思い出す。最初にテオドルから話しかけられたとき、イルディオスが普段どのように鍛錬を積んでいるのか教えてもらえないかと訊ねられたことを。
力ある者の多くが人ならぬ力に頼りがちな戦い方をする中で、イルディオスは優れた剣の技量を持つ騎士として知られる。武芸大会では模擬試合にしか出ないが、それでもイルディオスの剣を一目見ようと大勢が詰めかけると聞いたことがあった。
騎士を目指す者にとってイルディオスは憧れの存在らしく、学校でもイルディオスに敬意を払っている騎士見習いは、アドリーシャに比較的親切だった。
(いつだって、殿下は私を守ってくださる。殿下の翼が届かない場所に居てさえも)
大切にされるのは嬉しいことのはずなのに、どこか寂しくもある。
アドリーシャは、イルディオスに守られてばかりだ。きっと、素直に感謝したほうがイルディオスは喜ぶだろう。そうと分かっているのに、アドリーシャの心は思っている通りには転がってくれないでいる。
アドリーシャは瞬きを一つして、あの艶やかで美しい翼の持ち主のことをしばし頭の中から追い出そうとする。そんなことをしてもうまくいかないことは承知の上で。
生徒たちの間から進み出たのは、濃い茶の髪を短く整えた精悍な顔立ちの青年だ。
アドリーシャの同級生であるターレル伯爵家の三男テオドルは、諍いの仲裁に来たとは思えない爽やかさで微笑んだ。
「カルディアニ、先生が君の姿がないと気にしておいでだ。学年一の優等生が来ていないのであれば、教授に申し訳が立たないとおっしゃってな」
カルディアニ? ゲオルグが呟いて、遅れてそれがアドリーシャを指す名だと気づいたのだろう。なめらかな肌に、かっと怒りの色がはしる。
アドリーシャは、イルディオスの被後見人として学校に入学している。カルディアニは、イルディオスが王位継承権を放棄した際に授けられた家名だ。この学校で、アドリーシャをヒュミラと呼ぶ者は一人としていない。
「新入生の君もほどほどにな。俺たち同級生でさえ、彼女と討論するのは荷が重いと感じているんだ。新入生なら尚更歯が立たないだろう」
「……王弟殿下だけでは飽き足らず、男子生徒まで手中に収めていらっしゃるとは。流石は淫蕩な果実らしい」
エティケが大きく一歩踏み出したのに、アドリーシャはため息する。
短く名を呼べば、エティケは抜きかけた剣の柄を握ったまま不服そうにこちらを見つめてくる。アドリーシャは数歩進み出て、騎士と弟の間に身体を差し入れた。
「私のことをどう思うのかはあなたの自由だけれど、王弟殿下の騎士に血の繋がった弟を切らせるのは忍びないわ」
貴族の文脈に則った言い回しをしたアドリーシャが、言外に王弟を侮辱するなと伝えたのがわかったのだろう。ゲオルグは顔を歪めたが、自分に非があったことは理解したらしく、渋々ながらも頷いた。
その頑なな面差しは、アドリーシャにこの弟がまだ小さかった頃、母の愛情を欲しがっても与えられずに癇癪を起こしていたときの横顔を思い出させた。
「……久しぶりに会えて良かったわ。よく学んでよく食べて、健やかに過ごしてね。先程はああ言ったけれど、私から関わることはないと約束しましょう」
アドリーシャは顔を背けたままこちらを見ない弟に微笑みかけると、エティケを促して講堂に向かった。数歩距離を置いて、テオドルが追いかけてくる。
講堂の中へ足を踏み入れると、テオドルは微かにため息した。
「カルディアニは優しいな。随分嫌なことを言われたというのに」
「仲裁に入るだなんて面倒を引き受けてくれる、ターレルには及ばないわ」
アドリーシャが礼を言うと、テオドルは何でもないことだと首を振る。
ターレル伯爵家は、百年ほど前の戦で勲功を上げて叙爵された騎士を祖先に持つ家だ。
比較的歴史の浅い家門だが、代々優秀な騎士を輩出しており、有事の際には王家へ忠義を尽くすことから、貴族の間でも強い影響力を持っている。
騎士を志すテオドルは、勉学にも熱心な優等生として知られた人気者だ。彼は入学から現在に至るまで、ほとんどアドリーシャに対する態度を変えなかった数少ない一人でもある。
「……先生がカルディアニをお探しだったのは本当だが、別に頼まれて探しに出たわけではないんだ。だから、礼を言われると面はゆい」
瞬いたアドリーシャが、不思議そうな顔をしていたのだろう。
テオドルは可笑しそうに笑って、壇上を歩きながら生徒の顔をつぶさに見つめていた教師に軽く手を挙げて合図する。
友人に席を取ってもらっているというテオドルとは、そこですぐに分かれた。
ほっとした顔で手招きする教師のもとへと進みながら、アドリーシャは思い出す。最初にテオドルから話しかけられたとき、イルディオスが普段どのように鍛錬を積んでいるのか教えてもらえないかと訊ねられたことを。
力ある者の多くが人ならぬ力に頼りがちな戦い方をする中で、イルディオスは優れた剣の技量を持つ騎士として知られる。武芸大会では模擬試合にしか出ないが、それでもイルディオスの剣を一目見ようと大勢が詰めかけると聞いたことがあった。
騎士を目指す者にとってイルディオスは憧れの存在らしく、学校でもイルディオスに敬意を払っている騎士見習いは、アドリーシャに比較的親切だった。
(いつだって、殿下は私を守ってくださる。殿下の翼が届かない場所に居てさえも)
大切にされるのは嬉しいことのはずなのに、どこか寂しくもある。
アドリーシャは、イルディオスに守られてばかりだ。きっと、素直に感謝したほうがイルディオスは喜ぶだろう。そうと分かっているのに、アドリーシャの心は思っている通りには転がってくれないでいる。
アドリーシャは瞬きを一つして、あの艶やかで美しい翼の持ち主のことをしばし頭の中から追い出そうとする。そんなことをしてもうまくいかないことは承知の上で。
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